2章…武士道の淵源
武士道という言葉からすぐ連想されるのが『葉隠』であり、「武士道と云は死ぬ事と見付けたり」佐賀藩の山本常朝の「語録」であるが、この言葉によって現代日本人の多くが、武士道を”死に急ぎの哲学”と誤解したのである。武士が”死に急”いでは失格なのである。武士の第一の義務は、その国(藩、領土)を守り、主君に忠節を尽くすことだから、武士は最後の最後まで生き延びなければならないのである。死に急いでは、その義務を果たせない。「武士たる者、悟りを開き、いつ死んでも悔いることのないよう、立派に生きろ」という”立派の生”のあり方を説いているのであろう。
「厳密なる意味においての道徳的教義に関しては、孔子の教訓は武士道の最も豊富なる淵源であった。君臣・父子・夫婦・長幼ならびに朋友間における五倫の道は、経書が中国から輸入される以前からわが民族的本能の認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない。政治道徳に関する彼の教訓の性質は、平静仁慈にしてかつ処世の智慧に富み、治者階級たる武士には特に善く適合した。孔子の貴族的保守的なる言は、武士たる政治家の要求に善く適応したのである」
「君臣の義・父子の親・夫婦の別・兄弟の長幼の序・朋友の信」また孔子、孟子の儒学は、人が常に守るべき五つの道徳、つまり「五常(仁・義・礼・智・信)」も説いており「五倫」「五常」は武士道の骨格になっている。孔孟の儒教思想は江戸時代に朱子学として武士階級に多大の影響を与えた。そして儒教の教えが、”武士道の最も豊富なる淵源”であった。
武士とは”武力をもって公的に奉仕する武者”であり、合戦を”職業”とする兵であった。江戸時代は戦国時代と異なり、太平(泰平)の時代であった。明暦二年(1656)山鹿素行は”士(さむらい)”の本分について「農・工・商は天下の三つの宝である。士が農・工・商の働きもないのに、これら三民の長としていられるのはなぜか。それはほかでもない、みずからの身を修め心を正しくし、すすんでは国を治め天下を平和に保つからである」武士は庶民の範である。支配階級である武士は、三民の模範となるべく、正義を貫き私欲に走らず、自分の言葉、約束は命懸けで守り、不正や名誉のためには死をもってあがなうことが義務づけられたのである。そのために武士に求められた徳目は「忠誠・犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛」ということになる。
「孔子を知的に知っているに過ぎざる者をば、「論語読みの論語知らず」と嘲る俚諺がある。典型的なる一人の武士「西郷南洲」は、文学の物識をば書物の蟲と呼んだ。また或る人は「三浦梅園」は学問を臭き菜に喩え、「学問は臭き菜のようなり、能く能く臭みを去らざれば用いがたし。少し書を読めば少し学者臭し、余計書読めば余計学者臭し、こまりものなり」
武士道は知識それ自体を目的として求むべきではなく、叡智獲得の手段として求むべきであるとなした。それ故に、この目的にまで到達せざる者は、注文に応じて詩歌名句を吐きだす便利な機械に過ぎざるものとみなされた。かくして知識は人生における実践躬行と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明において最大の説明者を見いだした。彼は知行合一を繰り返して倦むところを知らなかったのである」
武士道に直接的な影響を及ぼしたのは、江戸時代中期に浸透した王陽明(1472-1528)の思想(陽明学)の「知行合一説」であった。それは「知」は「行」のもとであり、「行」は「知」の発現である、とする実践の哲学である。武士道はこの「知行合一」を重視するものであり、頭でっかちな「知識人」は疎んじられた。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


最近のコメント