近藤重蔵と択捉島開拓
寛政十一年(1799年)の元旦をエトモで迎え、有珠へ移って逗留していた松前蝦夷地御用取扱近藤重蔵(28歳)のもとへ江戸からの帰府命令が届いた。直ちに有珠を出発した重蔵は、2月26日、江戸に到着した。すでに幕府は、東蝦夷地ウラカワ(浦河町荻伏)以東の7カ年間上知を決定し、異国境取締りの御用を目付羽太正養(はぶとまさやす)、大河内政寿ら5人に命じていた。そして3月10日、これに従う官吏として重蔵、最上徳内らを含む約70名が任命され、重蔵は普請役元締山田鯉兵衛とともに「択捉島掛り」を命じられた。(羽太正養『休明光記』)
つづく3月15日に勘定役に任命され栄進を大いに喜んだ重蔵は、在宅わずか23日にしてふたたび江戸を離れた。鯉兵衛とともに択捉島を目指す重蔵は、厚岸でたまたま寄港した高田屋嘉兵衛と出会い、ともに国後島の安渡移矢まで行った。しかし風雨と霧にはばまれて択捉島渡海の見通しが立たない重蔵は調査を高田屋嘉兵衛に托し、この年、重蔵は様似で、鯉兵衛は勇払で、それぞれ越冬した。
翌寛政十二年(1800年)三月、手船辰悦丸(1500石積)に乗った嘉兵衛は、図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して様似に入港した。重蔵は鯉兵衛とともにこれに乗って直ちに出帆し、国後島を経て択捉島の丹根萌に上陸した。
ここで重蔵は、高田屋嘉兵衛に命じて漁場17ヶ所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜郡など7郷と25村の名称を定めた。
択捉島開拓のことに一段落をつけた重蔵は、12月に江戸に帰ったが、翌享和元年(1801年)は2月から11月まで、つづく享和二年は4月から12月まで、それぞれ択捉島へ渡って異国境取締りの御用を勤めた。
享和三年正月二十五日、重蔵は小普請奉行配下の小普請方への転任を命ぜられたが、12月には「御目見(おめみえ)以上」の格式を与えられ、以後、将軍への御目通りが許されることとなった。
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