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最上徳内の略歴(後期)

寛政四年(1792年)、最上徳内(38歳)は樺太調査を命じられ、5度目の蝦夷上陸した。カラフトの地理的調査や、和人やロシア人の居住状況を調査し、鎖国の国法に接する松前藩のロシア、清国との密貿易や、アイヌへの弾圧も察知する。10月には松前へ戻るが、この年に、伊勢の船頭大黒屋光太夫ら日本人漂流民一行の返還のため、ロシア使節のアダム・ラクスマンが根室へ来航し、滞在を延期して越冬し、翌年には江戸へ戻る。

寛政五年(1793年)徳内(39歳)は、河川を通行する川船に対して課税する深川の川船役所への出仕を命じられる。徳内は関東地方の河川を調査して水系地図を作成し、効率化に務める。のちに山林御用に命じられる。

寛政十年(1798年)、老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し、徳内(44歳)は7度目の蝦夷上陸となる。幕臣の近藤重蔵の配下として、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請。このときに見分隊の総裁松平忠明と意見が衝突し、免職される。江戸へ戻った徳内は忠明の失策を意見書として提出、忠明に対して辞表を提出するが、忠明はこれを受け取らず公職のままとなる。

文化元年(1804年)徳内(50歳)は、山林御用を務め、この間に著述活動も行う。文化二年(1805年)徳内(51歳)は目付遠山金四郎景晋(かげみち)のもとで8度目の蝦夷上陸をした。

文政六年(1823年)に長崎出島へ来日したドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトは文政九年(1826年)オランダ商館長一行の将軍謁見に同行し江戸へ参府する。最上徳内(72歳)はシーボルトを訪問し、何度か会見して意見交換する。学術や北方事情などを話題に対談し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えてほか、アイヌ語辞典の編纂をはじめ日本研究に熱心なシーボルトに協力する。文政十一年(1828年)にシーボルトが帰国する際に国禁の日本地図を持ち出しが発覚し、シーボルト事件に至るが、徳内は追求を免れている。晩年は江戸の浅草に住み、天保七年九月五日(1836年10月14日)に死去。享年82歳。…合掌

著書に『蝦夷草紙』、アイヌの生活を記した『渡島筆記』、アイヌ語集『蝦夷方言藻汐草』など。

墓所は東京都文京区の蓮光寺。

…フリー百科事典『ウィキペディア』出典より

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