大台ケ原と一畳敷書斎

政府の北海道開拓政策に反対し、開拓使を辞めた松浦武四郎は再び諸国を歩き始めました。骨董収集に熱中したり、全国の天満宮に鏡を奉納したり、滋賀県の三井寺に蝦夷地調査で使った鍋を収めた塚を作るなど多彩な活動を行いました。

そして明治十八年(1885)武四郎(68才)から70才までの間、毎年大台ケ原の調査に乗り出しました。大台ケ原は三重県と奈良県の県境にあり、標高1600m.を越す高い山が連なる「近畿の尾根」と言われるところです。晩年の遊歴を通し武四郎は、まるで北海道の大地を思わせる広大な大台ケ原を終焉の地と定めるほど大台ケ原を愛しました。そしてその様子を『乙酉掌記(いつゆしょうき)』『丙戌前記(へいじゅつぜんき)』『丁亥前記(ていがいぜんき)』という三冊の本にまとめ出版しました。武四郎は大台ケ原探査の目的は、未開の地大台ケ原の様子を皆の衆に明らかにすることにありました。

武四郎は晩年、長年培った人脈を通じて全国の神社仏閣から取り寄せた歴史的建造物の古材で作った畳一枚の小さな書斎、それが「一畳敷」でした。明治十九年(1886)神田五軒町の自宅の庭に張り出す格好で増築、日焼けした古色溢れた寺院の古材を柱に神社の板切れを床の間板へと使用しました。古材の入手先は、北海道からではなく、奈良春日大社・駿府久能山稲荷社・厳島神社・伊勢神宮・出雲大社・宇治平等院・西京東山東福寺仏殿ほか多数の神社仏閣の由緒ある古材でした。寄進地は武四郎が晩年多く旅した西日本地方に集中していました。木片の古くは奈良時代に遡り鎌倉・江戸時代初期のものが多く寄進され、生涯の大半を旅の空にと暮した武四郎にとって、大邸宅に住むことは虚しく「一畳敷」は隠棲の場であるとともに終焉の場でもありました。

晩年、古銭蒐集や考古学にも関心を寄せ、この日向の一隅で古銭を広げ、書をめくってすごし柱の一本、壁板の一枚に目をやっては各地に住まいする旧友のことを思い出していました。

この一畳敷を建てた際、各部材の由来を記述した明治二十年の『木片勧進』という本に武四郎はこれを後世に残すために建てたのではなく、今まで全国各地を歩き様々な人々と交流してきたが、その思い出として建てたものであり、自分が亡くなったら、この一畳敷書斎の古色蒼然とした木材で亡骸を焼き、遺骨は大台ケ原に埋めて欲しいと遺言していました。

しかし、武四郎の死後松浦家では非常に貴重な建築物であることから、一畳敷を保存することを決め紀州徳川家の施設である南葵文庫へと移築しました。その後いくたびかの変遷を経て現在国際基督教大学の敷地内にあり、国の登録文化財となっています。

『一畳敷』の完成から一年余り過ぎた明治二十一年(1888)2月10日武四郎はその生涯を閉じました。享年71歳でした。合掌。岡倉天心、二葉亭四迷ら歴史上の著名人が眠る東京都豊島区にある染井霊園。その一角に武四郎が眠る松浦家の墓があります。趣味に生き数々のコレクションに囲まれた晩年の生き方とは対照的に武四郎の墓は草木に囲まれ、ひっそりと佇み墓碑銘には全国をくまなく旅し、青年期の武四郎を象徴する『北海居士』の文字がしっかりと刻まれています。

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北海道人樹下午睡図

江戸から明治期の画家、河鍋暁斎に描かせた「武四郎涅槃図」、この絵の中心に描かれているのは、釈迦ではなく穏やかに表情で横たわる松浦武四郎。北海道の調査に生涯をささげ「北海道人」とも号した武四郎が、大好きな絵やモノたちに囲まれて、樹の下で昼寝をするかのように自らの死を迎える姿から、其の名を「北海道人樹下午睡図」とも呼ばれてきました。

涅槃図は横たわる釈迦の周りを弟子や動物たちが泣きながら取り囲み、空から仏母が遣って来るという釈迦の入滅(亡くなること)様子の臨終の場面を描いたものです。インドから広がり、中国、朝鮮を経て日本に入り、奈良時代以降多くの涅槃図が作られました。江戸期に入ると一般家庭にも普及するようになり、市川団十郎ら当時の有名人が亡くなった後、慕う人々が涅槃図を作ることはあったというが武四郎は生前の明治十四年(1881)、本人が64才で製作開始から完成まで約5年間を要しました。

松の樹下で午睡(昼寝)をしているように横たわる武四郎の足元で泣き伏しているのは妻、周りで嘆き悲しむ身近な人々や武四郎自身が収集した思い出の絵や仏像など数多くの品々や動植物、空には浮世絵から抜け出した美女が描かれており、武四郎の夢の涅槃図でありました。

武四郎涅槃図を描いた河鍋暁斎は、絵画の一大流派、狩野派に師事し伝統的な手法を体得しただけでなく、浮世絵や戯画など対象を誇張した絵画にも才能を発揮していました。また反骨の絵師であり投獄されたり奇矯をもって知られていました。世相批判の戯画・狂画・妖怪画が有名であるが、伝統画にも卓越した技量を持っていました。天保二年(1831)の生まれで武四郎より13才下であるが、二人は余程気が合って、武四郎の明治以降の著作の挿絵は河鍋暁斎のものが一番多く載りました。

武四郎と暁斎の親交の深さは、武四郎の刊行本に暁斎が多くの挿絵を寄せていることや、暁斎の絵日記に武四郎をたびたび登場することからも窺える。親しくした者でなければ分からないような品々(束帯天神像や観音像など信仰心を窺わせる絵)が何点も描かれているところから暁斎が武四郎の邸を訪れ、「武四郎涅槃図」の元軸「北海道人樹下午睡図」は、明治十四年(1881)から明治十九年(1886)の間、約五年の歳月をかけて完成しました。

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江戸の風流人と天神信仰

明治六年(1873)松浦武四郎(56才)は、東京の神田五軒町(神田明神の周辺)の敷地六百坪に新築の家を建て、著書の自費出版のほか、骨董の周旋・売買を行い、また自邸の一部では北海道の現地から取り寄せた鰊・鮭・昆布の商いもしていました。

しかし遊歴の心を失わず、武四郎は明治七年頃から再び旅に出て、京都、近畿方面を歩き途次、草津の温泉に泊りました。「頗る繁華の地」「日本無双と云うも評言うならず」草津の秋の風景美に惹かれ、其の時の心境を歌に詠みました。「谷ごし昨日 美置し紅葉に 今日の朝戸出いそがれにけり」…雪国の蝦夷地を何回も探検した経験もある武四郎がこの草津を「土地頗る風烈しく夜寒し」と思ったと紀行文に記述し、谷沢川上流にある高野長英「毒水の碑」を再建しました。

明治十二年には、妻を同伴伊勢・京都・吉野を訪れ、明治十六年(1883)66才の時には、遠く九州まで足を伸ばしました。

旅に出ないときは、文化の中心である東京に住んでいました。河鍋暁斎・鈴木鴛湖(がこ)・富岡鉄斎らの画家を初め書家や高僧らとの交流を深め、文化社会に精通していきました。こうした交流を通じて武四郎は書画や骨董品を集めていきました。

武四郎は外出時には必ず団扇(うちわ)を持ち歩いて、有名人にはサインのおねだりをしていました。市川団十郎や勝海舟ら武四郎の友人・知人の手による書画、詩歌が書かれた「渋団扇帖」はそのよい見本でした。当時の生活文化では交流の深い人に絵を描いて貰ったり、詩歌を詠んで貰ったりするのは日常的な行為でありました。

松浦武四郎は明治維新後に天神信仰を深め、西日本に所在する二十五の天満宮を選んで聖跡と定めて、鏡と共に石碑を奉納しました。武四郎は学問の神様として有名な菅原道真公を信仰する「天神信仰」に熱心で、京都の北野、大阪、大宰府の各天満宮には直径約1m、重さ約120kg.の巨大な銅鏡を作り奉納していきました。また道真公が京都から大宰府へと左遷された際にゆかりの深い25ヶ所の天満宮を聖跡二十五霊社と定め、各天満宮へは直径約30cm.の銅鏡と天満宮の名を刻んだ石標を奉納していきました。そして学校制度が整えられていく中で、学問の神様を紹介するための双六まで作りました。双六は京都を出発して福岡の大宰府まで行き京都へ戻ってくる内容になっており遊びながら菅原道真公の事績を知る事が出来るようになっておりました。.

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北海道開拓の守護神

蝦夷地の開拓が本格化するのは、明治二年(1869)7月に箱館府が開拓使になってからでした。開拓史になったとき松浦武四郎(52才)は開拓大主典ついで開拓判官となりました。明治二年創立当時の開拓長官の年棒は七百石、次官は五百石、判官は三百四十石であったから相当の高給取りでもありました。武四郎は現地に赴かず在京での職務に就いておりました。東京詰めの重要性について「開拓使事業報告」には「開拓草創ノ際官省稟議ニ渉ル物多ク且ツ器具糧食其他日用一切ノ物品概ネ皆給ヲ東京ニ仰ザルハナク…加ルニ開拓長官文武ノ要職ヲ兼常ニ東京ニ在リ因テ其指令等弁理伝達ノ所トス」と記しています。当初は現地よりも重要な指令所的な役割を果たして現地組ではなく、政策立案にあたる在京の行政官でありました。だが明治三年(1870)3月「官に仕えることは、まことに窮屈」性格にあわないと武四郎(53才)はさっさと役所を依願退職してしまいました。

明治二年(1869)1月に薩長土肥の有力4藩により版籍奉還が行われ、国家の体制が大きく変わろうとしているとき、北の大地蝦夷地も明治二年7月箱館府が開拓使に代わり、8月には北方探検家で開拓判官松浦武四郎らの建言によって蝦夷地を北海道と改称されました。

新設の開拓使初代長官に肥前鍋島藩主鍋島直正が任ぜられましたが、これは鍋島藩が早くから外国との接点である長崎警備を任されていて国防への意識が高く、直正は藩財政を倹約して北海道の警護へも早くから着目し研究を怠らなかったからでした。しかし彼は9月の北海道赴任はならず、代わって二代目長官となった東久世通禧(みちとみ)が鍋島藩士・島義勇らを伴って9月3日、明治天皇に拝謁を賜りました。これに先立ち9月1日東京の神祇官においって北海道開拓の守護神として大国魂神(おおくにたまのかみ)大那牟遅神(おおなむちのかみ)少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱を祀るための北海道鎮座神祭が執り行われ、これが北海道神宮(札幌神社)へ神々がまつられる初めての神事でありました。

東久世長官は島判官らを従え開拓三神を奉じ、9月20日英船テールス号にて品川を発ち同25日函館に到着しました。長官は函館に留まり、島判官らは御霊代(三神)を奉じて10月1日函館を出発、長万部・磯谷と陸路を歩み、岩内から海上を更に余市・小樽を通って12日に銭函に到着しました。師走に入ると創成川沿いに建てられた札幌第一番役宅に御霊代(みたましろ)を仮安置しました。この1ヵ月前には早山清太郎(篠路開拓者)が島判官に円山の地を社地とすることを上申し、三方山に囲まれ一面が開けて清らかな豊平川の流れが巡っているところとして決定しました。

翌明治三年2月、島判官は東京へ召還されましたが明治四年5月14日「札幌神社」と社名が決定し、同9月14日円山の地に社殿が完成、開拓判官岩村俊通が祭主となって遷座祭(せんざさい)が執り行われました。

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開拓判官依願免官

明治二年五月に政府より松浦武四郎は蝦夷地開拓御用掛を仰せ付けられた時に次の三条を申し上げました。第一に松前藩を転封する事。第二に好商に場所を請負せることを廃止する事。第三に諸藩に分割(支配させる)の事。この建言に対して、二と三は採用できるが、第一は何分にも出来かねるとの事、このご意向を承って、御用掛を勤めることをお断り申しました。ところが島義勇判官が当分を是非にと申されたものですから官をお受けしたのですが、「何分烏合の官員、区々の論にて十分の見込も相立難く故」なお更に上司に辞官願を到しましたが、何の沙汰もありませぬ。松前藩政こそがアイノに圧制の諸悪の根源、蝦夷地から追い払い、何処かに転じさせなければ北辺の大島の現在も未来も無い、民も危うい赤夷南進の防禦も危うい。この積年の危惧と考えが用いられない、そのことが不本意。従って官にあり禄を喰むことを自分に許す訳にはいかぬ…武四郎は、誰とでもすぐ仲良くなれる社交性を持っているが同時に一本気な正義感の持ち主であった。特定の商人と結託したり、役所特有の派閥を作ったりするのが特に嫌いだった。

明治三年三月、松浦武四郎(53才)は突然役所に長文の辞表を出しました。開拓使初代の長官は鍋島直正であったが、すぐに東久世道禧にかわった。東久世長官は商人の資金力に依拠した開拓政策を採り、露骨に松浦武四郎判官や島義勇判官(のち佐賀の乱で斬刑に処せられた)を忌避することが目立ちました。箱館表(奉行所)から東京に来る用状をすべて秘匿する、情報を与えないのでした。「精勤仕居候も詮無き儀と在候」武四郎は、場所請負制度の復活につながったり、商人の特権を認めたりする政策をとることが許せなかった。2月29日辞官の嘆願書を岩村権判官(副長官)を通じて差し出しました。

「依然と官途に罷在候儀、何分義難忍候間、早々願之通、御免職被仰付様、奉願上候。 恐煌謹言。  三月十五日 松浦開拓判官。

さて一昨日のことと聞きます。帯刀した二人が東久世長官宅を出て、木挽町(歌舞伎座の辺り)の酒店で箱館町人様の二人と待ち合わせて、大酒宴となった由。その座に侍った芸者共が「最早松浦も急(きっと)に片付」と聞き、懇意の者から密かに知らせてくれました。彼女らは暗殺と心配してのことだろうが、座の話は松浦武四郎を罷免することと存知、辞官願の通りといたし下さるなら本望と安堵いたしました。

明治三年(1870)三月、武四郎は辞職願いは聞き入れられ、同時に「先年来、北海殊方(ちがった場所)の地へ跋渉、山川の形勢を探り土地の物産を索め、著述多きに居り、奇特の事に候方、今開拓に付いては補益少なからず、よってその功を賞せられ終身15人扶持を下腸候事」との辞令を賜りました。

新政府が任官そして翌年依願免官。在官10ヶ月。後年「馬角久斎」の号をつかいました。開拓使を辞した武四郎は、その後各種蝦夷日誌の出版、骨董収集、霊場巡り、大台ケ原登山、富士登山など悠々自適の趣味人としての日々を送っており、北海道を訪れることはありませんでした。

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開拓判官と道名之儀につき意見書

北海道を開放した明治政府は「蝦夷地は皇国の北門」との認識のもとに箱館府(明治2年9月、箱館は凾館となる)にかえて、明治2年7月太政官直属で各省と同格の「開拓使」を置き、初代長官には名君の誉れ高かった元佐賀藩主鍋島閑叟が6月6日から8月16日、短期間ながら就任しました。開拓次官には元箱館府総督清水谷公考、次官に次ぐ開拓判官には蝦夷通の松浦武四郎の外に、札幌建設の先覚者島義勇、後の初代北海道長官岩村通俊等が任ぜられました。開拓使方は、最初芝の増上寺に役所を置き、箱館にその支所を設けました。

明治二年(1869)6月8日、松浦武四郎(52才)は、蝦夷地開拓御用掛の辞令を受け、7月25日開拓使という役所の開拓大主典・開拓判官に任命されて、9日目には開拓長官鍋島直正に「道名之儀につき意見書」という蝦夷の名称改正の候補名を提出しました。この時蝦夷地に代わる新しい名称として、六つの候補を挙げました。日高を見る道「日高道」、海の北「海北道」、海の島「海島道」、新井白石の『蝦夷志』に、蝦夷は東北大海中にあるという古典の典拠で「東北道」、西行や顕輔、清輔等の和歌も引き合いに「千島道」、そして北に加える、にんべんの伊で「北加伊道」でした。この中で採用されたのは「北加伊道」でした。これは武四郎が安政4年天塩川探査の折エカシのアエトモに「アイヌ民族は、自分たちの国をカイと呼び、また互いをカイノーと呼び合っていた」と聞いたことがきっかけでした。明治2年(1869)8月15日に太政官布告第734「蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」により、政府が「北加伊道」を「東海道」などに倣い「北海道」と決めました。

「道名之儀につき意見書」を提出する前、武四郎は幕府の箱館奉行所の依頼で各地のアイヌ語の地名を訳し、和風の名称を考えた事がありました。しかし新しい和風地名に漢字を当てたこの試みは現地ではさっぱり意味が通じないとわかり、失敗に終わりました。アイヌ民族が伝える地名は、地形や過去の伝説、歴史それにその土地の生産物などに関係していたからでした。武四郎も次第にアイヌ語の地名はその土地の国土と知り、地理の上でも貴重な文化遺産であることに気付きました。例えば「江差」をアイヌ民族は「エサウシ」と言いました。これは「山が海岸まで出ている所」という意味。こうしたことから、地名はアイヌ民族の発音をふまえて漢字を当てるのが一番良いと判断しました。

十一箇国86郡の国郡設定もほぼ提案通り採用され、同8月15日に公布されました。北海道国郡検討図の元図となった「東西蝦夷地山川地理取調図」は26枚の切り図と余白部分の24枚の計50枚を張り合わせて一組とした縦2,4m.横3,6m.の大地図になりました。「首」と「尾」の2枚には調査に協力してくれたアイヌの人名や蝦夷地の大きさ、踏査道順などを記載しました。検討図では元図の上に赤線で国界、茶線で郡界、黒線で開削予定の道路、紫線で国境の腹案を記入、付箋で分領支配の状況を示しました。

同年7月22日から9月19日までの分領支配の割り付け図という境界設定の多くは、尾根筋や河川など自然環境に基づいてはいるがアイヌ民族の活動領域に配慮して区域割をしました。北海道の管轄は開拓使だけでは負担が大きいとの判断で分領支配ということで、明治2年新政府は全国から希望の藩や志士らを募りました。海岸線の要所に薩長土肥など中核藩を配置したが、この支配体制はうまくいかず、僅か2年で頓挫しました。

この年武四郎は北海道名・国名・郡名の撰定の仕事で、政府より9月19日に従五位の位を戴き、御手当金として金百円を賜りました。また「蝦夷志」及び「蝦夷国郡全図」を刊行しました。

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新政府から御雇のお誘い

慶応三年(1867)12月9日、十五代将軍慶喜は京都において大政を奉還しました。この年の年末の世情を松浦武四郎(50才)は「芝居町打ちこわし」「夜播新へ強盗押入り」「妻恋坂火事」「会桑両藩の入京を禁ず」「庄内兵江戸を囲む」「渋谷へ浪士集る」等々、大晦日には「世間実に騒々しくなり」と記して今年の日誌も終わりました。

翌慶応四年(九月に明治と改元)、御一新となると、既に51才の武四郎に、4月4日夜下谷山下の寓居に速刻登城せよとの書附が飛脚で届きました。維新政府から京都に召し出され蝦夷通の松浦武四郎は、4月28日に太政官の令で徴士・箱館府判事を命ぜられました。

幕府の蝦夷地御雇を辞してから、市井にあること9年再び官途に就いた武四郎は、多くの著書及び地図を政府に献納しました。これに対し政府は5月「蝦夷地方の儀につき多年苦心、自著の書物並びに図等献上致し、かつ大政更新の折柄、奔走尽力候段(嘉永六年の京都における活躍)神妙の至りと思し召され候。是により金壱萬五千疋これ賜り候事」と賞され拝領いたしました。

明治元年10月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の蝦夷占領から翌2年5月の全面降伏に至る間、明治政府の箱館府は機能を停止されてしまいました。このため武四郎は8月23日東京都知事附属を命ぜられ、江戸が東京に変わりその転換に伴う仕事をしていたが、明治2年2月に辞職してしまいました。6月には月給返納願を提出し、この願には開拓意見書を添え、また先立って蝦夷地新道開通の件を献策していました。

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蝦夷日誌の執筆と出版

万延元年(1860)幕府御雇を辞した松浦武四郎(43才)は、前年「東西蝦夷地山川地理取調地図」28冊を完成。「蝦夷漫画」刊行、「戌午蝦夷山川地理取調日誌」62巻を完成。「後方羊蹄日誌」を刊行している。日誌や地理に止まらず、場所請負制の弊害とアイヌ民族に対する過酷な取り扱いを暴露し、北辺防備とアイヌ救済の急を訴えた松浦武四郎の著述のうち「近世蝦夷人物誌」と「蝦夷山川地理地理取調日誌」等幕府によって都合の悪いものは出版不許可となりました。

そこで今年は世人に知らせるべく、普及本蝦夷文筆「多気志郎蔵版」の名を刻む板が増えました。多気は生まれ故郷の三重の多気地方から取りました。「樺太日誌」「北蝦夷余誌」「石狩日誌」「夕張日誌」「納沙布日誌」「十勝日誌」等次々と出版しました。

弘化2年(1845)武四郎(28才)から安政5年(1858)武四郎(41才)まで14年間に亘り蝦夷地に六回冒険探査に赴きました。当初は御国の北門を杞憂し北辺を探検せしむとの志を抱き憂国の一念禁じ難く、松前藩の警戒が厳しい蝦夷地を「我が手で開拓し」そして「土人に撫育する」思いを抱いて蝦夷地・樺太・国後・択捉とあっちこっちアイヌの人々の案内で歩きました。

鮭をカムイからの贈り物としていただく皮も衣、沓にと作り、一部とも余さず捨て去りはしない。森の草花・樹木の役立ても然りで、自然の恵みに敬虔に感謝をする。だから自分たちが生きるのに必要な量を超して獲る、越して伐ることはしない。然るに明年も先々孫の代になっても、鮭は川海に戻ってきてくれる。巨大な蕗の葉茎が狩猟山駈けの夜露を凌がせてくれる。山に木があればこそ鯡が群来てくる(ニシン山に登る様子)、原始を保つ蝦夷、そこに分け入るには先住者アイノの案内と助けがなければ、直ちに死の危うさがありました。アイノが先に立ち、手を取ってくれました。野宿となって短時に仮小屋を作り、魚を得、鹿肉を得、草木の茎根を得、毒のものを教えてくれました。この地に生きてきたアイノが居なければ、武四郎シサム己れ一つの命も覚束なかったと思います。カラフト・クナシリ・蝦夷アイノの人々に助けられたとつくづく思います。アイノに共感、厚情し、収奪され続ける少数民族に同情、文字を持たないアイノに変わり記録者として武四郎シサムは蝦夷を書付、矢立に精を出しました。

文久元年(1861)44才「天塩日誌」稿なる。文久3年(1863)46才「久摺日誌」「知床日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」の刊行を始める。元治元年(1864)47才「鴨 頼先生一日百詩」出版。蝦夷・樺太・千島の俯瞰描を扇子に刷り、土人風俗の団扇、箱館道中双六、蝦夷物産双六、蝦夷土産道中寿五六、厚司織り風の熨斗状袋などを作って蝦夷趣味を世間に伝えようとしました。この年水戸の加藤木賞三の三男の一雄氏が養嗣子となりました。

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安政六年…安政の大獄

年末、御雇御免の松浦武四郎は自由人であり、窮屈な役人生活には馴染まなく、その上に時の大老井伊直弼が蝦夷地幕府直轄の方針を転換し、東北諸藩による分割経営、彦根藩御用商人に対する利権供与など、アイヌ無視の開拓、同化政策に固執する遣り方に我慢ならず、幕政が井伊掃部守派に牛耳られ、かって交際のあった志士たちが獄につながれ死罪になるにいたって、幕府に愛想が尽きまた身の危険も感じたのでした。激動の幕末を一市井人として、北辺踏破によって得た数々の蝦夷記録・日誌の整理と世に紹介する執筆生活を送り、著書が次々と出版し世人の注目するところとなりました。

安政五年(1858)7月幕府から水戸藩徳川斉昭は急度慎み、藩主慶篤が登城禁止の処罰を受けたが、8月8日には勅命(戌午の密勅)が水戸藩に下された。その内容は、米国はじめ英・露・蘭との修好通商条約調印を批判し、水戸・尾張両藩主らの処分の影響を心配し、幕府は徳川御三家以下諸大名と群議して、国内治平、公武合体、内を整えて外国の侮りを受けぬ方策をたてるようにというのであった。この勅命は、幕府にも下されたが、水戸藩に対しては、徳川御三家はじめ列藩にも伝達するようにとの添書がついていました。

朝廷から、政治的な勅命が幕府抜きに、直接藩に下される事は、前例がない。幕府は水戸藩に勅命返納を命じたが、藩内の改革派特にその激派は、飽く迄もこれに反対した。他方京都では勅命降下に反対した親幕府の関白九篠尚忠が辞任に追い込まれた。しかも以上のような事態には、広く深く公卿・尊攘志士等が関わっている事を知った井伊大老は幕府の危機と考え、安政五年(1858)9月頃より翌六年年末にかけて、安政の大獄を強行しました。

連座した者は、公卿・大名・志士など合わせて百余名に及び、過酷な井伊大老の裁断により福井藩士橋本左内・長州藩士吉田松陰・儒者頼三樹三郎らが死罪となり、小浜藩士梅田雲浜が獄死しました。攘夷の詔勅を水戸藩に下す運動に大いに働き幕府から「悪謀の四天王」(梁川星巌・梅田雲浜・池内大学・頼三樹三郎)として特に睨まれていました。

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安政六年…結婚・御雇御免願

安政六年(1859)松浦武四郎(42才)は、28才から六回の蝦夷地調査を繰り返す中で、アイヌ語を習得し寝食を共にすることでアイヌと兄弟のような付き合いになっていました。「アイヌの目線」を大切にした武四郎は幕府雇いでありながら、仲間であるアイノの窮状から目をそむける事はできませんでした。北の大地に固有の文化を築いた無睾の民アイヌは場所請負人の横暴により、民族文化存亡の危機に瀕している。御開発は明日に延ばしてでも何卒いま死なんとしているアイノの命をお救いになり民族文化をお守り下さい。と時の為政者に懇願訴えていました。

四月二十二日、手控や日誌類を整理して、山川地理取調出来に付き箱館奉行堀君へ見せ候、上梓之儀被仰候。五月十日付で開刻願を出し、石狩川口図から出版し始めました。七月には木村嘉平や永楽屋、表紙屋幸蔵といった出版業者と連絡を取りあいました。

それまでは伊能忠敬(1745-1818)、その門弟間宮林蔵(1780-1844)らの測量により海岸線はほぼ正確になっていたが、内陸部の状況を詳しく図示したのは、東西蝦夷山川地理取調図で木版刷りで出版されました。

「蝦夷地名奈留辺志」が上梓されたのは、前年の末に「近世蝦夷人物誌」と共に上梓願を出したのですが「人物誌」の方は却下され、こちらだけが認められ刷り上げたうちの百部を幕府に献上し、九月になって銀三枚を手当てとして戴きました。

この年九月武四郎は、家庭を持つ心境になり、晩婚ながら箱館奉行所で知り合った「福田とう」と結婚、後に娘二人を授かりました。

その年末、武四郎は病気を理由に、御雇御免願を二の丸御所に差し出し認められました。

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第六回蝦夷地調査…室蘭から箱館帰着

安政五年の夏、キミタニシパ(山歩きの旦那=松浦武四郎)は門別の奥から貫気別に入り、岩知志方面に抜けそこから沙流川の本流を下る経路を探査、地名・人名・続柄・年齢などコタンの状況を詳しく調べました。ホロサル(振内)でアイヌの人達の立派な居住まいに驚き、「世ばなれし 保路さる山の 奥えみし 都の呼ぶりいつならひけん」と歌に詠みました。

六月には、蝦夷奥地の調査の帰路に浜厚真からトンニカ(富里)のエカシュムのチセ(家)に二泊しました。「えみしらも 志らぬ深山に 分けいれは ふみまようへき道たにもなし」と詠みました。そこのトンニカコタンは土地高く肥沃で、アイヌの人たちがみな畑を耕して住んでいました。武四郎が泊った夜のことでした。2頭の犬がしきりに鼻を鳴らしながらやってきたのです。エカシュムはそれを見て弓を持ち走っていきシカ2頭を捕まえて戻ってきました。聞けばこれは畑を荒らしにくるシカとのこと。犬たちは吠えるとシカが逃げてしまうと考えたのか、鼻を鳴らして知らせそれにピンときたエカシュムがシカを捕まえに走ったというわけだったのです。武四郎は「実によく仕込まれた犬だ」と感心しました。その地では厚真犬と呼ばれていました。

八月十一日(陽暦9月17日)に武四郎ニシパは惣小使リキシノを召し連れてヌフルベツ(登別)温泉に行く途中、「カモイワッカ」という冷水噴出、其の底白砂を噴出すぐに一筋の流れになる。名義・神の水義也、古くから神の水にて喉の渇きを潤しました。温泉につかり疲れを慰してホロベツに着くと法台小僧に逢い此者は伊勢朝熊岳の僧なり、武四郎が生まれた伊勢国の朝熊岳金剛證寺の僧に偶然に出逢いました。

八月十二日、武四郎はモロラノ(崎守町)に入り、室蘭の命名の理由として「会所元へ何れより行っても、小さき坂を下るゆえに此名有るにて御座候」と此地の坂路の印象を挙げている。このチイサキ坂ヲ下ル「モ・ルエラニ」のアイヌ語の発音を室蘭という名に採用したのでした。当時の交通路は、伊達方面から崎守町仙海寺の坂(モ・ルエラニ)を下り、崎守町からペケレオタ(陣屋町)を通り、ここから山に入り、知利別を経由して鷲別に抜けましたが7つの山を越えなければならず「七段坂」と呼ばれる嶮しい山道でした。

外国船の日本近海出没が頻繁になり、幕府は北辺警備のため室蘭に出張陣屋を建てることになり安政二年南部藩に箱館から幌別までの警備を命じ、勘定奉行の新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)が構築計画を担当しました。この陣屋には、常時350人ほどの兵や村夫で警備に当っていました。

室蘭で一夜を明かした探険家武四郎は翌朝早く起きて、地球岬をはじめトッカリショ、マスイチ、イタンキの浜を歩き内浦湾を望みながら有珠に向かいました。

八月二十日八雲由追の稲荷神社に今年1月25日、武四郎は大明神に六回目の調査の成功を詣で、いつも此社に捧げものをして道中の安全を祈って通る、この度も無事戻ってこれた事を報告しました。そして翌日箱館奉行に出向き堀織部正に帰館の報告をしました。

武四郎は最後の蝦夷地踏破を終えました。安政五年(1858)十月箱館を出発、翌年の正月は江戸で迎えました。

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第六回蝦夷地調査…千歳・札幌越え

勇払から舟で勇払沼、美々川を遡り、美々に上陸して2里ほど経路をたどり千歳に到着。それからまた舟で千歳川を下り、石狩に至った。水路に頼る道であった。アイヌの丸木舟を雇入れ、堅雪の季節になると、千歳から勇払沼まで舟を引っ張って越すこともあった。これが勇払会所から千歳を越えて石狩場所への通路であった。

安政四年(1857)になって、箱館奉行の強い要請により、石狩場所請負人の安部屋伝次郎が銭函・星置から島松までを、また勇払場所請負人の山田文右衛門が島松から千歳までを、すべて請負人の私費により開削しました。道幅4m.程度の草木を刈っただけの粗末なものであったが、これによって勇払の太平洋側と日本海側銭函が陸路で通ずるようになった。これが「札幌越新道」と呼ばれました。

松浦武四郎、飯田豊之助が選定したこの道路は、北辺の急を告げるために往復する役人、漁場を渡り歩く猟師らによって、次第に踏み固められていきました。

安政五年の夏、幕府御雇山川地理取調役松浦武四郎一行は、小樽から札幌に廻り千歳を経て、勇払方面を探査…野地を過ぎていくと、左右の蘆原(あしはら)の中からウグイ・アメマスなどが跳ね上がり、時々馬が驚いてしまうので、とても困りました。セタニウンベツという小川があり、向かい側にベンケナイ、バンケナイがあり、左側に小山がある。ウエンナイという川があり、このところに炭焼小屋がある。向かい側のヲハニケウに夷人のチセ(家)が三軒ある。さらに下ったイリモヲツナイという小川は、ネズミのいる沢という意味だ。この辺は樺木が多い。また姫リンドウ・姫釣鐘人参・姫石楠花も多い。此処のすべての生き物は、背丈が低くとても可愛らしいものがあるが、これは地勢によるものであろう。その後、バンケイリモヲツという川があり、西側にはタツニウシという川があって、この上流にチライウシト(丹冶)という沼があり、周囲は一里ほどである。カヲナイ川は、ここに鶴を捕る仕掛けを置くところから名付けられた。フツタトシは、笹が多いから名付けられた。ここで沼(ウトナイ湖)に至りました。

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第六回蝦夷地調査…湧別川

安政五年五月二十三日(陽暦7月3日)、箱館奉行山川地理取調役松浦武四郎(41才)一行は地元のアイヌの案内で、湧別河口から丸木舟で遡上しました。遠軽まで上がり、ホンニケウルルの山々が迫り来るところに着くと、突然アイヌの案内人がスッパケタ(浜アイヌと山アイヌの境界)でこれより先はアイノプリで入れないというので、仕方なく此山を見て下り今夜はイタラ川口(学田)に止宿しました。

湧別川流域はピシウンクル(浜の衆)、キムウンクル(山の衆)の二つの勢力圏に分かれ、場所請負人の勢力がモンヘツ地方にも及ぶや、アイヌへの強制労働や不平等交易、過酷な扱い、婦女子への不倫などが行われ、ユウベツアイヌにとって受難の歴史が始まりました。こうした非道な仕打ちによって一族が衰亡することを憂いた乙名サケテカンは、一族と共に上川(当麻)へ避難しその本拠地を故郷にちなんでキムンクシベツと名付け、故地である丸瀬布地方と自由に往来していました。当時の上川地方はまだ和人の勢力圏外にあり、平和な社会が営まれていたのでした。此話を聞いたシサム武四郎は酋長サケテカンの民族を思う配慮に感服しました。

案内人のピシウンクル(浜衆)は「他族の領域には無断で立ち入らない」というアイノプリ(不文律)を守り、武四郎一行は遠軽から引き返したのでした。それからオホーツク海沿岸を紋別、枝幸、浜頓別クッチャロ湖、猿払そして宗谷に到達しました。

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第六回蝦夷地調査…常呂川遡行

安政五年(1858)五月十三日(陽暦6月23日)幕府山川地理取調役松浦武四郎(41才)は、常呂の知り合いのアイヌのレイシヤクに案内を頼もうと思いました。ところがレイシヤクはこの春に病死してしまっていました。それで途方にくれていますと、レイシヤクの甥という男が、案内役を勤めると言って来ました。亡くなる前に、レイシヤクが松浦ニシパ(旦那)という人が来たら、必ず案内して、山々のことをのこらず話してやってくれ、と言っていたというのです。そこで彼を案内人として雇いました。常呂の河口のアイヌの家は10戸のうち7戸から働き盛りの1-2名が宗谷場所や利尻に強制的に連れて行かれていました。

五月十四日、地もとのアイヌ三人(アヘセトル・イコツハ・サケハナ)を案内に常呂川を丸木舟で遡り始めました。武四郎一行はクトイチャンナイで一泊しました。ここはサケの産卵場所で簗をしかけて漁をするところでした。トツハイシャニ老人が出迎えて彼のチセ(家)に招き入れてくれました。ここのコタンは3戸18人の集落ですが宗谷や利尻の漁場へトツハイシャニ家から4人、ノテヒヒウケ家全員、コシコロ家から2人が強制的に働きに連れて行かれて実際に8人しかおらず、老人が武四郎にいうには「子を産み育てて、子供がようやく水を汲んで薪を拾えるようになると、漁場へ取られる。老いて稼ぎが出来なくなると山に返される」この老人の憂痛と吐露するのも無理はないと武四郎は心痛な思いで聞きました。

五月十五日、早朝米、タバコそして従者が獲った鱒を老人に分け与えて出発しました。ヌツケシ(端野)を経て夕方ノヤサンオマナイの一軒目のキムンショカ(42才)を訪れました。ここは妻はホソエンカル、同居の女性ケロ、倅エコロハト、子供2人の計6人で暮していました。今は家主とケロは宗谷へ行って3年ほど帰らず、倅も利尻へ去年の春より取られ、家には妻と子供2人しかいませんでした。何も食い物がないので、ようやく山のものや雑魚を毎日少しずつ獲って生活しているということでした。此処にも米一升を与え粥を煮て、皆で食べました。

五月十六日、翌朝更に川を上って常呂川と無加川とに分かれる辺りベテウコヒ(北見中ノ島)を経て、クツタルベシベ(訓子府日の出)まで到って此処で野宿しました。

五月十七日、快晴に恵まれ武四郎一行はクツタルベシベからムッカに戻り、此処で昼食を取りノヤサンオマナイで一休みして、ヌツケシ(端野)で一泊しました。

五月十八日、ヌンケシからチユウシ(忠志)で浜から乗ってきた舟と乗り換え、このコタンで小使エコラツセに暇を出し住民たちに残った米ニ升と烟草五把を分配しました。此処の住人で常呂の河口から終始案内をしてくれたサケハナには、別に米一升を与えて別れました。武四郎はアヘセトル、イコツハと舟で出発し、くる時に世話になったトツハイシャニ老人の家にも米一升と烟草・針等を配ったところが、トンコリ(五弦琴)を持ち出し贈ると言われたのを辞退して、また来るといって手を挙げて舟に乗り込み別れました。常呂河口の番屋に帰ってくるとそこに番人孫三郎もおり、モンヘツの詰合から米と味噌が、アハシリからも米・烟草等が届いていました。湧別河口の小使も武四郎を迎にきていました。最後まで案内役を務めてくれたアヘセトルとイコツハには夫々烟草三把、手拭、針等を与え、大儀であったとねぎらいの言葉をかけました。

翌五月十九日、早朝トコロを出発してサロマ湖の奥地を踏査してオホーツク海岸にでて湧別の河口を目指しました。

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第六回蝦夷地調査…釧路・厚岸・シレトコ

4月15日、クスリ酋長メンカクシの案内で阿寒・摩周・屈斜路湖の探勝を終えて武四郎は釧路会所に戻ってきました。そこで自前のお金でアイヌに治療を施す桑田立斎(越後新発田藩)一門の美挙を聞き知っていた武四郎が、その弟子で様似・釧路を担当していた井上元長に偶然会いました。昨秋、痘瘡(天然痘)がしばしば流行し逸早く感染病患を防ぐために種痘の御世話有らせられる彼らに感涙を催した武四郎シサムでありました。

4月19日、武四郎シサムは厚岸に着き国泰寺で旅の身支度を解きました。ここはロシアの南下、異教の侵入を防ぐためとアイヌの人々の同化政策のため、有珠の善光寺、様似の等樹院を蝦夷三官寺と呼び、享保4年(1804)に徳川幕府によって建てられました。境内には近藤重蔵が北方から持てきた色丹松があり、この地が千島列島への前線基地でありました。国泰寺の隣には寛政3年(1791)に最上徳内が建てた厚岸神社がバラサン岬に行く途中にありました。

4月25日、根室、納沙布岬を経て、4月28日に走古丹、ニシベツ川(本別海)と渡り野付の人馬継立・日常雑貨・宿泊も出来る通行屋の支配人加賀屋伝蔵のもてなしを受けました。野付の通行屋は国後島、択捉島への要津として標津・目梨・根室・厚岸への交通の拠点でした。

案内のメナシアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、知床半島の沿岸を調査しながら羅臼を経て5月4日、マッカウスあたりで海が荒れだしたので上陸し、洞窟で野宿しました。この岩にはイワスゲ・ハマナズナ・イワサクラソウなど紅白の花が美しく咲いていました。その夜更けにヒグマが出てきて、自分たちが捨てた魚の骨などをバリバリと喰う音が「いと物寂しくぞ覚えけり」なかなか眠りにつけませんでした。戯れに「仮寝する 窟におふる 石小菅 葦し菖蒲と見てこそはねめ」と歌を詠みました。5月5日に岬のシレトココタンに宿泊し、クナシリ、エトロフの山々を見て歌を作りました。「ながむれば 手に取る斗 見えにけり 衣ぬぎ捨て飛びわたらばや」5月6日には斜里側へと探査を続けウトロで「山にふし 海に浮寝の うき旅も 馴れば馴れて心やすけれ」と歌を詠んでの旅でした。

翌日は湯沸湖へ向かいフレトイ(浜小清水)にアイヌ家主四軒、アオシュマナイに三軒、ヤンベツ河口に二軒程アイヌの人々が生活しているのを調査しました。

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第六回蝦夷地調査…阿寒・摩周・屈斜路湖

安政五年3月23日、幕府御雇松浦武四郎(41才)は案内役のクスリ酋長メンカクシとコタンアイヌの人たちとクスリ(釧路)会所を出立。大楽毛を経て、阿寒湖に着きました。阿寒川の流れが水音を立てるところ辺りの山の中で、あわびこけ、赤い色のカタクリの花、蝦夷スミレなどが咲いており、エゾエンゴサクやトリカブトの葉のような形のものがありました。阿寒川の滝見で「いつまでも ながめは尽きじ あかね山 妹背の中に 落つる滝津瀬」と歌を詠ませていただきました。

阿寒湖畔では、亀の甲に似た赤い石があり此処から熱い湯が沸騰して出ていて谷川の水と合流し、湖畔の小さな池に入っている。武四郎はこの池の湯がちょうどいい湯加減で今までの疲れが忽ち取れたような気持ちになりました。

4月1日、津別から弁慶岩を通り、ビホロ(美幌)のアシリコタンに至り家主シュイベリキンのチセ(家)で一夜を過しました。家主の古老エカシは、自分が子供の頃、最上ニシパ(徳内)、近藤ニシパ(重蔵)等には、度々逢い最上ニシパはシャリ(斜里)に越年したるが、其の節は度々行って逢って此山の事を話し、間宮ニシパ(林蔵)はクスリ(釧路)の山々を歩行給ふ時には附いて歩行、また大塚惣太郎様は我が家にて滞留も致され候等審らかに語りぬ、武四郎は大いに益を得て一夜を面白く過しました。

4月6日、山は嶮しくなりカバノキの原野に出ると摩周岳東側の湖岸に降り立ち小さな砂浜にでました。そこには大きな入り口と奥行きも5丈もある洞窟がありました。この洞窟はアイヌの人たちは「神の宿るいわや」として奉り、猟の時の休息に使っていました。武四郎たちも此処で宿泊する事にしました。

翌日には屈斜路湖に着き、岩の間から湧き出る温泉に鮮烈な印象を受け湖岸に遊ぶ一羽の水迄鶏(アカショウビン)を見つけ、その風影を歌に詠みました。「久寿里の 湖岸のいで湯 あつからん 水迄鶏の水乞てなく」屈斜路湖畔を探勝して、「汐ならぬ 久寿里の湖に 舟うけて 身も若がえる ここちこそすれ」温泉に浴して、和歌を詠んで釧路に戻りました。

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第六回蝦夷地調査…狩勝峠越え十勝

安政五(戊午)年旧暦3月4日、幕府御雇松浦武四郎(41才)一行が蝦夷地内陸部の山川地理調査を目的として、石狩からチクベツ(旭川)を経て美瑛川筋を上がってきて武四郎ニシパが手で掬って水を飲もうとすると、アイヌの人たちが「ピイエ、ピイエ」と叫んで飲んではいけないと言う。「ピイエ」とは脂ぎったという意味で十勝川に噴く硫黄が混ざっているということでした。

上富良野を通って十勝に向かう途中、十勝岳が爆発を起し天をも焦がす凄さに、案内役の近文コタン酋長クーチンコロは、地に伏して神に祈りを捧げました。フウラヌイ「川巾弐間計」の川を越えて日の出辺りのレリケウシナイという小川の縁で一泊しました。

「惣て此処巾は三、四里、東西凡十里も有るべきと思ふ平野にして、一カ国の広狭丈夫に有処にて…実に一大良域と云べき地味なり」と武四郎は賞賛し富良野盆地をアイヌ語でフーラヌイと記している。

みち案内のアイヌの人たちと残雪の狩勝峠を越え、ハンノキ、ヤナギ、シラカバが生い茂り、鳥や虫の鳴き声が絶え間なく聞こえる新得町の佐幌川上流にたどり着きました。「川巾七ー八間、川底平盤の一枚岩、急流なり左岸は崖の如く直立して、行動困難なるために右岸に渡り、椴(トド)の木の多い処で宿泊しました。そこで一同一椀ずつ飯を食い、食後アイヌ弓矢で狐(キツネ)を一匹得て来たので、屠(ほふ)りて一同食べたのだが、夜になって宿所の辺りで暫しば狐が鳴くので土人共も心地悪気でありました。

翌日武四郎一行は、ニトマフ(清水町人舞)のアラユクエカシのチセ(家)で宿泊し、地元のアイヌの人々と宴会を愉しみました。以前旅の道中で知り合った当家の二男と再会、彼が一族に「武四郎は樺太の北方まで行ったことがあるムサシ」と紹介、武四郎が樺太のことを詳しく話すと、長老エカシらは大いに喜び、クマの焼肉やシカの腸、サケの燻製などの料理でもてなしてくれました。

ニトマフの次に、武四郎一行は僅かニ里程しか離れていないピバウシ(同町下佐幌平和)で泊りました。アイヌの盗人を捕まえるため、武四郎に同行していた役人飯田豊之助がピバウシのエカシから犯人を雇っている事を聞かされたためでした。

同年夏再びビロウ(広尾)より十勝に入り、音更川河口付近を歩き鈴蘭の高台に立った武四郎は「追々第一の繁昌の地となるべくと思われる」と云い、「このあたり 馬の車のみつぎもの 御蔵をたてて積ままほしけれ」と歌に詠みました。

十勝川や狩勝峠は十勝アイヌと空知・上川地域を結び、十勝地域は日高アイヌと釧路・厚岸・国後を結ぶ重要な交通要所だった。十勝川の太平洋岸の河口豊頃町大津がサケの漁場として賑わいをみせ発祥の地といわれ、ここが十勝内陸開発の拠点と武四郎は湊の整備を箱館奉行に進言しました。

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第六回蝦夷地調査…中山峠越え石狩河口

安政五年(1858)1月29日(陽暦3月14日)、山川地理取調役御雇松浦武四郎(41才)は、アイヌの案内役をお供に虻田・札幌間の山道を開くための調査に、昨年訪れた虻田より積雪中の野山の堅雪に踏み入りました。二里ほどで洞爺湖につきました。湖中には四つの島があり、冬でも凍らない。アイヌの人たちは「神の水」(カムイワッカ)と呼んでいる。有珠山の頂上からは、絶えず噴煙をあげている。また後ろを振り向くと羊蹄山の大きな峯が白くそそり立っているが、この山は富士山のような姿をしている。

洞爺湖から一行は、留寿都から喜茂別川に沿って中山峠の嶮しい踏み分け道を登りました。少しの間雲が切れて四方を展望すると、真北にムイネ山、西北に石狩の原野が果ても無く広がっている。一直線に下り凍結した川のほとりにでました。やがて豊平川の本流に沿って下ると川の中に煙の上がっているのを見ました。近づくと温泉(定山渓)が吹き出ていました。辺りは雪も氷も無いので、此処に泊ることにして温泉に入ると、冷え切った体の疲れも一度に消えていく思いでありました。

翌日、両岸に巨大な岸壁が続くところを通過すると雑木林の広い原野に出て、川の向こう左岸には藻岩山を見ながら真駒内を経て豊平川の渡舟場に着きました。

そして武四郎一行は琴似を過ぎ、発寒川畔の石狩十三場所ハッシャムで知り合いのアイヌのチセ(家)、アイクシテのところで泊りました。

翌日武四郎ニシパは、ここから東北の方角に真直ぐ原野を横切って石狩へ出ようかとアイクシテに相談すると「この頃ずっとお天気が良い日が続いたから、野地の氷が溶け出して危険でしょう。浜伝えに行かれた方が安心です」というので、西北の方を目指し銭函に出て大浜の砂浜を冷たい東風に吹き付けられながら石狩へ歩き続けました。

石狩場所は村山伝次郎の請負を廃止して、箱館奉行の直捌制となり、漁場元小屋を本陣として石狩会所と改め調役荒井金助が詰めていました。役所に到着の届けを出して一安心。武四郎ニシパはこの道中で、道案内などしてくれたアイヌの人たちや知り合いの石狩アイヌの人たちを集めて再会とその労をねぎらい楽しい酒宴を催しました。

安政五年2月24日(陽暦4月7日)、地理取調役御用武四郎一行は、石狩川河口を出航、「案内土人」四人、米ニ斗五升、味噌一貫目、塩五合を用意し、鍋・刃物を携えて二隻の丸木舟で大河に遡り入りしました。二日後には、ツイシカリ(豊平川合流口)に着き、以前に世話になった乙名(村長)ルビヤンケの家に泊りました。

2月27日に対雁を発ち、石狩大河に入る。川幅百余間(約200m.)氷片が流れてくる。しばし過ぎて右の方にエベツブト(江別河口)を上り夕張川との合流点順調に過ぎ、川幅が狭まり神居古潭の景勝地を北に渡って、のびやかに原野を拡げた石狩の野に入る。イジャン(深川市一巳地区)の北西端に到達した。これから山を越え十勝川から太平洋岸に出る道を探査する予定であった。

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第五回蝦夷地調査…尻別川

安政四年五月六日~七日、山川地理取調役松浦武四郎(40才)は尻別川シリ・ベツ(山の川)の水源の場所を確かめるため、四人のアイヌ案内人とともに丸木舟で磯谷から川を遡りシャマッケウッカ(大谷)まで着たけれど、雪解け水の激流と嶮しい峡谷で如何しても先に進むことが出来ず諦めて引き戻りました。先に石狩川、天塩川の探査を済ませて帰路再び挑戦する事にしました。

川口の磯谷は船着もよく、早くに開けたが「文化年間の三壮士(近藤重蔵・最上徳内・間宮林蔵)も終に水源を極めることを能わず」と先達の思いを武四郎も味わった。

尻別川は支笏湖の西山の裏から発し、羊蹄山を廻り後志の中央峡谷を横流れして日本海に入る、この大河は海辺が、生活の中心だった江戸時代には和人にとって前人未到の深山は熊の棲む所でしかなかった。

石狩川、天塩川の探査を終えて夕張やショコツ場所廻り千歳川番屋にて「里遠き しこつの湖に 筏より 棹さしゆけば 魚のより来る」と歌を詠みました。七月二十六日、今度は反対側の東海岸の虻田から四人のアイヌを雇って、洞爺湖、留寿都、喜茂別を経て、ルサン(留産)まで行き、ここで丸木舟を作って、二人のアイヌに川の両岸から曳き舟させて川を上り、尻別川の水源まで行き着くことができました。尽きることのない森林と激しい流れに、一同、心細くなり、ただ山霊に無事を祈るしかなかった。

八月九日、帰路ソウスケ(宗助川)倶知安は、サケ・マスの宝庫として名が知られていたが、岩内の乙名セベンケイが、棹をとり武四郎ニシパは丸木舟に乗って渡った。「あやうしと 尻別川の白波を 命をかけてけふわたりけり」と詩にしました。雄大な蝦夷富士、後方羊蹄山を拝みながら激流の尻別川探査行でした。この日は岩内の酋長セベンケイの漁小屋に泊りました。

明け方に出発、ニセケシヨマ(ニセコ)では岩は岸だけでなく、川の中にも岩があり危険で、荷物を全部岸に揚げ、空舟にして陸から舟を操作しながら下り、難航であった。ここではアイヌたちは、木幣=イナウを捧げて山の神に祈ってから通る習慣であった。そして私たちは日暮れまで歩き続けて、川の崖の洞穴に野宿しました。

朝の食事は、昨日獲ったかわうその肉を生のまま詰め込み、余りの肉も昼の食料に持って出発しました。風は穏やかに肌をすり抜けて、今しがた降りしきった雨も爽やかに、晴れ上がり雨雲の去ったかなたの山々の峯も、緑がひとしお深く目に沁みます。山々は赤陽に映え蝉しぐれはひときわ繁く、木洩れ日を避けながら山道をたどると、いずこともなく湧き出ずる水のせせらぎの音が、そよ風を受けた木の葉のそよぐ音と相重なって、しばし歩を止め時の流れも忘れて心ゆくままに自然の美しさに浸るのでした。

武四郎は磁石を取り出し、北に大きな高い山があってその麓を通過している。それらが何という山なのかアイヌたちもよく判別できない。(ニセコの山々だろう)羊蹄山からはもう大分遠くなっていることは確かである。西の方から流れて来る少し大きな川に出遭った。アイヌたちは「是は確かにマッカリベツ(真狩川)だ」と言う。そして下ると昆布いう所、昔からアイヌが丸木舟を作る場所になっていて、舟が出来上がるとその舟で川を下って海岸の磯谷に出るので、アイヌなら誰でもよく知っている所なので、武四郎も此処まで来て一安心しました。今まで和人が一度も足を踏み入れたことのない所を今私が踏破したと思うと愉快この上もない気持ちになった。

川を下って目名まで、この春不本意ながらも引き返した地点である。夕方、磯谷に着き、川の渡し場まで来ると渡し守が武四郎を覚えていて「よくぞ御無事で…」と喜んでくれて手作りの濁酒を振舞ってくれました。お返しに武四郎たちは、山中で獲った鹿の肉を提供する事にしました。

寿都に着くと、会所に調役役の岡田錠次郎を訪問し、先日来アイヌ達から頼まれた件について善処方をお願いした。尻別川河口で禁じられている網で鮭を獲ってしまう為、その上流を漁場にしている岩内、虻田、有珠のアイヌが鮭が獲れなくて困っているという。その事情を説明したところ、調査役は早速承諾されて、今後そういうことのないように取締りを厳しくする事を約束して頂いた。そこで武四郎はアイヌたちに、その旨を伝え又、この度の踏査には大変に協力して呉れたので、その手当として米、酒、漆器類などをそれぞれに分けてやってその労をねぎらてやりました。アイヌたちは喜んで、武四郎ニシパに何度も礼を述べて山の方に帰って行きました。

そして会所で武四郎は、長谷川儀三郎より磯谷の請負人桝屋栄五郎と岩内の請負人仙北屋仁左衛門の出願で雷電道路が開削され、また栄五郎の父定右衛門が私費で黒松内山道の黒松内から歌棄までを開削して、その功により一代苗名を称することが許され一生のうち二人扶持を箱館奉行から推薦され幕府より給せられることを知りました。

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第五回蝦夷地調査…天塩川

テッシ・オ・ペツ(梁・多い・川)天塩川は、道北地方の内陸部を貫いているため、東のオホーツク海、西の日本海、南の石狩川水系に昔からアイヌの人々が利用していた道があり当時は交通の要所でした。今回の松浦武四郎の踏査もこうした交通路の調査が目的でした。天塩には運上屋(商いの場)や備米蔵、馬屋(馬25頭)、弁天社などが建っていました。そこには常時下役人と同心、足軽が詰めていました。

安政四年六月八日(旧暦)、山川取調役武四郎(40才)は堀奉行より革靴、解毒丸など薬品等頂戴し、米、味噌、こうじ、煙草などの食料と縄、むしろ、ござ、蚊帳、鍋などの野宿用具を調達しました。丸木舟には、武四郎ニシパが乗る舟と荷物用の2雙で各々二人ずつアイヌの人が乗り込みました。案内人のアイヌの人は、武四郎ニシパの舟に士別出身のアエリテンカとトセツが乗り、荷物用の舟には名寄川筋のエコレフとトキコサンが乗りました。いずれも川筋の地理に明るい天塩川上流のアイヌを連れて天塩川を丸木舟で出発しました。

6月9日、ポロ・ヌプ(大きな・野原)幌延の原野の中を大きく蛇行する川を、風を友達に遡っていきます。マスやウグイ、川貝なども採って食料とし、河原での野宿は、蚊や虻に悩まされ食事中は火をたいて凌ぎましたが、小便も出来ないぐらい難渋の有様でした。

6月10日、11日、ポン・ピラ(小さい・崖)中川には三日目の野宿をしたが相変わらず蚊や虻、ブユが多いが、油紙と蚊張を持参したので大いに助かりました。瀬を越え、淵をめぐりながら川を上る一行の舟に、群れをなして近づく魚影がありました。武四郎にとっては石狩川で対面しているチョウザメでした。深い淵に多くいて舟に頭をあげて近寄ってくる様には薄気味悪い感じでした。

6月12日、オ・ト・イネ・ブ(川尻を歩く・泥んこ・川)音威子府天塩山地の山々に囲まれたトンベツホ(頓別坊)では、トキノチというアイヌのチセ(家)に泊りました。そこではアイヌの人々が捕まえた熊と武四郎ニシパがあげた酒とで、熊送りを行いました。(イヨマンテという祭礼です)特に、熊の皮と骨肉をチセ(家)の窓から出入りさせたりする独特な風習を目の当りにし、武四郎ニシパは驚き感動しました。天塩川探査の帰途中、オニサッペ(筬島の鬼刺川付近)で、故事に詳しい長老エカシのアエトモにアイヌの人々が、男を「カイナー」、女は「カイチー」と呼んでいる理由を尋ねました。アエトモは「カイ」とは「ここの国で生まれた者」の意味で、ナーとチーは尊称でアイヌの人々の古い呼び方であると教えて貰いました。この事が後の明治2年、武四郎が提案した幾つかの道名案の一つ「北加伊道」をもとに「北海道」の名称が決められたのでした。

6月13日・14日、ピウカ(石原)のオクルマトマナイ(美深町小車)の貧者エカシテカニ(家内12人)のチセ(家)に一泊した。チセの屋根はところどころ破れ、その破れ目にはふきの葉がのせられていた。家の中に入ると武四郎の足元にはノミが跳びまわっている。その家の子供たちは、柳の皮をはぎ、それを敷物にと持ってくる。家の母はウバユリの団子を朴(ほお)の葉椀に入れ差し出してくれました。その礼にと粥を炊いてふるまうと、エカシテカニは「もし天塩に外国の船が来たならば、この毒矢を持って戦うつもりでいる」と喜び勇ましくこぶしを振り上げて言うのでした。夜になると五弦琴(トンコリ)の音色が家に響きわたり、武四郎はその音色に魅了され、もう一曲と所望しました。それから武四郎は「私が今年で、40才になるのに、妻も子供もいない」と言うと、とても驚き「心もとないことでしょう」と嘆いてくれた。少し間をおいて、「何処に住んでいるのですか」と尋ねてきたので「私は江戸といって、松前から30日以上かからないといけない所に住んでいる」と言うとエカシテカニは、また驚いて「ああ、それは残念だ」と言う。「もしニ、三日でいける所だったら、あなたはこの辺のシサム(和人)と違って、心の良い人なので、私の子供をあなたに預けたものを、あまり遠い所なので、残念ですが、預けることはできません。」と私に妻子のないことを心から嘆いてくれたのは、まことに嬉しいことでした。忘れえぬ触れ合いを此処で経験しました。翌日にはベンケニウブ(仁宇布川と天塩川の合流点付近)のコロイカ、トウリの家に泊めてもらい、アイヌの女性から織物の様々な色に染める方法を教えて貰いました。

6月15日~18日、ナイ・オロ・ブト(川・の所・口)名寄智東に二箇所のシュボロ(大きな滝)という急流があり、アイヌの人々がお祈りをして通過します。このあたりのチセ(家)は蚊やヤブを防ぐ目的で囲炉裏の煙を家の中にこもらせるため、窓を小さくした構造となっていました。吸血虫に悩まされつづけたせいか、その建て方に甚く感心しました。川ではマス漁の梁(やな)がしかけられ、山には仕掛け弓によるシカ猟の時期でした。テシオアイヌの男の人は木のキセルを使っており、女性からは苦労して作った織物を和人との交易では安く取り上げられる実情を武四郎ニシパは聞かされました。

6月16日、17日、パンケ・ノカナン(下の・小さい・川)下川町チノミ(上名寄)の酋長の家を拠点に名寄川を踏査しました。酋長の家には和人と交易して入手した器や武具があり、オオウバユリの団子などでもてなしを受けました。名寄川の奥では、サンル川の合流点で舟を置き、川の中を歩いて踏査し、上流のことを案内のアイヌの人から聞き取り、サンル川を上がり、雄武に至る峠に達しました。

6月18日、フレ・ペツ(赤い・川)風連町ハチャシナイ(初茶志内)山上流のユウベウンヌに大きな淵を通り士別に向かった。

6月19日、20日、シ・ペツ(大きな・川)士別市では武四郎は、リイチャニ(北町)の屋根の腐れていた無人のニシハコロの家に宿泊しました。20日サッテクベツのルヒサンケの家に泊り、また帰りにも泊り武四郎ニシパが来ているとコタンのアリエテンカ、トセツ、ルヒサンケの皆が集り、賑やかに酒宴をしました。21日パンケヌカナン(金川)、カアナイ(上士別)、間宮林蔵が来たと言う伝えられているナイタイベ(内大部)を通り、トナイタイベ(東内大部)まで行き一泊しました。翌日ナイタイベから舟で急流をずぶ濡れになりながらサッテクベツまで下ってきました。

ケネニ・ペツ(ハンノキ・その川口)剣淵町、武四郎は6月20日、支流の剣淵川に入り、途中で急流のため舟を降り川岸をつたわって犬牛別川との合流点まで行き、その先のことをアイヌの人々から聞き取りしました。それによると、犬牛別川の上流にはタンネベツ、最上徳内が来たというシュルクタウシベツなどの地があり、その源から石狩川筋の雨竜川へ行けると聞き出し記録しました。交通路として利用した川には「ルペシベ」(山越えで向こう側へ下りる道)の地名が付けられる事が多いのでした。

天塩川のほとりには、北の大河をはぐくみ山々に抱かれ古い風俗を残しながら自然と共生する人々が豊に暮していた旅も終わり6月30日に無事天塩に戻ってきました。

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第五回蝦夷地調査…雄冬山道開削

寛政・文化年代の道路開鑿は主として東蝦夷地の海岸沿(礼文華・襟裳岬・黄金海岸等)に限られていたが、安政以降は西蝦夷地にもその力を注ぐようになった。箱館奉行は当時、資力・労力ともに豊富であった場所請負人に命じて道路の開鑿を積極的に行わせ、さらに篤志家にも道路の開鑿を奨励したので、この時代西蝦夷地方にも道路が開削されたのです。これはロシアの南下に対する蝦夷地の警護と鰊景気の商業上の必要性もあったからです。

「場所請負人其他篤志家は何れも蝦夷開拓の趣旨を奉じ、私費を投じて道路を開鑿したれば、箱館奉行は之を幕府に上申し幕府より褒賞を賜りたり」…いずれも箱館奉行による半ば強制的な奉仕作業で蝦夷地の道路が開削されました。

「阿冬(増毛)山道」の開削は、伊達林右衛門智信の普請で行われた。この山道は「阿冬は浜益増毛間の難所たり、殊に阿冬は西蝦夷地三嶮岬(モッタ岬・神威岬・阿冬岬)の一つにして従来掻送船の沈没すること少なからず、人々恐怖を抱きたる所なりしが、安政四年浜益、増毛両場所請負人伊達林右衛門が自費を以って、阿冬山道を開削した。浜益より増毛に至る道程は九里余であった。

以前道路の開削調査に当った箱館奉行堀織部は、浜益、増毛間を山道とする計画を立て幕府に建言書を提出していた。そこで幕府は山道開鑿をハママシケ場所とマシケ場所両場所を請負している伊達林右衛門に命じました。そして浜益幌より切り始め増毛ポンナイ浜まで、その里程は約九里として安政四年五月十八日から工事を始める事になったのでした。

松浦武四郎の記録によれば、ハママシケ場所方面は五月十六日、十七日頃に取り掛かり、人夫四十人程を使って、僅か五十六日間で工事を終えている。一方マシケ場所方面は五月下旬から始まりハママシケ側に負けないようにと工事を急いだ。山道開削は七月時点でほぼ完成しているとしている。

この道路開削によって西蝦夷も石狩、厚田、浜益を通って増毛まで陸行が可能となりました。

武四郎は「オフイ岬は蝦夷地第一の嶮岬にして、往昔より九里八十間(約35km)の間、波浪強敷故、九月中旬より通船難く、是が為如何なる非常の事たりともその注進を滞る事有て、只山狩猟の土人のみ山脈を知りて通行する由」と記している。

そして雄冬山の頂上に、祠を奉って箱館奉行堀織部正自筆の扁額を納めました。これは「笹子屋」(人夫小屋)是をまた茶屋にすべしと談じ置き、傍らに於布居(おふい)の社というを建て、金比羅神を祭る神社を建てて浜益の湊から船で天塩に向かいました。

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第五回蝦夷地調査…石狩川

安政四年松浦武四郎(40才)は、箱館奉行村垣淡路守から蝦夷地一円の山川地理等を取調べ、新道切開き場所の見込みを報告するようにとの辞令を受けました。4月29日(陽暦5月20日)に箱館を出立し、石狩川、天塩川、そして尻別川の源流を探査といった道央・道北地方を検分する予定で石狩に向かいました。

5月14日探査の途次、岩内から余市に至る新道開削の検分しながら稲穂峠を越えて、七曲り、然別、オサルナイを経て余市に向かったが、先ず新道の出来栄えを歌にして詠みました。「岩を切 木を伐草を 苅そけて みちたいらけし 山のかけとも」

5月17日(陽暦6月8日)、石狩川の河口にある場所請負人村山伝兵衛の石狩運上屋に着いた武四郎は、翌日支配人能登屋円吉に石狩川上流、上川方面の調査のため、土地に詳しいアイヌの案内人を四人ほど世話して欲しいと申し入れた。前年の旅では、甚左衛門という番人を案内役という名目で監視役に付けられ迷惑したので、今回は番人役は不要と予め断っておいた。

武四郎としては、昨年同行して上川近辺の山の様子をよく知っているうえ、シャモ語もできるイワンハカル(40才位)を当てにしていたのに、今回は都合がつかないと断られた。同人は一日早く夕張へ追い上げられていました。イワンハカルが支配人や番人の目の届かないところで知られてはまずい事を、武四郎に話すのではないかと心配したのでしょう。

19日早朝、4人のアイヌ(セツカウシ・トミハセ・ニホンウデ・アイランケ)と共に荷を積んだ丸木舟で出発しようとしたところ、番人小弥太という者を案内にと差し向けてきました。探られたくない腹を持つ地元場所の支配人は、武四郎を地理取調べだけでなく自分たちに都合の悪い余計なことをする目障りな出張のお役人と思い監視をつけたのでした。

5月20日(陽暦6月11日)暁方ツイシカりの番屋を出発、樹木や熊笹の生い茂る川筋を丸木舟で漕ぎのぼる。第二夜は美唄川合流点付近のニイルルオマナイでの止宿である。翌朝水面に枝を垂れる柳が風に吹かれ雨かと疑うほどの下露が落ちてきて、川面に水煙が立ち上り、あたり一面靄で幽玄な世界であった。鹿が親や子を呼ぶ鳴声があちらこちらから聞こえるなかを出発しました。

5月21日、カバト川(浦臼付近)三軒屋に上陸し晩生内近辺を踏査してその折、樺戸連山の眺望を手控えに記録して一泊しました。対雁からここまでが下カバトで、文化七年人別では百二人安政三年人別では三十一人、十軒となっているが他所同様に、すでに一軒もなく「有丈浜え下げ有」である。ここからウリウプト(雨竜)までの上カバトも文化七年三百七十二人、安政三年百三十四人とあるが実際にはトック(新十津川町)に三軒オシラリカ(尾白利加)に一軒だけ、上下カバト合わせて三十四軒あるあずの家がやっと四軒しかない。武四郎はここでも人別帳記載の人名一々に当って詳しく調査している。

上カバトと下カバトの境…カバト川は江戸時代に松前藩が設けた石狩13場所(商場)の内の上カバト場所と下カバト場所の境界となっていた川です。

5月22日トック(新十津川町)着、トック(徳富)川の合流点である。同行の案内人の一人セツカウシは、ここの乙名であり、彼のチセ(家)が泊りの宿である。「日数経て 突区の里に 来て見れば ここもかはらぬ 芦ふきの宿」と詠いました。隣は小使トミハセ(37才)の家、妻ヤエノマツと子供三人が住んでいました。

トミハセは父母を敬慕し、二人が五、六年前に死んでからというものは、朝な夕なにさめざめと涙をこぼし、父母の霊に何事かを語りかけていた。石狩の運上屋へ雇いに行かされているときも朝な夕な山の方へ向かって何か言っているので、仲間のアイヌが「何を言うのか?」と聞いてみた。すると彼は、今日は寒かった、今日は暖かだった、何の仕事をした、どこえ行った、今帰ったと一々親へ告げているのだと答えた。その話を聞いた武四郎は其の心栄えに感心しました。

セツカウシもトミハセも前年の旅のさいに案内役を務めてくれた旧知の仲であった。今回石狩の浜で会ったとき、トミハセはチタラベ(横模様の入った草ござ)一枚を去年のお手当てのお礼ですと持ってきてくれた。武四郎シサムは、その篤実さに感銘して、今度の山行きの案内をたのみ土産に酒二升をあげたいが、ここでよいか、それとも山に持っていてそこで渡すほうがいいかと聞くと「山で下さい」という。その理由を尋ねると、山でもらったら親の墓所へ供えると答えました。

トックに着いて、約束どおりお酒二升を渡すと、すぐにそれを親の墓所に持って行ってやや暫らくその酒を手向けまた自分で飲んでいと嬉しげに拝礼して帰ってきた。そのイチャバル(先祖供養)の後、隣人たちを招いてのこりの酒を振る舞い、このお酒は武四郎ニシパから貰ったのだという訳を「意図も意図も叮嚀に申し聞かせ」酔うほどにシノッチャ(自即興の唄)をして悦びあった。

この酒宴の折に、武四郎がこのあたりは土地も肥えているようなのに、なぜ畑を作らないのかと尋ねると「運上屋から畑作はきびしく禁じられています」という返事。しかし、このたびの御処置(再直轄)では畑を作り和人語も使えというお達しではないか、かさねて問うと、一同大笑いして、ニシパ、松前領のときでも親に孝行せよとか、軽物(鷲の羽、毛皮、熊の胆など藩の専売品)を精を出して取るようにとの申し渡しがありました。しかし、その軽物を取りに行こうとすれば、番人は行かなくてもよいという。(軽物は請負人の利益にならない)、病人や年寄は浜から山へ帰してしまって、雇いが出来ない者などを大切にして飲み食いさせることはないといいます。病人が出たら早々に知らせよというので、病人があるというと、センプリやイボタを煎じ唐辛子を茶に仕立てて飲めといいます。お上の御趣旨というのは嘘ばかりです。と心を開いて武四郎ニシパに真相を教えてくれました。

5月25日早朝イジャン(深川市広里)から丸木舟で石狩川を上り始めた。右は山で、左は平地である。シヘヌカルシ、ホンヌ、ホロナイ等を過ぎるとナイタイベ(内大部)である。川の流れがだんだん速くなってきて丸木舟を漕ぐのが大変である。ヤソシハラ、オツカヤマナイを過ぎると、両側に険しい山で、川の中には所々に大きな岩があり、水は渦を巻きながら大きな音を立てて流れている。ハラムイからは綱で丸木舟を引きながら400m.程進んで、シキウシバに着いた。この辺りをカムイコタン(神居古潭、旭川市境界付近)と呼ばれている景観優美な難所なのです。

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第四回蝦夷地調査…向山隊長の客死

安政三年(1856)5月20日早朝に宗谷を出航、その日に昼には樺太シリマオカに着き、ポロナイスク、シスカ(敷香)八軒の人家。

宿であるハスランケの家に着くと家の入り口に青草を敷いて迎えてくれた。ハー(黒百合)など植物の根を煮て、小娘たちが甲斐甲斐しく魚を手料理してご馳走してくれました。待ち合わせも僅かになっているが米・酒・針などを遣わす。するとこのタライカの人たちは、ニシバ、ニシバと親しみ踊りを興じて、ここまで尋ねて来た武四郎を慰めてくれるのであった。

タライカ人此処までにてオロッコ人と交易する。獺(かわうそ)・狐(きつね)・貂(てん)の三種は尤も貴し。タライカ、スメレンケ、コルテキ、山靼人等の交易の過不足を償ふには青玉を用ゆ、其の遣い方本邦の銭の如し。クシュンコタン(久春古丹)は運上屋、蔵倉、弁天社等美建なり。地名クシュンは浪無静なる、コタン処実に好湊。長崎の平戸で見掛けた千石船も荷をこんもり積んでここで停泊していた。

樺太の土着の人々は、和人(シサム)であれ、旦那(ニシパ)であれ、同族異族の誰某であれ、彼らには分け隔てをする、また媚び諂う気持ちはない。彼らは大樂かに自然人であった。

タナンコタンでの詠 「ひと棹を さしてもがなと 言いはかぬ 異国人の守にまかせて」

異族の区々の住まいあいと、他人を扶け、命を託して誘導して呉れる人間というものが、この大地に多数いる。世界という広大の地上に数多の人々が居て、各々それぞれに日々を生きているのだと、此処まで来て身に沁みて感じ入る武四郎であった。

7月19日宗谷に帰って来た一行は、看病の甲斐もなく客死した向山源太夫隊長を懇ろに弔って、8月16日宗谷を出発し、隊長の遺骨を抱いて旅を続ける事にしました。

オホーツクの海岸を調べ歩き、網走から知床半島の付け根を、山越えシベツ(標津)に出、根室に行き東蝦夷地の太平洋岸を浜中ー厚岸ー仙鳳趾ー白糠ーオホッナイ(大津湊)-ビロー(広尾)-シャマニ(様似)-と踏みそしてモロラン(室蘭)を経て、10月13日に箱館に戻ってきました。

箱館に帰着した武四郎は、其の報告を箱館奉行に提出すべく直ちに日誌の清書に取り掛かったが、11月に病床に臥し、12月には辞世を布団の下に敷き置くほどになってしまた。年が明けやっと快復し尊敬するこの旅の巡見責任者で客死された向山隊長との「扈従日誌」を箱館奉行に提出することができました。

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第四回蝦夷地調査…蝦夷西海岸

安政三年(1856)3月29日箱館を立った箱館奉行組頭向山源太夫隊は、日本海(西海岸)沿いに松前藩からの請取の手付と新道開発のための探査をしながら樺太に向かった。

御雇として同行した松浦武四郎(39才)は再航の時(弘化三年)通った道筋なので、途中ときどき隊から離れ、川を遡行し、山越えをして新道開削の見込みに当りました。その土地、その土地でアイヌの人に道案内を頼んだりしたが、道なき道を踏み分け大変に難渋しました。

フトロではホンアキやイタキシベ、ヤタナイではシイヘシ、シマコマキではホリペといふうに足達者なアイヌの人々が案内してくれた。彼らは武四郎ニシパに自分たちの使っている地名・川名・山名やその意味、土地の伝説などを細かく話してくれた。その最後はアイヌの置かれている境遇、過酷な労働や人口の激減について語るのが常であった。道すがら運上屋、番屋の支配人、番人のアイヌに対する遣り方を聞きて、ひたすらに袖を湿したり…「こころせよ えみしも同じ 人にして この国民の数ならぬかは」

奸商の酷使によって人口が激減したというのである。武四郎はその話に袖を濡らしただけではない。事実を調査し、また上司にも報告をして、善処を要望している。調査の結果「文政五年改、三十一軒、百二十八人、男六十八人。安政元年改、十一軒、三十四人、男二十五人、女九人」ということがわかった。松前藩統治下でアイヌがいかに過酷な労働環境に従事させられていたかを物語っている。

武四郎ニシパのことを聞きつけたアイヌの人たちがスッツまで追っかけて来て、口々に訴えたのである。「シマコマキ土人共直訴に附申上書」という報告書をかいている。それによればシマコマキからスッツの領分に入ったところで、シマコマキのアサリンカ、リクニンリキ他二名が走ってきて熊笹の葉などを敷き詰めて自分たちの着ていた陣羽織を脱いで敷いてこの上に座ってくれと言う。彼らの訴えは場所請負商人によって酷使されたため、若い者も死ぬことが多く、また独身の女性も少ないので自分たちの子孫は絶えてしまうかも知れない。何とか子供たちがふえるようにしてもらえないか。

今まで同じことを支配人や通辞に訴えたこともあったが、かえって憎まれて荒縄で縛られて梁に吊るし上げられて痛めつけられたこともある、というのである。武四郎は彼らから聞いた話を詳細に紹介したあと「右の次第に御座候間、其の大略並びに彼ら悲嘆の趣は何卒御再考の上、土人共立ち行き候様、御処置の程、偏に願ひ上げ奉り候」と結んでいる。

松浦武四郎ニシパがアイヌの人々に愛され慕われているのは、彼がこのように温かい人道的精神の持ち主であったからでした。

積丹半島のフルウ(神恵内)では「しばらくの 晴間も見えて ふるうの海 里の名しるく 五月雨なり」と和歌を詠み通り過ぎました。

エナオ峠というオショロ(忍路)とタカシマ(高島)の場所境界なるよし…5月5日踏査、陸路オタルナイに着き向山隊長が忍路から船行してきて合隊しました。オタルナイの旅席に石井某という者が武四郎を訪ねてくれた。石井潭香はこの時は松前藩に仕えていたが、以前浪人中に崎陽(きよう=長崎)に行き学んでいた。「清朝風を慕ひ好事の人」であった。また文化年間に渡来したカピタン・ヒルケンが「五十年之後は必ずロシアの事有るべし」と云ったと長崎遊学で聞いた話を武四郎に伝えている。

小樽から銭函を経て蝦夷の大河石狩川河口の石狩運上屋に着きました。旅の準備を整え丸木船二艘にトックのアイヌ、トミハセ他数名の案内人と分乗して5月7日に石狩川を遡り、9日ピパイ(美唄)、10日ウムシナイ(浦臼内)、11日トック(新十津川橋本)を経て、石狩川から雨竜川に入り12日ウリウフトオモシロナイ(雨竜面白内)に泊り、楡の皮でシトケリ(わらじ)とシケニ(荷物を運ぶもの)を作り、皆で酒を飲んで寝ました。翌13日恵岱別を経て北竜の石油沢から信砂越え日本海岸の川口に出て15日ルルモッペ(留萌)で「えその海 氷もとけて なかりけり かすみのおくにも 春や志るらん」と歌を詠ませていただきました。そして日本海岸を北上して5月19日、幕府御雇係松浦武四郎と共に向山隊長一行が北蝦夷(樺太)に渡るため宗谷に到着しました。

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ニートから幕府御雇入れ

当時、幕府内には蝦夷地開拓をめぐって、水戸藩主徳川斉昭の急進論と目付堀織部正や勘定吟味役村垣範正らの現実論とがあった。斉昭の意見は、ロシアの南下政策に対抗するために、樺太・エトロフ・クナシリの三箇所の警備を第一として、ここを拠点に開拓を進めていくというものであった。これに対して堀・村垣の意見は、箱館の警備も十分でないのに、奥蝦夷地ばかりを開拓していては多額の費用がかかるのではないかというものだった。

嘉永七年(1854)2月、幕府は蝦夷地の事情を知るために堀織部正と村垣範正に現地を巡見させ復命書が提出されました。

安政二年(1855)幕府は、蝦夷地再直轄の方針を固め太平洋岸は木古内、日本海岸は乙部村を境界線として松前藩に、その以北の全島は直轄として箱館奉行を置き同年4月より警備を東北五藩…津軽・南部・秋田・仙台・会津に担当させました。

箱館奉行として堀織部正・竹内下野守を松前藩から蝦夷地請取のため、西蝦夷地には組頭向山源太夫が、東蝦夷地には河津三郎太郎が遣わされました。

安政ニ年歳末に松浦武四郎(38才)は、「御雇入被申付、箱館表へ被差遣候」の沙汰を受けました。蝦夷地行の辞令である。明けて三年の元旦、今年は生きたる心地になりて麻の裃に正装して、堀織部正に年詞を言上致しました。2月に出立せよと申渡を受け、諸方から餞別を頂戴し、水戸老公、藤堂侯、土井侯から殊の外親切を得ました。

これまで私費で隠密のような旅を続けていた武四郎に、遂に晴れて幕府雇いの身分と応分の手当を得ての公務出張の道が開けたのでした。

翌三年2月6日初午の日に武四郎は江戸を出立。3月5日津軽を出航、4回目の蝦夷地に渡海しました。そして箱館奉行所に出頭し、向山源太夫一行の巡見の準備を命じられました。

3月25日に堀織部正が江戸から函館に着きました。『西海岸新道見立』を建白しておいたところ、西蝦夷地新道を『見立て切り立て候様』懇ろに御沙汰を受けました。そして武四郎と向山隊は、29日(陽暦5月3日)に西廻にて西蝦夷地・樺太へ請渡しに出立しました。

幕府の御用は道路開鑿そのため、山川地理を取調べ、「蝦夷地開き方」を蝦夷地・樺太に踏査経験のある武四郎に命じたのでした。はっきりとした目的意識と任務を持って…手控と呼ばれる野帳に、動きながら素早く多くのことを書き込みできるか重要だった。つぶさな記録、大量の日誌、武四郎はメモ魔だったのだろう。

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開国と松前藩の刺客

安政元年(1854)ペリーがサスケハナ号に旗乗し、軍艦7隻を率いて江戸湾に入り、開国と国交条約を要求、ついに3月31日(陰暦3月3日)日米和親条約を調印次いで下田で交渉がなり下田・箱館が開港となりました。

3月上旬、松浦武四郎(37才)は樺太島の境界で幕府に上申していました。文化五年(1808)間宮林蔵らが満江(アムール)川筋まで踏査、帰途北緯48度白主場所より北130里モロコタンという所に境界標を建てた。この境界標の北には山丹人の風俗をするオロッコ人が住まう。彼らは満州族の古着を着、満語を交えて話す、蝦夷語を話す者は少ない。これから南はすべて蝦夷人同様にして襟は左前(オロッコは右前)蝦夷言葉であって満語を用いない、こうした風俗の違いによって境界を定べきと申し上げました。

5月4日、宇和島候に喚ばれた武四郎は下田の様子を調べ、6月には米艦の浦賀再来の様子を龍土邸(宇和島藩の江戸屋敷)に報告しました。

10月22日にロシア使節プチャーチンが下田に来航、この時は津の藤堂藩の求めで松本十郎兵衛がたって武四郎を推挙して従行、藩士松本は目付として露艦との対応に勤めていた。

プチャーチンは国交、通商を求める特命を持って幕府当局者勘定奉行兼海防掛川路聖顕(かわじ としあきら)と日ロ和親条約について交渉、12月21日、日露修好通商条約が調印された。この条約で日ロの国境を択捉島とウルップ島の間に定め、樺太は次の条約が結ばれる迄は従来通り両国人雑居のままとなりました。

此時、海嘯(津波)にて其船破損せり、異船災に阿い候節人々悦び聲を上げ候事は誠に神国の神国たる處に御座候、或人曰く異船一度来て、将軍様の御他界。二度来て京都の御炎上、上野の大地震は10月2日安政江戸大震。

この津波がプチャーチンの乗るディアナ号を損壊し沈没した。西伊豆の戸田で代船を建造、西洋型船の本格的造船の初めてであった。鎖国中であり外洋を航行する造船はご法度の時代。プチャーチン提督は未知である造船をよく仕上げた戸田の船大工の人たちに感謝して船名に地名の「ヘダ」とつけました。

この頃、武四郎は蝦夷日誌のほか弘化四年(1847)に執筆した松前藩の内情を暴いた『秘めおくべし』で松前藩の稚政を鋭く批判したため、同藩に敵視された。幕府の目附に武四郎を中傷・讒訴して罪に落とそうとし、或いは徳川斉昭が武四郎を登用しようとすると邪魔を入れたりした。遂には松前藩草間党の刺客が身辺を窺っていると心配する友人もあり、安政元年11月、武四郎は小石川の水戸藩邸近くの或る長屋に潜んだ。それは長屋とは言え、実は馬小屋で馬を繋ぐ四本柱の中だけを借り、三枚の畳も五寸ばかりづつ端を切って敷き込み、それに机と本棚を置き、食事には火鉢一つにて土鍋に土瓶ばかり、茶碗、箸等は机の引き出しに入れ置くという惨めな状態であった。

藤田東湖も武四郎の身を案じて、この馬小屋を訪れた。その東湖も翌安政2年10月「安政の大地震」のため震死し、有力な理解者を失った。

この頃になると蝦夷地北辺、東辺には異国船が接近するようになり、松前藩のような弱藩に蝦夷地を委ねていては国の将来は危うくするということで、幕府は蝦夷地を再直轄することにしました。

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黒船来航…風雲急!鎖国体制

嘉永六年(1853)6月4日、松浦武四郎(36才)は日本橋下を早走る船に目が留まった。亜米利加ペリー東インド艦隊司令長官の来国を注進する早船であった。

ペリー艦隊は浦賀沖に軍艦4隻を率いてフリゲート艦ミシシッピーを旗艦としてフィルモア第13代大統領の国書を持って開国を求めにきました。

その時、日本国中「太平の眠りをさます丈気仙(蒸気船)、たった四杯で夜も寝れず」という大騒ぎになった。…当時丈気仙とは江戸の飲み屋で庶民に人気あったお茶のダシガラに焼酎を注いだ飲み物でした。武四郎は御殿場(品川台場)警固の員数に入るよう宇和島藩に頼まれました。

その頃、吉田寅次郎(松蔭)24才と渋木松太郎23才が下田港で伝馬船で軍艦にゆき密出国を企てますがペリーより役人に通知され召捕られ江戸表に送られ「御用留」吟味となりました。

幕府は水戸藩主徳川斉昭を防海参与に任命、藤田東湖も海岸防禦御用掛の肩書きで斉昭の側近で復帰しました。

7月にはロシアの使節プチャーチン海軍中尉が軍艦4隻を率いて長崎に入港、国書を長崎奉行に渡して、日ロ国境問題の解決と通商を求めにきました。

この年10月、13代将軍となった徳川家定に対する将軍宣下(天皇が征夷大将軍に任じる言葉を下す儀式)に際し、国防に関する沙汰書が下されるよう朝廷に請願する計画が藤田東湖、藤森大雅(海防備論)、鷲津毅堂(小説家永井荷風はその孫)によって、密かに企てられた。武四郎は鷲津より密使として上洛を頼まれ、三人が書いた文書と、その企てを知った吉田松蔭の国防の急務を論じた一書などを携えて、9月江戸を出発しました。

東海道では佐幕開国派の志士たちに、顔を知られているので甲州街道を歩き京都に入った武四郎は、多くの協力者(梅田雲浜、梁川星巌、頼三樹三郎等)に助けられて、将軍宣下伝達の勅使として江戸に下る予定の武家伝奏(武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役)三条実万(さねつむ)、坊城俊明(としあきら)をはじめ枢要の地位の公卿に働き掛け、請願聴許の内報を得て、11月中旬江戸に帰ってきました。

ところがこの時、武四郎は水戸斉昭公に依頼され、夷敵退治の錦の御旗下賜を願いに上洛との噂が立った。桜任蔵はこの噂を信じて漸く将軍家と和解し、幕政に参与した斉昭公と幕府の関係を再び悪化させると激怒し、武四郎を江戸帰着の前に取り押え幕府に引渡すと待ち受けた。このことを知った加藤木賞三は武四郎の身を案じて、桜任蔵を藤田東湖のもとに連れて行き、真相を聞かせ斉昭公は全然関係ないことを説明しました。

その年12月下旬、江戸に着いた両勅使は、将軍宣下の後、老中阿部伊勢守らに対して、ペリー提出の国書の要求は「神州の一大事であるから、いよいよ衆心堅固に、国辱後禍のこれなきよう」にとの主旨の沙汰書を授けた。これに対して老中阿部は、将軍以下叡慮を案じられるよう努力しているが、何分にも十分の防備が整っていないことを率直に述べ、なお国防について天皇の思し召しがあれば、遠慮なく仰せ付けられたいと、朝幕の意思疎通を更に一層はかることを約束した。

このように松浦武四郎は、尊攘志士のような役割を果たしたが、後になって、安政大獄により彼の親交を結んだ頼三樹三郎や吉田松陰等が刑死したことを想起し、若し自分が蝦夷地探検に身命を打ち込んでいなかったら無事ではすまなかったであろうと述懐している。

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蝦夷大概図、蝦夷日誌を献上

嘉永元年(1848)武四郎(31才)、加藤木賞三、葉山静夫らと申し合わせ、僅かづつの金を積み立てて、水戸で窮乏中の藤田東湖に送り始めました。

この頃に、「烈公(斉昭)よりいと有り難き仰せごとを賜わりたり」と感激している。水戸藩主斉昭公は北辺についての情報入手に熱心で藩士の碩学豊田天巧に「北島志」を編集させている。

賞三と武四郎の交友関係は、双方の知己である桜任蔵、林鶴梁らによって結ばれたものである。

一介の処世の士に過ぎない武四郎の北辺踏破は、諸国遍歴によって鍛えた体力、多芸多才の教養(篆刻は一家を成し、和歌は佐々木信綱の父、絵画は石井柏亭の父に学び、骨董の鑑定も素人離れであった)に加えるに魅力ある人柄と社交性などによって、行く先々で得た知己、友人の協力があってこそ、漸く可能となった。

武四郎(33才)で、南北朝時代の吉野朝歌人の衰微を憂い難きの歌集『新葉和歌集』を復刻自費出版し、翌年にはアヘン戦争の折に死んだ愛国者陳化成とその遺骸を葦の中に隠した劉国標を偲ぶ漢詩を集めたもので、清国が西欧列強に敗北した悲しみとともに日本の沿岸警備の警告書『表忠崇義集』を出版しました。

武四郎が『蝦夷大概図』を上梓したり、初航、再航、三航の『蝦夷日誌』を執筆して諸侯に献上したりして、世の中に蝦夷事情を明るみに出したことは、秘密主義の松前藩をいたく刺激した。一介の庶民が「蝦夷通」として名をあげ地図まで作ったことが「生意気で面白くない」と地図をまったく認めませんでした。江戸の学者からも「身分も学問もない者が蝦夷地のことをとやかく書き著すなど、分をわきまえぬものだ」という声があった。武四郎は全て自分の目で確かめた情報であることに自信を持ち「これを多くの人に伝えていかねば、明日の日本はない」と信念を持って筆を取り続けました。

蝦夷日誌には、多くの書物、文書から引用されているし、武四郎がその足と目で集めた情報が満載され先に歩いた者が次に歩く者のために案内を買って出る次に歩く者のために、という思いは道路状況に対する不満となる。道を開いたならば、こんなに日時を費やしたり難儀なこともないのに、折角アイヌの人々が通っていたのに拓殖政策のない松前藩は通行を禁止してしまう。

昔の蝦夷地の地域間交通は、もっぱら海岸を歩き難所を小舟で渡るのが主で、内陸には獣道程度しかなく、馬の移入も和人居住地を除き禁じられ、きわめて不便でした。こうした情勢に変化が生じる寛政年間、千島にロシア船が出没した十九世紀初頭幕臣の近藤重蔵、最上徳内や測量の伊能忠敬、間宮林蔵等盛んに道路開削、改修して馬が通れる程度に草木を打ち払い意識的に道路をつくた。ナポレオン大帝の隆盛でロシアの脅威が薄れ幕府直轄から、一時松前藩領に戻るととたんに道路は荒れる一方となっていることに武四郎は義憤を感じていました。

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三航…クナシリ・エトロフ島の探査

嘉永二年(1849)二月32才の松浦武四郎は江戸を立ち、第3回目の北辺探査の旅に出発しました。目的地はロシアと境を接する要地と考えた国後、択捉の両島でした。

閏4月18日(陽暦6月8日)にクナシリ場所の請負人柏屋喜兵衛の持ち船長者丸に水夫として乗り込み東蝦夷地沿岸の浦々を沖走りして国後島、択捉島に渡り各地を踏査し、6月15日(陽暦8月5日)箱館に無事戻ることが出来ました。

国後は寛政元年(1789)5月、場所請負制度による過酷な扱いを耐えかねた先住民アイヌが蜂起し、和人多数を殺害する事件のあった島である。武四郎はこのクナシリ・メナシのアイヌの反乱を詳しく当時の事情を調査している。

五十年ほど前に先達の探検家幕臣近藤重蔵が寛政10年(1798)、高田屋嘉兵衛の持ち船で大日本恵登呂府より帰り厚岸会所での一条を引く・・・「長崎御用之俵物(煎海鼠、干鮑、昆布等)蝦夷地特産品の産出を強要している松前藩士や場所支配人、番人等がアイヌを搾取」と記録を査読、流石に鳶目菟耳な武四郎である。この頃にはアイヌ語も日常困らぬ程度に身に付いていました。

場所請負制度は、米が収穫できない蝦夷地の松前藩では、藩士に「商い場」のアイヌとの交易権を与え、それを扶持としていた。藩士は場所の交易を商人にまかせて、その請負料を取りました。請負人は漁業を主としまた近江商人が多く、アイヌを酷使し搾取のし放題というのが現実であった。

請負人柏屋(近江出身)は徳川幕府大老井伊家の御用商人で蝦夷地交易では「又十」の旗印をなびかせて、ソウヤ、エサシ、モンベツ、トコロ、アバシリ、シャリの六場所の請負人になり、漁場の水揚げ額が莫大であり松前一の豪商であった。斜里のアイヌは国後方面へ、紋別のアイヌは宗谷利尻等へ強制出稼ぎをさせて、過酷な労働で民族の荒廃を窮迫させていた。

武四郎は国後から択捉には、島の役人が見廻りに往来する船の賄い方となって渡りました。国後、択捉の旅により北辺の地、蝦夷全州の踏破しました。これで江戸時代の「蝦夷通」の基盤ができたのです。

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再航…(2)百印百詩の雅会

樺太探査から戻ると、頼三樹三郎(22才)が全国巡遊の途次江差に立ち寄り斎藤家に寄宿していた武四郎(29才)を訪ねてきました。一見旧知の如くたちまち意気投合、親しさを覚え、路銀を使い果たしていた三樹三郎のために「一日百印百詩の会」を催すことにしました。

弘化三年(1846)10月14日((陰暦=最も日の短い冬至の前日)斎藤鴎洲の一族が経営する料亭、雲石楼で雅会を催すことになった。武四郎、三樹三郎の両人も、お世話をかけている伯交(鴎洲)に感謝をこめての開会となった。この催しには多くの文人が集まりました。見物人の中から「題」が出されると、その「題」をもとに、三樹三郎が詩を詠んで紙に書き、武四郎が題名を鉄筆を使って石に彫ってハンコを作り、その紙に押印する即興芸でしたがそれを百回行うという途方もなく大変な作業でした。しかし二人は夜明けから日没までの間、多くの人が見守る中その百印と百詩を完成させました。

三樹三郎は「常軌を逸する行動であろうが、天のある限り伝え残るであろう」と述べ、武四郎もまた「一時の遊戯三昧に至ると雖も然も亦韻事(みやびやかな遊び)なりき」と、当事者の両人とも誇らしげであった。

弘化四年(1847)の正月、松浦武四郎は江差で迎え雪の中を松前に赴き、津出身の松前藩士山田三川のところに止宿。三月は箱館に出、請負商人の家に寄宿しながら、エトロフへアメリカ人数名が漂着した一件を調べたりしている。五月津軽に渡り、日本海側を歩き新潟に行き佐渡に渡って九月まで全島を巡りました。

秋は越後から上州へ、足尾から日光へまわって十一月中旬に江戸へ帰ってきました。

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再航…(1)北蝦夷カラフト探査

弘化三年(1846)29才の武四郎は、年が明けた1月2日(陽暦1月28日)再び蝦夷地に旅立つた。水戸を通ってまた会沢様を訪ね、水戸藩改革派のリーダー藤田東湖様にも会いたかったが幕府の忌憚に触れ藩主斉昭様と共に謹慎中でありかなわなかった。

江差に到着すると、前年に知り合った斎藤家の斡旋で松前藩お抱え医、西川春庵がカラフト勤務を命じられて出発する「その供の者、名は雲平で法被姿の草履取り」として樺太に渡る機会を得た。樺太勤務の役人たちと連れ立って4月10日に江差を出発した。

日本海岸沿いに約一ヶ月かかって北端の宗谷に、この時案内役のアイヌの人たちと次第に親しくなりアイヌ語の習得に励んだ。宗谷の港に着いたのは5月17日、そこで一週間、風待ちをしました。

風を得て出航するが濃霧や波が荒く船酔い等難儀しながら、5月25日(陽暦6月18日)に樺太シラヌシ(自主)の運上屋たどり着き空腹を充たし体を伸ばして久しぶりの寝具で眠りにつきました。一行は更に樺太南部(マーヌイ、クシュンコタン)を巡察し、彼らと共に東西両海岸を踏破した。シラヌシに近いウエンチシ(遠知志)でアザラシの大群を見て驚き、山丹人との交易の様子なども見聞できた。

シラヌシから宗谷へ帰ったのは、7月16日(陽暦9月16日)であった。ここから武四郎は別行動をとり、アイヌの案内人一人を連れてオホーツク海沿いに枝幸,紋別を経て知床のルシャで投宿した。アイヌのチセ(家)で泊めて貰ったときは、夜中にも炉に火を消さず眠る武四郎を守って熊がよく出るからと寝ずに炉辺に火を焚いて守護してくれた。

昨年9月に建てた知床の標柱に藤田東湖作「玉鉾の みちのく超えて 見るほしき 蝦夷が島の雪のあけぼの」の一首を書き添えました。そして宗谷に戻り利尻、礼文島に渡り探査しました。

宗谷に戻り日本海岸を陸行し、石狩川を丹念に調べ丸木舟で千歳川を遡行ユウフツを経て9月上旬(陽暦10月上旬)江差に帰ってきました。

五ヶ月の探査行で武四郎は、商い場や運上屋、漁場そして内陸部の地形、アイヌ民族の生活、人柄、習慣、労働形態等など絵や文字にして詳細に記録しました。アイヌと同じ火で煮炊きし、同じものを食べ寒い時には一枚の熊の毛皮に共にくるまって寝ました。アイヌの人たちに好感をもって迎えられるようになりました。「人が人を知らずして、何で人の道をまっとうできましょう」武四郎は見事に実践に移したのでした。

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初航…松前藩は八釜しい

弘化二年(1845)28才の武四郎は、春3月蝦夷が島に渡海したく津軽半島の港鰺ヶ沢に到達していた。江差の商人の斎藤佐八郎の手船に乗せて貰って津軽海峡の荒い波を超えて蝦夷にわたる。船の中では大波が来た時に備え、船乗りたちはみな海草で作ったみのを頭から被り、腰紐で互いを結んでいました。大波が押し寄せてくるたびに「船玉大明神,お頼み申す」と祈るのであった。

商人の佐八郎は土地では嫌われ者で通っていたのであるが、その倅の作左衛門が文人で旅の途次にある墨客を歓迎し親切にも宿まで厄介になりました。

武四郎は初めに西蝦夷地を調べようとセタナイ(瀬棚)の山岳霊場、太田神社に航海の安全と霊神の加護を祈願し久遠に入り奇岩が立ち並ぶ北海の奇観に驚きました。

セタナイの関所で余所者扱いで追い返されてそれより奥には入れませんでした。そこで武四郎は江差の人別帳に自分の籍を入れ、箱館の請負人白鳥新十郎や関所役人の猿田幾右衛門らと知り合いになり、和賀屋孫兵衛の手代として東蝦夷地に入り込むことができました。新十郎は京都で知り合いに成った白鳥雄三の父であった。彼らは関を通る手立てを取ってくれただけでなく、馬や宿の便宜まではかってくれました。

武四郎は手控(野帳)と矢立と羅鍼(針)に小さな行李と鍋それだけを両の肩に振り分けて歩いた。道すがら当別のカジカ,木古内のハマナス,吉岡のガノジ,大野のカハタビ、砂原のシンタラ、鷲ノ木の陣羽織等の名産名物を至る所で精力盛んに試みている。ヤムクシナイ(山越内)には、アイヌの馬乗りの巧みなこと、幣を家に立て天地の神に祭っていることなど尊きこと少なくないと野帳に筆を滑らしている。

クンヌイ(国縫)、アプタ(虻田)、ウス(有珠)、モロラン(室蘭)、ヌフリベツ(登別)の温泉を訪ねている。シラオイ(白老)ユウフツ(勇払)を経て日高路を海岸に沿ってサル(沙流)、シブチャリ(新日高)、ウラカワ(浦河)、シャマニ(様似)、エリモ岬を歩きトカプ(十勝)へ、そこからクスリ(釧路)を経てシレトコ(知床)まで行き「勢州一志郡雲津松浦武四郎」と大書きした標柱を建てました。

帰路、ネモロ(根室)へ寄りノシャフ(納沙布)岬に立ち、アッケシ(厚岸)会所に寄り箱館にもどたのが10月であった。

ひと月ほど松前に留まって様々な人々と交わる一方、城下を調査し、この時知り合いになった山田三川は、津の出身で当時松前藩に仕えていた。藩の内情を引き出すのに大変助けになった。

十一月、武四郎は手控や旅行中に得た地誌の類を詰め込んで笈を背負って江戸へ、帰途水戸に立ち寄り会沢正志斎を訪ねました。会沢は、水戸藩の尊皇攘夷論を体系づけた「新論」の著者で弘道館の初代総裁を勤めた。武四郎は、単に碩学の誉れ高い会沢の謦咳に接するだけでなく、蝦夷地に関心を持つ徳川御三家の水戸藩から若し何等かの庇護が得られれば、御国のため心強く有難いと密かに思っていたのであった。

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蝦夷を目指し津軽へ

天保十四年(1843)26才の秋、10年ぶりで武四郎は伊勢の実家へ戻った。母の死の知らせがきっかけに、長崎で津川文作翁(蝶園)という博識の町人から紅夷(ロシア人)やアメリカの捕鯨船の南下によって北方に侵略の危機が迫っている話を聞いて蝦夷への旅を決意したのであった。

弘化元年(1844)2月、父母の法要を済ませ、還俗して伊勢神宮に参拝して蝦夷地を目指し出立しました。京都、大阪に立ち寄って北陸路を通り日本海を見ながら北前船の寄港地を巡って蝦夷地の情報収集しながら津軽を目指し歩きました。

9月12日、蝦夷地松前への渡海を目的に津軽半島の日本海に面した港町鰺ヶ沢に着いた。弘前藩随一の港である。ここから松前へ18里、江差へは26里と聞くが、江戸表にて蘭学に長じながら入牢を科せられた高野長英の小伝馬牢脱獄があって渡海の者に吟味甚だ厳しく思いが叶わなかった。

竜飛岬から湾内の海岸を歩いて下北半島へ向かい恐山を経て尻矢岬(尻屋崎)に達しさらに太平洋岸を南下して仙台藩領唐仁村で、来春蝦夷への入島すべき渡航の準備をしながら越年した。

武四郎は道中「伊勢の国、大神官様の在る処の者成るが、日本国中の高山を廻らんがため」旅をしていると「修行者」であること「伊勢出身」であることを看板にして歩いていた。

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長崎平戸で運命の出会い

当時の長崎は世界に開かれた唯一の日本の窓であり、情報基地であった。武四郎は「唐、天竺」に渡る手立てはないものかと機会を窺ていたのである。「唐人邸」「阿蘭陀館(出島)」の模様も調べながら、祭りのおくんち、蛇踊りにも好奇心を寄せていました。

23才の武四郎は、田助浦の天桂寺で住職として、また隣の宝曲寺の寺務も兼ねていました。船宿や遊女屋がある田助の湊近辺には北前船と呼ばれる弁財型の千石船が蝦夷地から西廻航路(日本海ルート)で田助浦に出入りする船が多かった。

平戸藩主松浦氏は、蝦夷の松前藩とも親交があり松前藩家老蛎崎波響の描いた夷尊列像やアイヌ民具等蒐めていました。北海道はその昔、「蝦夷(えぞ・えみし)」と呼ばれていました。「蝦夷」という漢字は、アイヌ民族がエビ(蝦)のようにヒゲが長く、夷(未開の異民族)だったことからあてられました。

昆布、鮑、海鼠の俵物は薩摩に運び琉球王朝そして清国と交易して薩摩藩は大きな富を得ていた。俵物を運ぶ千石船も田助浦に入り風待ち、避難港として碇をおろしていた。高台の寺から僧文桂(武四郎)は其の様子を目に焼き付けていました。

平戸島の千光寺に移り天保十三年九月、25才の武四郎は壱岐に渡り対馬沖に出漁する烏賊釣船に乗せて貰い対州に朝鮮半島が望まれる。異なる国に行って見たいという痛切な思いが疼いたが、国禁に杭うべくもなくむなしく夕日に浮かぶ朝鮮の山々を眺めて平戸島に戻りました。

天保十四年(1843)26才文桂武四郎は、長崎に行き清客蘭人と交わり異国の事情に精通している津川文作翁(蝶園)に会い「紅夷赤狄」が沿海を乗廻し測量しに上陸し云々・・・「北門の杞憂」を説かれ北に御国の人の入っている蝦夷の島がある。足掛かりはついてはいるというけれど未知未開の地らしい・・・180度の方向転換北が武四郎を必要としている。北方探検家武四郎の誕生である。文作翁に蝦夷を探検し北辺の様子を書信で送る約束をして長崎をあとに実家のある伊勢へ旅立ちました。

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長崎で大患い平戸で住職暮らし

全国行脚も五年目となった天保九(1838)年、21才の武四郎は長崎で疫病に罹り高熱に苦しむが、土地の人々の温かい看病で一命を取りとめ、これが機縁となって本格的な仏道修行で般若心経を毎日読経する生活に入る。

九州での武四郎は、宝曲寺、天桂寺、千光寺と諸寺を転々としている。寺を根城に九州各地を歩き回っている。「九州之内薩摩領の外は深山幽谷、道ある処は深く入り海浜孤島も船通ふ処は到らざるなければ神社仏閣詣拝さざるはなし」と述べている。薩摩藩内は幕末のことで余所者に対する詮議が厳しくわずか三日で出国を余儀なくされた。

日向国高千穂の庄では、庄内十八里四方、谷間や山腹に一、二軒住居をなし、隣家といっても三、四町もあるような僻地である。祖母嶽に登りたく武四郎は、五ヶ所村の神主を訪ねて登山道の様子を聞いたところ「とんでもない、余り険し過ぎて土地の者でも春秋の祭日以外は登ることがない、やめなされ」という。それを無理に頼み込むと、神主が自ら山刀を脇挟み、火縄銃を用意して案内にたってくれた。岩角に胸突かれ、木の根にとりつき満身汗になって人の諌めも聞かず足を踏み入れたのは若気の誤りであった。身の恙無いことこそ幸せであると冒険談をする武四郎であった。

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諸国遍歴の旅

故郷に戻った武四郎に、父親は「農民は農民らしく身分相応に生きろ」と諭しました。それに対して武四郎は熱い思いを吐き出しました。「毎日食べるご飯や着る物、住む家はすべて庶民の手で作られたものです。庶民の力なくしてどうしてこの世が回りましょうか。私は庶民の子として、これから諸国の動きを知りたいのです。旅には生きた学問があります。人が人を知らずして、なんで人の道をまっとう出来ましょうか」思いかけず大人になっている息子に対して父親は「旅に出るといってもまだ17歳の若者、3ヶ月もすれば戻ってくるだろう」と旅立ちを許しました。しかし再び故郷の地を踏んだのはそれから10年後のことであり、両親に会うことは2度となかったのでした。

旅に出ることを許された武四郎は、京へ上がり本草・博物家の山本亡羊の私塾「山本読書室」に山野に自生する植物や小動物、昆虫など自然について学習しました。同塾には、大分の賀来飛霞も学んでいました。武四郎は仁科白谷(詩書に善く儒学者)等の数名の著名な学者、文人、画家を歴訪している。当時の知識青年が見聞を広める手段であった。門前払いもあったろうが、当って砕けろ精神で当代一流の人々を訪ね歩いて修行していた。

江戸では水野忠邦の屋敷で奉公したが、そこをしくじって「法体」になり文桂と名乗るお坊さんになりました。

武四郎は「我今より諸国遍歴せんとす。何を以って其の資を得べきや。画家たらんとするもその技拙なり、俳諧師が可なるも世に文盲多し、未だ糊口を充たす足らず、若しくは篆刻家たらんと、諸国を訪ねしも容易に師を得る能わず是を於いて発奮し自ら一本の鉄筆と一冊の印譜とを懐に飄然として浪華の街に下る」と述べている。

旅人にとって関所ほど厄介なものはない。御用のないものは通させぬ、厳しい関所にも抜け道があり、信仰のためのお坊さんは全国共通の通行手形みたいなものであった。お坊さんになった武四郎は、憑かれたように旅から旅えと関東の成田山、秩父の巡礼、四国八十八ヶ所、金毘羅山、京都奈良鎌倉の神社仏閣など遊歴を好んで山川を跋渉していかなる険もいとわず、不毛の地に入るときは日に二合の米を食して、生草生果の類、生魚、干魚等を多分に食し一日も病にさわり候こともなく、一帖の薬を服する事もなし身命堅剛であった。四年間畿内、東海道、東山道、山陽道、西海道、南海道を歩き登り降りしました。

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竹四郎行方知らず

竹四郎は津幡の平松楽斎塾に三年間の修学に努めました。16才いになった竹四郎は元服後幼名から武四郎なり天保4年1月16日退塾しました。そして江戸に下り大冒険の準備と情報収集をしてその後2~3年かけて全国を遊歴しようとする思いがありました。

安濃津の八丁長野屋(下宿先)で身の回りの整理をして柳行李に詰め、飛脚に頼んで親元に着払いで送りました。出奔といっても何もかも放りぱなしにする無責任さはない、実直律儀さは終生変わらぬ彼の性格ではあるが、若さゆえの無鉄砲な家出を敢行しました。

須川村から伊勢街道四日市の日永追分東海道を江戸へ102里、410キロほどもありました。小柄な武四郎(身長150cm.)は健脚の持ち主で、山二つの峠越えをわずか13日間で歩きました。

江戸に着いた武四郎は頼るべきところを親戚筋で幼友達周助の叔父さん、藤堂藩江戸屋敷に勤めていた中嶋磯五郎さんの家を訪ねました。突然のことで驚いた磯五郎さんでしたがしばらく預かる気になり、国許の兄中嶋半兵衛さんと連絡を取る際には武四郎は母へ内々このことをお話し下さいと頼んでいる。

江戸では、楽斎塾の末席で声の聞いたことのある山口遇所を訪ね篆刻の修業をしていました。

武四郎が「行方知れず」になって兄佐七は隠居した父に代わって武四郎探しの任に当り、連れ戻しに使いの金蔵を江戸へ向かわせた。金蔵も到着され、武四郎は3月2日に出立することになりましたが金蔵には文を持たせ先に帰し武四郎は一人中山道を回りで信州善光寺を参詣し、戸隠山に登って帰郷している。その時以来「木曾の山水、東海道の風景、目に在る故遊歴の志ざし止まず」と病みつきになたのである。

四日市に着くと幼友達の中嶋周助に「いま津の部田にいる、内々の話があるので夜になったら提灯をもって雲出川の常夜灯まで来て欲しい…」伝言。津まで帰ってきながら実家の敷居が跨げにくい武四郎、周助を誘い出して、父や兄の機嫌を探り周囲を気にしながら、夜が更けてから家に入ることにしました。

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誕生と幼年期

北海道の名付け親、松浦武四郎は1818(文政元年・戊寅2月6日)伊勢国一志郡雲津の川南須川村(現在の三雲町小野江)に裕福な庄屋の紀州領郷士松浦桂介時春の四男として生まれました。父親は干支にちなみ寅と関わりの深い「竹」に四男の「四」をつけ「竹四郎」と名付けました。

松浦家は肥前平戸の藩主松浦家につらなり伊勢に移住して三雲町を流れる雲出川の上流、多気の城主北畠家に仕えて土着しました。

三重県の中央部を横断するように雲出川が流れ、旧参宮街道と交わるあたりに小野江があります。

雲出川は下流に豊かな水量と沃土をもたらし、穀倉地帯を作り上げている。土手や河原は竹四郎の幼児の格好な遊びや冒険の思い出の場であった。竹四郎がのちに雅号に多気志楼や雲津などを用いるのは、故郷への憧れと親しみからであろう。

7才にして村の真学寺で禅僧来応和尚に読み書きそろばんを手習いし、幼少の頃から「名所図会」という江戸時代の観光ガイドブック等好んで読んでいました。

松坂の国学者本居宣長や伊勢神道に造詣が深い文人の父親の影響を受け10才にして下記の歌を吟作している。

  『昨日から 日も定まりて 帰る雁』

13才の春、阿波国に端を発した文政のお陰参りが、大流行、自宅前の参宮街道(四日市の日永で東海道とわかれて伊勢神宮まで続く)を賑わせた。全国津々浦々さまざまな国訛りの旅人たちが目の前を往来し、竹四郎は「この街道は諸国につながっているのだ」と思いました。この年父親は2度も参宮に連れて行ってくれました。

この年の冬、津藩の平松楽斎の塾に入門し、3年ほど勉学に励み各地の地理誌や林子平の三国通覧等読み経世の志を起し諸国遍歴を抱くようになった。

楽斎先生は、10代藩主藤堂高兌(ふじどうたかわさ)に仕えた。小姓頭、槍奉行、郡奉行を務め、天保の飢饉には、民生家として手腕を発揮し、「救荒雑記」「食草便覧」を著し、飢えに苦しむ人々の救済にあたった。先生の塾には、猪飼敬所(いがいけいしょ)や梁川星巌(やながわせいがん)、足代弘訓(あじろひろのり)、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)といった当代一流の学者の逗留することが多く、竹四郎も聴講の席に座っていました。

そして、平松塾を訪れる高名な学者たちに大きな影響を受け学問を深めるには、諸国を巡り見聞を広めることが必要と感じるようになった。竹四郎は退塾し16才で家出までして江戸への初めての旅をします。

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