海岸防備と各藩の政情
天保五(1834)年、間宮林蔵(五十五歳)は、老中大久保忠真から柑本兵五郎に従って蝦夷地巡見にむかうよう命じられた。大久保は、徳川斉昭から蝦夷地の警備を松前藩に任せておくのは心もとなく水戸藩に一任して欲しいという願書をうけたので、松前藩の警備状況の実態を把握する必要を感じ、巡見使の派遣を思い立ったのである。また大久保は、林蔵に、巡見を終えた後、奥州から山陰、さらに九州をへて四国の海岸線をひそかに探索するよう命じた。それは、海岸防備と各藩の政情その他をさぐる隠密の旅であった。
十月上旬、林蔵は柑本兵五郎に従い、役人姿で駕籠に乗って江戸を出立した。蝦夷地、伊豆七島につぐ柑本との旅であった。松前についた柑本は、その地にとどまって松前藩から警備状況を聴取した。林蔵は、弟子の同心今井八九郎と新谷文作を従えて実地調査をし、海岸線の測量もおこなった。林蔵の巡見は、普請役としての公然とした仕事で、かれの行先には先触れがされていて、丁重なもてなしを受けた。すでに雪が深かったが、今井も新谷も雪中の旅にはなれていて、案内のアイヌたちと林蔵に従って精力的に動いた。
天保六年、林蔵の巡見の仕事も終り、それを報告書にまとめて柑本兵五郎に提出した。林蔵の調査した松前藩の警備状況は心もとないもので、藩士たちの士気もきわめて低かった。柑本の顔には憂慮の色が濃かった。林蔵は、柑本に人払いを頼み、老中の密命をうけて日本沿岸を九州方面まで隠密の旅をすることを柑本に打明け、刀と衣服を江戸へ持ち帰って欲しいと依頼した。
老中大久保忠真からこの度の隠密の旅に課せられた使命に、薩摩藩がおこなっているらしい中国、朝鮮との抜け荷(密貿易)の実態を探ることもふくまれていた。すでに幕府は、多数の隠密を薩摩藩領内に潜入させていたが、林蔵も、海防調査とともにその探査をおこなうように命じられていた。抜け荷の噂のある薩摩藩領なら、椰子の実を眼にすればやはり噂は事実かと思うが、そのような噂もない浜田藩領内で眼にするのは不可解であった。もしかすると、薩摩の船が浜田藩の主要港である松原浦に入り、ひそかに抜け荷の品を売っているのかも知れなかった。もしも、そうだとすれば、薩摩藩の抜け荷の規模は想像以上に大きく、それを確かめることは大きな意味がある、と思った。林蔵は、浜田藩の城下町である浜田に入り、宿をとった。
入念な探査をつづけ、松原浦にほとんど例をみない大船が出入りしてしていることも耳にした。それは、廻船問屋会津屋八右衛門の持船であるという。遠洋航海は、普通の千石船では不可能だが、大船なら可能である。林蔵は、松原浦に足を向けた。話をきいた大船は碇泊していなかったが、西廻り航路の重要な寄港地らしい良港で、異国へむかう船の基地にふさわしい港のように感じられた。かれは、確実になにかある、とひそかに思った。
翌朝は寒気がきびしく、宿を出立すると浜田をはなれ、道を急いだ。萩を過ぎ、千崎に至って船に乗り、海を渡って豊前小倉についた。その地に一泊し、翌朝、木屋ノ瀬をへて飯塚で宿をとった。かれは足を早めて街道を進み、久留米をへて細川五十四万石の熊本に至った。それより海岸線づたいに八代、日奈久、佐敷をへて水股に入った。いよいよ薩摩藩領に入るが、その国境に野間関がある。藩の関所は、藩内の物資の流出をふせぐと同時に入国のする者を調べるが、薩摩藩は諸藩の中でも最も入国者に対する取調べがきびしかった。薩摩藩は幕府の隠密の入るのを極度に警戒しているが、五十六歳の林蔵が隠密であるとは思えず、旅の俳諧師として怪しむこともなかったのだろう。薩摩藩の抜け荷(密貿易)は、早くから噂にのぼっていた。
林蔵は、海岸線を歩き回り、風聞どおり抜け荷がおこなわれていることを察知した。薩摩藩が琉球国へ輸出するのを許されている品目は、反物、器物、国産の煙草、紙類などにかぎられているが、鮑、昆布、煎海鼠(いりこ)なども輸出している気配があった。それらの海産物は長崎での中国向けの重要な輸出品で、長崎の貿易活動に重大な打撃を与えていることが察しられた。林蔵がそれに気づいたのは、薩摩の船が北国方面にしきりに赴き、海産物を載せて帰ることを繰返していることを知ったからであった。
『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋
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