幕府非難…崋山、長英は投獄
天保八(1837)年二月、大坂で大塩平八郎の乱が起こり、人心は動揺した。間宮林蔵は、浅草俵(田原)町に住んでいたが、以前住んだことのある深川の冬木町に再び転居した。五十八歳になったかれにとって、老中大久保忠真の死は大きな痛手になった。一介の普請役にすぎぬ自分を、大久保はしばしば身近に招き、異国事情について熱心に耳を傾けてくれた。林藏が、一時、シーボルト事件の密告者として白眼視された時も、大久保は慰めの言葉をかけ、厚遇することを変えなかった。自分が今まで仕事をつづけてこられたのは、大久保がいたからだ、と思っていた。
伊能忠敬の親類筋の水守章作が、勘定奉行矢部駿河守に林藏が病臥していることをつたえたので、吟味役川路聖謨をはじめ奉行所の者たちが見舞いに来た。林蔵は、かれらの口から、その年の六月二十八日、アメリカ船モリソン号が浦賀に入港し、浦賀奉行が砲撃を命じて追い払ったことを耳にした。林藏は、その話に落着かなかったが、奉行所に行ける状態ではなく、終日、身を横たえていた。病臥しながら世情の動きを見つめていた。アメリカ船モリソン号の来航に衝撃をうけた筆頭老中水野忠邦は、江戸湾防備の強化を企て、革新的な開明派である川路聖謨、代官江川英竜らに意見を問うた。川路、江川らは、林藏のもとに使いの者を出し、それに対する意見を乞い、林藏は進歩的な開明思想をつたえた。江川英竜と対立する洋学嫌いの目付鳥居耀蔵の発言力が、急に増してきているようであった。
天保十(1839)年、林藏は還暦を迎えた。昔伊能家で顔見知りの女を、炊事、掃除、洗濯の身の回りの用で雇入れたが、押しかけ女房きどりのおりきの助けを借りて水戸斉昭公から贈られた薬を発疹のできた部分に塗りつけた。それは思いがけなく効果があって、発疹も目にみえて小さくなった。その上、発熱することも稀になり、頭と腰の痛みもうすらいだ。
その年の五月、林藏は、訪問者の口から一つの悲報を耳にした。川路聖謨を介して親交を結んでいた渡辺崋山が、北町奉行所に捕えられ投獄されたという。崋山は、西洋の新知識を交換する尚歯会の事実上の盟主として、町医師高野長英、蘭学者小関三英、勘定吟味役川路聖謨、代官江川英竜らとともに会合をもっていた。崋山は「慎機論」長英は「夢物語」を著わし、来航したアメリカ船モリソン号を幕府が砲撃で撃退したことを批判し、時勢のおくれた鎖国政策を頑なに守ることは、かえって外国の侵略を招く恐れがある、と警告した。この著書が、洋学嫌いの目付鳥居耀蔵を刺激し、鳥居は、老中水野忠邦に告発状を出し、崋山と長英を捕えたのである。逮捕を恐れた小関三英は、自殺した。林藏は、親しい川路聖謨と江川英竜も鳥居耀蔵に敵意をいだかれているので、川路たちの連坐を恐れていたが、幸い難はまぬがれたようであった。その年の暮れ、渡辺崋山に永蟄居、高野長英に永牢が申渡されたことを知った。
林藏は、若い頃、異国船を容赦なく打ち払うべきだと信じていたが、いつの間にか進歩的な開明思想をいだくようになり、さらに川路聖謨、江川英竜らと親しくなるにつれて、それはゆるぎない信念になっていた。日本近海で操業する欧米の捕鯨船との摩擦は、それらの異国に日本侵略の理由をあたえるきっかけになる、と憂慮していた。川路が、部下である林藏を先生と呼び、崋山も親しく近づいてきたのは、林藏の主張に敬意をいだいていたからであった。林藏は、崋山が永蟄居を命じられたことを悲しんだ。
『間宮 林藏』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋
| 固定リンク


コメント