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林蔵、水戸藩主と接触

天保四(1833)年、林蔵(54歳)のもとに水戸藩から接触の手が伸びた。仲介したのは、水戸藩彰考館員の酒井市之丞(画家横山大観の祖父)であった。酒井は伊能忠敬の門人で、水戸藩領でさかんに測量をおこなって地図作成につとめ、林蔵とも面識があった。藩主徳川斉昭が林蔵に会って話を聞きたいと望んでいるということだった。徳川御三家の一つである水戸藩の藩主が、下級役人の自分に何を尋ねるのか、かれには察しがつかなかったが、酒井とともに小石川の藩邸に行った。かれが広い部屋で控えていると、徳川斉昭公が藩士とともに出てきて座った。その中には斉昭の信任厚い藤田東湖や彰考館館員友部好正もいた。東湖が、かれを呼び寄せた事情について説明した。

水戸藩では、異国船の出没を憂いて海防意識が強く、殊に蝦夷地に対しての関心が大きかった。文化四年にロシア艦来襲事件が起こった折には、秋葉友右衛門、奥谷新五郎を箱館に派遣して実情を調査させた。斉昭公は、蝦夷地について正確な知識を得たいと考え、それを与えてくれる人物を物色していた。前年の四月二十三日に水戸藩に招かれ英語の辞書の作成につとめていた蘭学者青地林宗が、林蔵を推薦した。林宗は、ゴローニンの「日本幽囚記」を「遭厄紀事」として翻訳した関係から、林蔵の蝦夷地についての見識を高く評価していたのである。

林蔵は、斉昭公に問われるままに、文化四年、エトロフ島でロシア艦の来襲をうけた折の体験を述べた。斉昭公は、ロシア側の武器、戦法などについて執拗に質問した。そのいずれもがロシア側の方が圧倒的にすぐれていた、と答えた。斉昭公の蝦夷地についての質問は、多方面にわたった。アイヌの生活、信仰、和人との関係、蝦夷地の気象状況、動植物、生産物、道路、航路、商業、農漁業、風俗などをたずね、それについて林蔵が答えると、克明に記録させた。

天保五(1834)年、間宮林蔵は五十五歳になった。シーボルト事件の密告者であるという噂は、月日の経過とともに消えるかと思ったが、逆に疑いのない事実として定着していた。洋学を学ぶ者たちの林蔵に対する憎悪と恐怖は激しく、林蔵の姿を見ると顔色を変え、あわただしく立ち去る。家の近所の者たちも、密告者であるとともに隠密であることを知り、おびえたような眼を向けてくる。林蔵は、そうした空気がわずらわしく、転居を繰返していた。

林蔵は、藤田東湖らの話を聞いているうちに、ようやく斉昭公の真意をつかむことができた。水戸藩では、蝦夷地を松前藩にまかせるべきではなく、その経営と警備を水戸藩がおこなうべきだという意見が強く、斉昭公もそれに賛成した。徳川御三家の尾張、紀伊の両家に比べると、水戸家の禄高は少なく財政が窮乏していたので、蝦夷地の開拓、経営によって経済的な打開を試みようと考えている。それを幕府に請願するためには、あらかじめ蝦夷地に対する正しい知識を持つ必要があり、蝦夷地の事情に通じている自分に教えを求めていることを知った。水戸の斉昭公は、林蔵を重宝がって定まった謝礼を与え、優遇した。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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