安政四年松浦武四郎(40才)は、箱館奉行村垣淡路守から蝦夷地一円の山川地理等を取調べ、新道切開き場所の見込みを報告するようにとの辞令を受けました。4月29日(陽暦5月20日)に箱館を出立し、石狩川、天塩川、そして尻別川の源流を探査といった道央・道北地方を検分する予定で石狩に向かいました。
5月14日探査の途次、岩内から余市に至る新道開削の検分しながら稲穂峠を越えて、七曲り、然別、オサルナイを経て余市に向かったが、先ず新道の出来栄えを歌にして詠みました。「岩を切 木を伐草を 苅そけて みちたいらけし 山のかけとも」
5月17日(陽暦6月8日)、石狩川の河口にある場所請負人村山伝兵衛の石狩運上屋に着いた武四郎は、翌日支配人能登屋円吉に石狩川上流、上川方面の調査のため、土地に詳しいアイヌの案内人を四人ほど世話して欲しいと申し入れた。前年の旅では、甚左衛門という番人を案内役という名目で監視役に付けられ迷惑したので、今回は番人役は不要と予め断っておいた。
武四郎としては、昨年同行して上川近辺の山の様子をよく知っているうえ、シャモ語もできるイワンハカル(40才位)を当てにしていたのに、今回は都合がつかないと断られた。同人は一日早く夕張へ追い上げられていました。イワンハカルが支配人や番人の目の届かないところで知られてはまずい事を、武四郎に話すのではないかと心配したのでしょう。
19日早朝、4人のアイヌ(セツカウシ・トミハセ・ニホンウデ・アイランケ)と共に荷を積んだ丸木舟で出発しようとしたところ、番人小弥太という者を案内にと差し向けてきました。探られたくない腹を持つ地元場所の支配人は、武四郎を地理取調べだけでなく自分たちに都合の悪い余計なことをする目障りな出張のお役人と思い監視をつけたのでした。
5月20日(陽暦6月11日)暁方ツイシカりの番屋を出発、樹木や熊笹の生い茂る川筋を丸木舟で漕ぎのぼる。第二夜は美唄川合流点付近のニイルルオマナイでの止宿である。翌朝水面に枝を垂れる柳が風に吹かれ雨かと疑うほどの下露が落ちてきて、川面に水煙が立ち上り、あたり一面靄で幽玄な世界であった。鹿が親や子を呼ぶ鳴声があちらこちらから聞こえるなかを出発しました。
5月21日、カバト川(浦臼付近)三軒屋に上陸し晩生内近辺を踏査してその折、樺戸連山の眺望を手控えに記録して一泊しました。対雁からここまでが下カバトで、文化七年人別では百二人安政三年人別では三十一人、十軒となっているが他所同様に、すでに一軒もなく「有丈浜え下げ有」である。ここからウリウプト(雨竜)までの上カバトも文化七年三百七十二人、安政三年百三十四人とあるが実際にはトック(新十津川町)に三軒オシラリカ(尾白利加)に一軒だけ、上下カバト合わせて三十四軒あるあずの家がやっと四軒しかない。武四郎はここでも人別帳記載の人名一々に当って詳しく調査している。
上カバトと下カバトの境…カバト川は江戸時代に松前藩が設けた石狩13場所(商場)の内の上カバト場所と下カバト場所の境界となっていた川です。
5月22日トック(新十津川町)着、トック(徳富)川の合流点である。同行の案内人の一人セツカウシは、ここの乙名であり、彼のチセ(家)が泊りの宿である。「日数経て 突区の里に 来て見れば ここもかはらぬ 芦ふきの宿」と詠いました。隣は小使トミハセ(37才)の家、妻ヤエノマツと子供三人が住んでいました。
トミハセは父母を敬慕し、二人が五、六年前に死んでからというものは、朝な夕なにさめざめと涙をこぼし、父母の霊に何事かを語りかけていた。石狩の運上屋へ雇いに行かされているときも朝な夕な山の方へ向かって何か言っているので、仲間のアイヌが「何を言うのか?」と聞いてみた。すると彼は、今日は寒かった、今日は暖かだった、何の仕事をした、どこえ行った、今帰ったと一々親へ告げているのだと答えた。その話を聞いた武四郎は其の心栄えに感心しました。
セツカウシもトミハセも前年の旅のさいに案内役を務めてくれた旧知の仲であった。今回石狩の浜で会ったとき、トミハセはチタラベ(横模様の入った草ござ)一枚を去年のお手当てのお礼ですと持ってきてくれた。武四郎シサムは、その篤実さに感銘して、今度の山行きの案内をたのみ土産に酒二升をあげたいが、ここでよいか、それとも山に持っていてそこで渡すほうがいいかと聞くと「山で下さい」という。その理由を尋ねると、山でもらったら親の墓所へ供えると答えました。
トックに着いて、約束どおりお酒二升を渡すと、すぐにそれを親の墓所に持って行ってやや暫らくその酒を手向けまた自分で飲んでいと嬉しげに拝礼して帰ってきた。そのイチャバル(先祖供養)の後、隣人たちを招いてのこりの酒を振る舞い、このお酒は武四郎ニシパから貰ったのだという訳を「意図も意図も叮嚀に申し聞かせ」酔うほどにシノッチャ(自即興の唄)をして悦びあった。
この酒宴の折に、武四郎がこのあたりは土地も肥えているようなのに、なぜ畑を作らないのかと尋ねると「運上屋から畑作はきびしく禁じられています」という返事。しかし、このたびの御処置(再直轄)では畑を作り和人語も使えというお達しではないか、かさねて問うと、一同大笑いして、ニシパ、松前領のときでも親に孝行せよとか、軽物(鷲の羽、毛皮、熊の胆など藩の専売品)を精を出して取るようにとの申し渡しがありました。しかし、その軽物を取りに行こうとすれば、番人は行かなくてもよいという。(軽物は請負人の利益にならない)、病人や年寄は浜から山へ帰してしまって、雇いが出来ない者などを大切にして飲み食いさせることはないといいます。病人が出たら早々に知らせよというので、病人があるというと、センプリやイボタを煎じ唐辛子を茶に仕立てて飲めといいます。お上の御趣旨というのは嘘ばかりです。と心を開いて武四郎ニシパに真相を教えてくれました。
5月25日早朝イジャン(深川市広里)から丸木舟で石狩川を上り始めた。右は山で、左は平地である。シヘヌカルシ、ホンヌ、ホロナイ等を過ぎるとナイタイベ(内大部)である。川の流れがだんだん速くなってきて丸木舟を漕ぐのが大変である。ヤソシハラ、オツカヤマナイを過ぎると、両側に険しい山で、川の中には所々に大きな岩があり、水は渦を巻きながら大きな音を立てて流れている。ハラムイからは綱で丸木舟を引きながら400m.程進んで、シキウシバに着いた。この辺りをカムイコタン(神居古潭、旭川市境界付近)と呼ばれている景観優美な難所なのです。
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