大台ケ原と一畳敷書斎
政府の北海道開拓政策に反対し、開拓使を辞めた松浦武四郎は再び諸国を歩き始めました。骨董収集に熱中したり、全国の天満宮に鏡を奉納したり、滋賀県の三井寺に蝦夷地調査で使った鍋を収めた塚を作るなど多彩な活動を行いました。
そして明治十八年(1885)武四郎(68才)から70才までの間、毎年大台ケ原の調査に乗り出しました。大台ケ原は三重県と奈良県の県境にあり、標高1600m.を越す高い山が連なる「近畿の尾根」と言われるところです。晩年の遊歴を通し武四郎は、まるで北海道の大地を思わせる広大な大台ケ原を終焉の地と定めるほど大台ケ原を愛しました。そしてその様子を『乙酉掌記(いつゆしょうき)』『丙戌前記(へいじゅつぜんき)』『丁亥前記(ていがいぜんき)』という三冊の本にまとめ出版しました。武四郎は大台ケ原探査の目的は、未開の地大台ケ原の様子を皆の衆に明らかにすることにありました。
武四郎は晩年、長年培った人脈を通じて全国の神社仏閣から取り寄せた歴史的建造物の古材で作った畳一枚の小さな書斎、それが「一畳敷」でした。明治十九年(1886)神田五軒町の自宅の庭に張り出す格好で増築、日焼けした古色溢れた寺院の古材を柱に神社の板切れを床の間板へと使用しました。古材の入手先は、北海道からではなく、奈良春日大社・駿府久能山稲荷社・厳島神社・伊勢神宮・出雲大社・宇治平等院・西京東山東福寺仏殿ほか多数の神社仏閣の由緒ある古材でした。寄進地は武四郎が晩年多く旅した西日本地方に集中していました。木片の古くは奈良時代に遡り鎌倉・江戸時代初期のものが多く寄進され、生涯の大半を旅の空にと暮した武四郎にとって、大邸宅に住むことは虚しく「一畳敷」は隠棲の場であるとともに終焉の場でもありました。
晩年、古銭蒐集や考古学にも関心を寄せ、この日向の一隅で古銭を広げ、書をめくってすごし柱の一本、壁板の一枚に目をやっては各地に住まいする旧友のことを思い出していました。
この一畳敷を建てた際、各部材の由来を記述した明治二十年の『木片勧進』という本に武四郎はこれを後世に残すために建てたのではなく、今まで全国各地を歩き様々な人々と交流してきたが、その思い出として建てたものであり、自分が亡くなったら、この一畳敷書斎の古色蒼然とした木材で亡骸を焼き、遺骨は大台ケ原に埋めて欲しいと遺言していました。
しかし、武四郎の死後松浦家では非常に貴重な建築物であることから、一畳敷を保存することを決め紀州徳川家の施設である南葵文庫へと移築しました。その後いくたびかの変遷を経て現在国際基督教大学の敷地内にあり、国の登録文化財となっています。
『一畳敷』の完成から一年余り過ぎた明治二十一年(1888)2月10日武四郎はその生涯を閉じました。享年71歳でした。合掌。岡倉天心、二葉亭四迷ら歴史上の著名人が眠る東京都豊島区にある染井霊園。その一角に武四郎が眠る松浦家の墓があります。趣味に生き数々のコレクションに囲まれた晩年の生き方とは対照的に武四郎の墓は草木に囲まれ、ひっそりと佇み墓碑銘には全国をくまなく旅し、青年期の武四郎を象徴する『北海居士』の文字がしっかりと刻まれています。
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