近藤重蔵の総蝦夷地御要害之儀
文化四年(1807年)、ロシア船による樺太襲撃の報告についで択捉島襲撃の報告を受けた幕府は、6月6日、重蔵(36歳)に対して蝦夷地御用の出張を命じた。箱館から西蝦夷地の海岸を北上し宗谷(稚内市)まで行った重蔵は、樺太のアイヌを召集して事情を取調べ、帰途、天塩川と石狩川を巡歴して12月8日に帰府した。そして15日には11代将軍家斉の御目通りを得て特例の褒詞を賜り、ついで蝦夷地将来警衛のことについての御下問があった。
これに対して重蔵は、総蝦夷地の中央に要害を立て四方へ道路を開くこと、要害の場所としては石狩川筋カバト山または浜通りタカシマ・ヲタルナイの奥またはイシカリサツホロの西テンゴ山の辺りが適当と考えること、国土経営の基本は穀物の生産と道路の開設でこの二つは第一になすべき務めであることなどを述べ、さらに道路について、石狩川筋などの内陸に大道を開設し、89里ごと薪水の良い所に旅宿を設け、おいおい四方の海岸まで道路を開けば、3年を出ずして道路は四通八達する、などとする「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」を提出した。
翌文化五年(1808年)2月30日、重蔵は栄転して書物奉行となり、3月16日には先の西蝦夷地出張の褒美として金一枚を拝領した。書物奉行の役目は江戸城紅葉山文庫の管理であるが、重蔵は日夜文庫の図書を閲覧し、在職した11年の間に膨大な数の著書を残した。
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