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間宮林藏逝く

天保十一(1840)年六月中旬、勘定吟味役川路聖謨の使いの者が来て、川路が江戸を離れることを知った。川路は、すぐれた業績が認められ、佐渡奉行に栄進したのである。川路は、七月十一日に江戸を立って佐渡へ向った。その年の十一月下旬には、津の藤堂藩の儒者である斉藤拙堂から初対面の挨拶をされた。林蔵は問われるままに斉藤とその知人を前に海防論を説いた。斎藤たちは、敬意にみちた眼で、林藏の話に耳をかたむけていた。

翌天保十二(1841)年四月、失脚していた矢部定謙が南町奉行に返り咲いた。老中水野忠邦のはからいによるもので、矢部の使いの者が林藏(62歳)にそれを伝えた。親しい矢部の復帰は、林藏にとって朗報であった。五月十五日、将軍家慶は、老中水野忠邦の意を入れ、老中を集めて幕政の大改革(天保改革)を告げ、役人の腐敗、無気力を誡め、奢侈を禁じた。その年の十月、林藏は、永蟄居の刑をうけて故郷の田原にあった渡辺崋山が自刃したことを耳にした。それにつづいて南町奉行矢部定謙が、目付鳥居耀蔵によって職を追われたことも知った。崋山が捕えられたのも、鳥居の告発によるもので、崋山、定謙と親交のある開明派の川路聖謨が、鳥居によって災いをこうむるおそれもあった。鳥居は、老中水野忠邦の推挙のもとに定謙に代って南町奉行に就任した。かれは、忠邦の天保改革を徹底した方法で実行に移した。

天保十三(1842)二月十七日、戸川播磨守安清が上司の勘定奉行に就任した。戸川は、林藏(63歳)の業績を高く評価していて、着任後すぐに見舞いの品物を届けさせた。七月二十四日、幕府は異国船に対しての扱いをあらためる薪水給与令を発した。文政八(1825)年以来、幕府は渡来した異国船を理由のいかんを問わず打ち払うべしと命じていたが、薪や水をあたえて穏便に退去をうながすことにあらためた。これについて南町奉行鳥居耀蔵は反対したが、伊豆代官江川英竜が強く支持し、老中水野忠邦は江川の主張を容れて発令したのである。林藏は、その改革を喜んでいた。清国はアヘン戦争でイギリスに侵略され、長崎のオランダ商館を通じて、イギリスの次の侵略国は日本だという情報がしきりだった。それに恐れをいだいた幕府は、異国に侵略の口実を与えぬため穏便な方法をとったのだ。その発令後、林藏に対して勘定奉行戸川播磨守を通じて老中水野忠邦から、林藏の所持する樺太から東韃靼におよぶ地域の自製の地図を写して差出すようにという命令があった。幕府は薪水給与令とともに、防備の強化を考え、殊に北辺の地勢を十分に熟知する必要を感じたのである。

天保十五(1844)二月二十四日、おりきの知らせで郷里から本家の当主浦七、狸淵村名主飯沼甚兵衛、生家をつぐ哲三郎が来て、おりきとともに林藏を見守った。林藏は、時折り眼をあけ、浦七たちが声をかけるとかすかに反応をみせたが、すぐに眼を閉じる。二十五日の朝から、林藏の意識は失われた。医者が呼ばれ、心音が極端に衰えていることがあきらかになった。翌日の夕刻、林藏の呼吸は間遠になった。医者の指示で、死水が唇に濡らされた。やがて呼吸は絶えた。医者は臨終を告げた。享年六十五歳であった。…合掌…

シーボルトの「ニッポン」には、日本から持出された林藏の「東韃地方紀行」なども収録され、林藏の名は、シーボルトによって世界的に知られるようになった。また各国語に翻訳されたゴローニンの「日本幽囚記」にも林藏についての記述があり、かれのことはヨーロッパ人の間にひろがった。シーボルトの命名になるMamiya-seto(間宮海峡)という名称が不動のものになったのは、1881年(明治十四年)に刊行されたフランスの地理学者エリゼ・ルクリュの「万国地誌」第六巻「アジア・ロシア」によるものであった。これによって、世界地図の地名に、日本人としてただ一人林藏の名が刻まれたのである。明治三十七年四月二十二日、東京地学協会の申請にもとづいて、林藏に正五位が贈られた。 [完]

『間宮 林藏』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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幕府非難…崋山、長英は投獄

天保八(1837)年二月、大坂で大塩平八郎の乱が起こり、人心は動揺した。間宮林蔵は、浅草俵(田原)町に住んでいたが、以前住んだことのある深川の冬木町に再び転居した。五十八歳になったかれにとって、老中大久保忠真の死は大きな痛手になった。一介の普請役にすぎぬ自分を、大久保はしばしば身近に招き、異国事情について熱心に耳を傾けてくれた。林藏が、一時、シーボルト事件の密告者として白眼視された時も、大久保は慰めの言葉をかけ、厚遇することを変えなかった。自分が今まで仕事をつづけてこられたのは、大久保がいたからだ、と思っていた。

伊能忠敬の親類筋の水守章作が、勘定奉行矢部駿河守に林藏が病臥していることをつたえたので、吟味役川路聖謨をはじめ奉行所の者たちが見舞いに来た。林蔵は、かれらの口から、その年の六月二十八日、アメリカ船モリソン号が浦賀に入港し、浦賀奉行が砲撃を命じて追い払ったことを耳にした。林藏は、その話に落着かなかったが、奉行所に行ける状態ではなく、終日、身を横たえていた。病臥しながら世情の動きを見つめていた。アメリカ船モリソン号の来航に衝撃をうけた筆頭老中水野忠邦は、江戸湾防備の強化を企て、革新的な開明派である川路聖謨、代官江川英竜らに意見を問うた。川路、江川らは、林藏のもとに使いの者を出し、それに対する意見を乞い、林藏は進歩的な開明思想をつたえた。江川英竜と対立する洋学嫌いの目付鳥居耀蔵の発言力が、急に増してきているようであった。

天保十(1839)年、林藏は還暦を迎えた。昔伊能家で顔見知りの女を、炊事、掃除、洗濯の身の回りの用で雇入れたが、押しかけ女房きどりのおりきの助けを借りて水戸斉昭公から贈られた薬を発疹のできた部分に塗りつけた。それは思いがけなく効果があって、発疹も目にみえて小さくなった。その上、発熱することも稀になり、頭と腰の痛みもうすらいだ。

その年の五月、林藏は、訪問者の口から一つの悲報を耳にした。川路聖謨を介して親交を結んでいた渡辺崋山が、北町奉行所に捕えられ投獄されたという。崋山は、西洋の新知識を交換する尚歯会の事実上の盟主として、町医師高野長英、蘭学者小関三英、勘定吟味役川路聖謨、代官江川英竜らとともに会合をもっていた。崋山は「慎機論」長英は「夢物語」を著わし、来航したアメリカ船モリソン号を幕府が砲撃で撃退したことを批判し、時勢のおくれた鎖国政策を頑なに守ることは、かえって外国の侵略を招く恐れがある、と警告した。この著書が、洋学嫌いの目付鳥居耀蔵を刺激し、鳥居は、老中水野忠邦に告発状を出し、崋山と長英を捕えたのである。逮捕を恐れた小関三英は、自殺した。林藏は、親しい川路聖謨と江川英竜も鳥居耀蔵に敵意をいだかれているので、川路たちの連坐を恐れていたが、幸い難はまぬがれたようであった。その年の暮れ、渡辺崋山に永蟄居、高野長英に永牢が申渡されたことを知った。

林藏は、若い頃、異国船を容赦なく打ち払うべきだと信じていたが、いつの間にか進歩的な開明思想をいだくようになり、さらに川路聖謨、江川英竜らと親しくなるにつれて、それはゆるぎない信念になっていた。日本近海で操業する欧米の捕鯨船との摩擦は、それらの異国に日本侵略の理由をあたえるきっかけになる、と憂慮していた。川路が、部下である林藏を先生と呼び、崋山も親しく近づいてきたのは、林藏の主張に敬意をいだいていたからであった。林藏は、崋山が永蟄居を命じられたことを悲しんだ。

『間宮 林藏』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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石見国浜田藩の密貿易…竹島事件

天保六(1835)年、間宮林蔵(56歳)は、浜田藩領で椰子の実を眼にしたことがきっかけで蒐集した情報を、一刻も早く大坂町奉行矢部駿河守定謙につたえたかった。浜田藩の米蔵は大坂にあり、町奉行の管轄下にある。薩摩の抜け荷となんらかの関係があるかも知れないが、かれには浜田藩内独自の行為に思えた。四国の隠密調査も終り、室戸ノ鼻をまわって甲ノ浦についた。甲ノ浦は阿波国に近く、参勤交代をはじめ大坂へ赴く重要な港であった。林蔵は、大坂へむかう船に乗った。

林蔵は、大坂町奉行矢部駿河守に浜田藩のことを報告して江戸へもどったのは、五月中旬であった。かれは老中大久保忠真の下屋敷におもむいた。林藏は、隠密の旅の報告をした。海防については、捕鯨船の立ちまわらぬ日本海沿岸には異国船騒ぎがないことをつたえた。かれが、浜田藩領内に抜け荷の気配があることを伝えると、老中大久保はすでに知っていた。林藏がその情報を教えた大坂町奉行矢部定謙は、ただちに急飛脚で老中大久保に報せ、許可を得て隠密多数を浜田藩領内に放ったという。

天保六年十一月二十八日、川路聖謨(としあきら)が、林藏の直接の上司にあたる勘定吟味役に就任した。川路は、徒士の子として江戸に生まれ、小普請組川路三左衛門の養子になった。その後、神社奉行吟味物調役に進み、但馬国出石藩仙石氏のお家騒動の取調べにあたり、その処置がきわめて当を得たものとして高く評価された。老中大久保忠真は、三十六歳の川路が非凡な人物であることを認め、大抜擢をして吟味役に昇進させたのである。

川路は、海防関係を担当し、それには林藏の力を借りなければならなかった。かれは、初めて会った林藏が容易ならざる人物であることを見抜いた。川路は、視野の広い男で、西洋事情に深い関心と知識をもつ多くのすぐれた人物と親しく交っていた。伊豆韮山の代官江川英竜(太郎左衛門)、水戸藩士藤田東湖、大坂町奉行矢部駿河守定謙、三河国田原藩の江戸詰年寄役(家老)末席で、西洋の知識を積極的に吸収していた渡辺崋山らであった。

川路は、蝦夷地についての知識と異国の情景に豊かな知識をもつ林藏を深く敬愛して「先生」と呼び、林藏も二十歳近く年下である川路の識見を評価し、たちまち親密な間柄になった。自然に、川路を介して江川英竜、渡辺崋山らとの間に交わりもでき、江川や渡辺は林藏の話に耳をかたむけ、海防その他について熱っぽく意見を交し合った。川路は、林藏の死後、日記に、「われに奇を好むの癖あり、奇人を好む也。林藏・渡辺崋山の類也」として、奇人ーーー非凡な人と高く評価し、林藏が先見の明があったことを讃え、「間宮林蔵がいひしことなど実に思いあたるなり。林藏の非凡なることは、予も夙(つと)に之を知りたり。」と、追憶している。

天保七(1836)年、林藏は五十七歳になった。髪は白く、額には皺がきざまれていた。その頃、大坂町奉行矢部駿河守定謙から浜田藩領の情報がつぎつぎに江戸へ送られてくるようになった。矢部が前年の五月に浜田藩領内に潜入させた隠密たちは、林藏が指摘してように驚くべき抜け荷をおこなっていることを探知した。矢部定謙は、捕り方役人を派し、浜田で廻船問屋を営む会津屋八右衛門と船乗りの十助、半右衛門、新兵衛、さらに浜田藩士大谷作兵衛、三沢五郎右衛門、村井荻右衛門の七名を捕え、大坂に押送した。また、大坂の商人淡路屋善兵衛も召捕った。かれらは、投獄され、町奉行所で矢部定謙のきびしい吟味をうけた。その結果、かれらの自供によって抜け荷の全容があきらかになった。

会津屋八右衛門は船を仕立てて竹島に渡り、大量の竹材と海産物を持ち帰った。さらに藩の勘定方橋本三兵衛と相談し、江戸、大坂で日本刀を買い集め、それを輸出品として朝鮮人、中国人とも貿易をはじめ、さらに台湾、安南、呂宋まで渡航し、珍奇な産物を運び入れた。これによって八右衛門は莫大な利益を得、藩にも多額な運上金が差出された。林藏が浜田藩領で眼にした椰子の実は、南洋方面に行った八右衛門の船が持ち帰ったもので、航海を終えてもどてきった船乗りたちの顔が黒かったのは、南の海を乗り回していたからであった。

その結果、十二月二十三日、会津屋八右衛門と勘定方橋本三兵衛は死罪を申渡されて鈴ヶ森で首をはねられ、二十一名の者たちがそれぞれ役儀取上押込、押込、永牢、追放などの刑に処せられた。また、松平康任は永蟄居を命じられ、奥州棚倉にお国替えになって家督を継いでいた松平下野守康爵も叱責をうけた。この事件を重大視した幕府は、全国諸藩に対し、「異国渡海之儀ハ重キ御制禁ニ候」として、再び竹島事件のような違法をおかさぬようにという触書を、高札所にかかげることを命じた。竹島事件は、林藏の探索によって発覚し、かれの隠密としての鋭い勘と業績が高く評価された。

しかし、林藏の表情は暗かった.長い間、眼をかけてくれていた筆頭老中の小田原藩主大久保忠真が、天保八年三月息をひきとった。林藏の悲嘆は、激しかった。かれは、水戸藩の藤田東湖に、「小田原侯(大久保忠真)、逝く。我輩また力を致すべきやうなし」と、告げた。

『間宮 林藏』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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海岸防備と各藩の政情

天保五(1834)年、間宮林蔵(五十五歳)は、老中大久保忠真から柑本兵五郎に従って蝦夷地巡見にむかうよう命じられた。大久保は、徳川斉昭から蝦夷地の警備を松前藩に任せておくのは心もとなく水戸藩に一任して欲しいという願書をうけたので、松前藩の警備状況の実態を把握する必要を感じ、巡見使の派遣を思い立ったのである。また大久保は、林蔵に、巡見を終えた後、奥州から山陰、さらに九州をへて四国の海岸線をひそかに探索するよう命じた。それは、海岸防備と各藩の政情その他をさぐる隠密の旅であった。

十月上旬、林蔵は柑本兵五郎に従い、役人姿で駕籠に乗って江戸を出立した。蝦夷地、伊豆七島につぐ柑本との旅であった。松前についた柑本は、その地にとどまって松前藩から警備状況を聴取した。林蔵は、弟子の同心今井八九郎と新谷文作を従えて実地調査をし、海岸線の測量もおこなった。林蔵の巡見は、普請役としての公然とした仕事で、かれの行先には先触れがされていて、丁重なもてなしを受けた。すでに雪が深かったが、今井も新谷も雪中の旅にはなれていて、案内のアイヌたちと林蔵に従って精力的に動いた。

天保六年、林蔵の巡見の仕事も終り、それを報告書にまとめて柑本兵五郎に提出した。林蔵の調査した松前藩の警備状況は心もとないもので、藩士たちの士気もきわめて低かった。柑本の顔には憂慮の色が濃かった。林蔵は、柑本に人払いを頼み、老中の密命をうけて日本沿岸を九州方面まで隠密の旅をすることを柑本に打明け、刀と衣服を江戸へ持ち帰って欲しいと依頼した。

老中大久保忠真からこの度の隠密の旅に課せられた使命に、薩摩藩がおこなっているらしい中国、朝鮮との抜け荷(密貿易)の実態を探ることもふくまれていた。すでに幕府は、多数の隠密を薩摩藩領内に潜入させていたが、林蔵も、海防調査とともにその探査をおこなうように命じられていた。抜け荷の噂のある薩摩藩領なら、椰子の実を眼にすればやはり噂は事実かと思うが、そのような噂もない浜田藩領内で眼にするのは不可解であった。もしかすると、薩摩の船が浜田藩の主要港である松原浦に入り、ひそかに抜け荷の品を売っているのかも知れなかった。もしも、そうだとすれば、薩摩藩の抜け荷の規模は想像以上に大きく、それを確かめることは大きな意味がある、と思った。林蔵は、浜田藩の城下町である浜田に入り、宿をとった。

入念な探査をつづけ、松原浦にほとんど例をみない大船が出入りしてしていることも耳にした。それは、廻船問屋会津屋八右衛門の持船であるという。遠洋航海は、普通の千石船では不可能だが、大船なら可能である。林蔵は、松原浦に足を向けた。話をきいた大船は碇泊していなかったが、西廻り航路の重要な寄港地らしい良港で、異国へむかう船の基地にふさわしい港のように感じられた。かれは、確実になにかある、とひそかに思った。

翌朝は寒気がきびしく、宿を出立すると浜田をはなれ、道を急いだ。萩を過ぎ、千崎に至って船に乗り、海を渡って豊前小倉についた。その地に一泊し、翌朝、木屋ノ瀬をへて飯塚で宿をとった。かれは足を早めて街道を進み、久留米をへて細川五十四万石の熊本に至った。それより海岸線づたいに八代、日奈久、佐敷をへて水股に入った。いよいよ薩摩藩領に入るが、その国境に野間関がある。藩の関所は、藩内の物資の流出をふせぐと同時に入国のする者を調べるが、薩摩藩は諸藩の中でも最も入国者に対する取調べがきびしかった。薩摩藩は幕府の隠密の入るのを極度に警戒しているが、五十六歳の林蔵が隠密であるとは思えず、旅の俳諧師として怪しむこともなかったのだろう。薩摩藩の抜け荷(密貿易)は、早くから噂にのぼっていた。

林蔵は、海岸線を歩き回り、風聞どおり抜け荷がおこなわれていることを察知した。薩摩藩が琉球国へ輸出するのを許されている品目は、反物、器物、国産の煙草、紙類などにかぎられているが、鮑、昆布、煎海鼠(いりこ)なども輸出している気配があった。それらの海産物は長崎での中国向けの重要な輸出品で、長崎の貿易活動に重大な打撃を与えていることが察しられた。林蔵がそれに気づいたのは、薩摩の船が北国方面にしきりに赴き、海産物を載せて帰ることを繰返していることを知ったからであった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵、水戸藩主と接触

天保四(1833)年、林蔵(54歳)のもとに水戸藩から接触の手が伸びた。仲介したのは、水戸藩彰考館員の酒井市之丞(画家横山大観の祖父)であった。酒井は伊能忠敬の門人で、水戸藩領でさかんに測量をおこなって地図作成につとめ、林蔵とも面識があった。藩主徳川斉昭が林蔵に会って話を聞きたいと望んでいるということだった。徳川御三家の一つである水戸藩の藩主が、下級役人の自分に何を尋ねるのか、かれには察しがつかなかったが、酒井とともに小石川の藩邸に行った。かれが広い部屋で控えていると、徳川斉昭公が藩士とともに出てきて座った。その中には斉昭の信任厚い藤田東湖や彰考館館員友部好正もいた。東湖が、かれを呼び寄せた事情について説明した。

水戸藩では、異国船の出没を憂いて海防意識が強く、殊に蝦夷地に対しての関心が大きかった。文化四年にロシア艦来襲事件が起こった折には、秋葉友右衛門、奥谷新五郎を箱館に派遣して実情を調査させた。斉昭公は、蝦夷地について正確な知識を得たいと考え、それを与えてくれる人物を物色していた。前年の四月二十三日に水戸藩に招かれ英語の辞書の作成につとめていた蘭学者青地林宗が、林蔵を推薦した。林宗は、ゴローニンの「日本幽囚記」を「遭厄紀事」として翻訳した関係から、林蔵の蝦夷地についての見識を高く評価していたのである。

林蔵は、斉昭公に問われるままに、文化四年、エトロフ島でロシア艦の来襲をうけた折の体験を述べた。斉昭公は、ロシア側の武器、戦法などについて執拗に質問した。そのいずれもがロシア側の方が圧倒的にすぐれていた、と答えた。斉昭公の蝦夷地についての質問は、多方面にわたった。アイヌの生活、信仰、和人との関係、蝦夷地の気象状況、動植物、生産物、道路、航路、商業、農漁業、風俗などをたずね、それについて林蔵が答えると、克明に記録させた。

天保五(1834)年、間宮林蔵は五十五歳になった。シーボルト事件の密告者であるという噂は、月日の経過とともに消えるかと思ったが、逆に疑いのない事実として定着していた。洋学を学ぶ者たちの林蔵に対する憎悪と恐怖は激しく、林蔵の姿を見ると顔色を変え、あわただしく立ち去る。家の近所の者たちも、密告者であるとともに隠密であることを知り、おびえたような眼を向けてくる。林蔵は、そうした空気がわずらわしく、転居を繰返していた。

林蔵は、藤田東湖らの話を聞いているうちに、ようやく斉昭公の真意をつかむことができた。水戸藩では、蝦夷地を松前藩にまかせるべきではなく、その経営と警備を水戸藩がおこなうべきだという意見が強く、斉昭公もそれに賛成した。徳川御三家の尾張、紀伊の両家に比べると、水戸家の禄高は少なく財政が窮乏していたので、蝦夷地の開拓、経営によって経済的な打開を試みようと考えている。それを幕府に請願するためには、あらかじめ蝦夷地に対する正しい知識を持つ必要があり、蝦夷地の事情に通じている自分に教えを求めていることを知った。水戸の斉昭公は、林蔵を重宝がって定まった謝礼を与え、優遇した。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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シーボルト事件

文政十一(1828)年、林蔵四十九歳になった。当然、隠居すべき年齢であったが、一生無役の身として幕府からの命令をひそかに待ち、深川の家で体調をととのえながら日々を送っていた。雛節句が過ぎ、深川八幡宮の祭礼も終わった。三月二十八日、林蔵宅に高橋作左衛門からオランダ商館にいるシーボルトから作左衛門に小包が届き、自分のもの以外に林蔵の物が入っていたので、使いの者によって届けられた。

林蔵は、異国人からの物を受けることは罪なると考えそのまま紐をとかず、上司の勘定奉行村垣淡路守定行に届け出ることにした。村垣は、書簡を読み、控えの者に命じて小包の紐をとかせた。林蔵の予想していた通り、包装は四重にもなっていて、それを開くと、更紗一反と書簡が現れた。書簡はオランダ語でその後、和解(わげ)され、シーボルトが林蔵の北海探査を賞讃し、今後、親しく交わりたいというものであった。

文政十一年八月九日夜、長崎に大暴風雨が襲来した。湾内に碇泊中の唐船三隻が吹流され、一ヶ月以内に出航予定のオランダ商船コルネリウス・ハウトマン号も、碇綱が切れて流され、稲佐の海岸の州に乗り上げ、その舳が庄屋の志賀家の二階に突っ込んでいた。その船で、シーボルトは帰国することになっていた。船の被害状況を幕府に報告するため、積荷の検査がおこなわれたが、その中に意外な品々が発見された。海外に持ち出すことを厳禁している日本とその周辺の地図類と、将軍家から下賜された葵の紋の入った羽織などがまじっていた。

大目付村上大和守は、目付本目帯刀に勘定奉行村垣淡路守と協力し徹底的に調査することを命じた。それまでの調査で、高橋作左衛門が、シーボルトの投宿していた長崎屋に最もひんぱんに訪れ、しかも常に門弟に風呂敷包みその他をもたせていたことからみて、物品の交換をおこなっていたと推測されていた。疑惑は作左衛門に集中し、町奉行筒井伊賀守も支配の者に行動をおこさせ、お庭番、目付、小人目付らが本格的な探索に入った。また、長崎へも目付をはじめ隠密多数が放たれ、シーボルトとその周辺の洗い出しにかかった。長崎からは、続々と調査結果が早飛脚で江戸へつたえられ、江戸から昼夜をわかたず長崎へ指令が発せられた。

高張提灯もまじった提灯の群れは、天文台下の天文方兼書物奉行高橋作左衛門の屋敷を取り囲み、一団が門内に流れ込んだ。突然のように路上を埋めた御用提灯に、近くの家の人々は恐れおののき、家の中からひそかに外をうかがっていた。しばらくすると、邸内からあわただしく御用提灯の光が流れ出てきた。提灯に囲まれて、青い網をかけた一挺の駕籠が引き出され、捕吏に前後左右を守られ奉行所への道を進んでゆく駕籠の中には縄をうたれた作左衛門が座っていた。

取調べは、日本地図について、高橋作左衛門は、伊能忠敬が老躯を鞭打って全国を旅行し積極的に実測して作りあげた大日本沿海與地図の複製を、シーボルトに贈ったことを告白した。その複製をつくったのは、作左衛門の部下である暦作測量御用手伝下河辺林右衛門と手附下役川口源次郎、吉川克蔵、門谷清次郎、永井甚左衛門であることを陳述した。日本地図が海外に流出することは国防上深刻な問題で、天文方兼書物奉行という地図を管理する要職にある作左衛門が、自らその禁を破ったことは重大問題であった。たまたま大暴風雨によるオランダ船のコルネリウス・ハウトマン号の坐州によって、それらの品々はシーボルトの手で本国へ持ち去られずにすんだが、もしも海外へ流出すれば国防上大きな影響をこうむったにちがいなかった。

文政十二年九月下旬、ようやくシーボルトに対する吟味が終り、国法を犯した罪として、「・・・以来渡海を禁ずる」旨の永久国外追放が申渡された。文政十三年が明けると、シーボルト事件の関係者の処分が次々におこなわれた。

関係者の処分が決定した頃、林蔵は、勘定奉行村垣淡路守に招かれ、役宅に赴いた。村垣は、長崎への隠密として出立するように、命じた。勘定奉行の命令は老中からのものだが、たしかにシーボルト事件が起きたのは、役人その他とオランダ商館員の癒着が原因になっている。それを憂えた老中たちが、自分に実情調査を命じたのだが、徹底的に探査しようと思った。林蔵は、ひそかに深川の家を出ると、東海道を進んだ。かれにとって、西下の旅は初めてであった。富士山を眼近に仰ぎ、大井川の渡しを越えた。五十一歳でありながら、絶えず歩行の修練を怠らぬので、足は驚くほどの健脚であった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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商館長一行将軍謁見と林蔵伊豆七島見分

文化九(1826)年、林蔵は四十七歳になった。江戸に桜の開花が見られる頃、かれは、長崎からオランダ商館長一行が江戸に入ったという話しを耳にした。五年に一度、長崎の出島におかれたオランダ商館の商館長が、一月中旬に長崎を出発して江戸に来るのが習わしになていった。江戸城に登城し、将軍の拝謁を得るためであった。殊にその年の商館長一行には、強い関心が集っていた。それは、文政六年に商館に着任したフランツ・フォン・シーボルトという三十歳の医官が随行していたからであった。シーボルトはドイツ人で、医科大学を卒業し、赴任してきた。日本への入国は、オランダ人と中国人のみに限られていたが、かれはオランダ人をよそおって入国を果したのである。幕府は、西欧の医学を導入することによって日本の医学水準を高めるべきだと考え、シーボルトに出島から出て市中で病人の治療にあたることを許した。出島の外にオランダ人が出ることを厳禁していた幕府は、異例の優遇処置をとったのである。さらに、幕府は、長崎奉行の高橋越前守重賢の申出を受け入れ、長崎郊外の鳴滝に塾を開かせ、シーボルトに医学の教授をおこなわせた。長崎に西洋医学の修業に来ていた医師たちは、競い合って鳴滝塾に入門し、シーボルトを師と仰いで勉学に励んだ。シーボルトの名声は、日増しに高く、それまでに来日したオランダ商館の医官の中で群を抜いたすぐれた医学者であるという評価が定着した。そして、その評判は、京都、大坂から江戸にもつたえられていた。

林蔵は、江戸にいる一流の人物たちがシーボルトを逗留先の長崎屋に訪れていることを耳にしていた。薩摩藩主島津斎興の祖父重豪、中津前藩主奥平昌高、蘭学者大槻玄沢、桂川甫賢をはじめ眼科医土生玄碩、さらに天文方の高橋作左衛門、すでに隠居していた最上徳内らで、殊に作左衛門がしばしば訪れているようであった。やがて商館長の将軍拝謁の儀も終り、五月十八日、シーボルトは、商館長とともに江戸を離れ、長崎へ帰っていった。

幕府は、林蔵を海岸異国船掛に任命した。それは、海防関係の隠密御用を意味していた。秋も深まった頃、林蔵は、幕府から伊豆代官柑本兵五郎の伊豆七島巡見に随行するよう命じられた。兵五郎は、松前奉行所吟味役当時に林蔵と親しく、その後、杉庄兵衛の跡をついで前年の文政八年に伊豆代官に任じられていた。代官は、在任中一度は伊豆七島を巡見することが義務付けられていて、兵五郎は、それにしたがって伊豆七島に赴くことになったのである。林蔵が兵五郎に随行するのは、勘定奉行村垣淡路守定行を通じて老中大久保忠真の密命によるものであった。老中大久保は、しばしば林蔵から海防関係の意見を聞いていたが、捕鯨船の鯨の肉は捨て、油だけを採って樽に入れ、本国に持ち帰るという。当然、鯨油をとるには脂肪を煮る薪が必要で、そのため日本の沿岸に来て薪を採取しようとする紛争が今後も続発するだろう、という林蔵の判断を正しいものと考えていた。

巡見は終り、七月三日、新島の大吉丸で八丈島を出帆、順風を得て翌日に大島の波浮浦に着船した。さらに風待ちをした後、大島に出帆し、七月二十九日に江戸へもどった。林蔵は、勘定奉行村垣淡路守に報告書を提出、それは老中大久保加賀守に渡された。大久保は、林蔵を召出し、伊豆七島方面の情勢を聞取りした。文政十一(1828)年が明け、林蔵は四十九歳になった。隠居すべき年齢であったが、一生無役の身として幕府からの命令を密かに待ち、深川の家で体調をととのえながら日々を送っていた。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵は内密御用で隠密の旅

文政四(1821)年の暮れ、蝦夷地に大きな政治的変化が起こった。二十二年前の寛政十一年、松前藩が統治していた蝦夷地を取り上げて直轄地としたが、十二月七日、突然、松前藩に戻すことを発表したのである。蝦夷地の行政、経済の態勢がととのい、さらにロシアの脅威が薄らいだという理由からであったが、事実は松前藩が復領を老中水野出羽守忠成に乞い、忠成がそれをほとんど独断で許したためであった。それによって松前奉行所は廃され、翌文政五(1822)年、林蔵(43歳)は、水野出羽守の沙汰によって勘定奉行遠山左衛門尉(金四郎)の配下となり、普請役に任じられた。

文政七(1824)年五月下旬、江戸を騒然とさせる事件が起こった。二十八日に、江戸に近い常陸国(茨城県)大津浜に二隻の異国船が出現し、乗組員が上陸したという通報が伝えられたのである。異国船の乗組員が上陸した大津浜は、水戸藩家老中山備前守の領地で、ただちに早馬で水戸藩に通報され、藩から多数の藩士が急派された。上陸したのは、ボート二艘に乗った十二人の男たちで、鉄砲四挺、銛(もり)、刀などをたずさえていたが、中山備前守の家来が一人残らず捕まえた。水戸藩からの急報をうけた幕府は、代官古山善吉と普請役元締格河久保忠八郎に加えて特に普請役間宮林蔵を同行させ、現地に急行させた。通訳には、足立左内と二年前に病死した馬場佐十郎の後をついで天文方の通詞になった吉雄忠次郎が随行した。吉雄はオランダ通詞であったが、英語にも通じていた。

翌年文政八年六月、事件は解決し、林蔵は六月十七日、代官古山に従って現地を離れ、江戸へもどった。代官古山の事件経過についての報告は、幕府に衝撃を与えた。上陸し捕えられたイギリス人たちは捕鯨船の船員で、かれらの陳述によると、沖には三十隻以上の大型の捕鯨船が散って操業しているという。二年前に浦賀に入った船も捕鯨船で、今後、これらの船の乗組員の上陸さわぎが続発することが予想された。

幕府は、房州(千葉県)から奥州までの海岸線を調査し、異国の捕鯨船についての情報を集める必要がある、と判断した。ただ、公けに調査団を派遣すると、ただでさえ動揺している人心をさらに不安なものにする恐れがあるので、ひそかに調査することが好ましかった。適任者としては、林蔵以外には考えられなかった。四十五歳という年齢ではあるが、依然として健脚はおとろえをみせていない。単独で樺太、東韃靼を踏破し、貴重な資料を持ち帰った林蔵は、的確に情報を伝えるに違いなかった。林蔵は、勘定奉行遠山金四郎から安房上総御備場掛手附として内密御用を命じられ、調査するよう指示された。かれは、深川の家を密かに出発すると、房総の銚子におもむき、それから海岸に沿って北上し、隠密の旅に入った。

翌文政八年二月十九日、沿海諸大名に対し、近づく異国船は理由を問わず打ち払うことを命じた。林蔵(46歳)は、旅の途中、事件の詳細を知り、幕府から与えられた使命の重要性をあらためて感じ、江名浜から銚子までの探査の旅をつづけた。その旅によって、イギリス捕鯨船について多くの知識を得た。一艘の船の乗組員の数は七、八十名で、捕えた鯨の処理法、また船が必要とする物資などを知ることができた。かれは役人であることをかくすため、時には商人姿に身なりを変えることもあった。その年の暮れ、かれは江戸に戻り、幕府に一年余りにわたる調査結果を報告し、深川の自宅にもどった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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大日本沿海與地全図の誕生

文化十一(1814)年、林蔵(35歳)は雪解けを待って、従者を雇入れ、まず松前から北の日本海を面した西海岸の測量の旅に出た。江差をへてイワナイ(岩内)、オタルナイ(小樽)へむかった。距離の測定は、主として歩数で計った。伊能忠敬に教えられた通り、点を設けて線でむすび、方位と距離を測って線を次々にのばしてゆく量線法をおこなった。さらに、夜、星の高度をはかって緯度を確かめ、誤差を修正していった。かれは、石狩からノッシャム(野寒布)岬をへて宗谷に至った。林蔵は、天体観測具や測量具を、雇入れた宗谷のアイヌに運ばせ、宗谷からエサシ(枝幸)方向のオホーツク海沿岸を測量し、モンベツ(紋別)で越冬した。

文化十二(1815)年も、アイヌの助けを借りて測量の旅をつづけた。紋別から常呂、網走をへて斜里にいたるオホーツク海沿岸を測地した。さらに国後島に渡って西海岸を踏査し、その間、色丹、利尻、礼文等々の島を遠くから方位、距離を測定し、野帳に記録した。

文化十三(1816)年、林蔵(37歳)は久しぶりに箱館にもどって越年し、翌春東海岸に足を向けた。その方面は伊能忠敬が測量していたが、歩行困難な場所は舟の上から目測にたよったので完全さを欠いていた。そのため林蔵はその方面の測地をおこなったのである。箱館からオシャマンベ、釧路をへて八月十七日には厚岸に達し、さらに花咲半島、根室、ノサップ(納沙布)岬を実測した。そして、船便を得て箱館へもどった。

日本全国の地図を作成しようとしている伊能忠敬にとって、蝦夷の原図を得ることは悲願の達成することを意味していた。忠敬は、気分が良い時には半身を起し、全国地図の作成をつづける門人たちに指示を与えていた。四月十三日、忠敬(74歳)の意識はうすれ、やがて息も絶えがちになった。娘の妙薫をはじめ孫たちが死水をあたえ、林蔵も水をふくませた筆を唇にあてた。日本全図の作成はまだであったので、それが完成した折まで忠敬の死は公表されぬことになった。家督を継ぐのは、長孫の三治郎であったが、まだ十三歳で、妙薫が訓育を引受けた。四月二十二日、元号が改まり文政元年(1818)となった。林蔵(39歳)は、悲しみにひたりながらも忠敬の埋葬とその後の処理にあたった。忠敬の遺体は遺言にしたがって、浅草の源空寺にある高橋至時の墓の傍に葬り、爪と遺髪を佐原の観福寺にある伊能家の墓所におさめた。

林蔵は、忠敬の全国地図作成に、自分が測量した蝦夷の海岸線の原図が貢献したことを喜んでいた。が、かれは、蝦夷図を完璧なものにするためには、内陸部の測量もおこなわねばならぬ、と思った。かれは、霊岸島の松前奉行出張役所にその旨をつたえ、蝦夷行きの許可を得た。忠敬の盆送りをすませたかれは、旅支度にとりかかり、従者に測量具を背負わせ、江戸を出立した。

林蔵は、冬が近づくと箱館にもどって疲労をいやし、春とともに旅に出ることを繰返した。その足跡は、精力的にのび、石狩川、天塩川、網走川、十勝川、シブチャリ(染退)川などをそれぞれ上流まで遡った。文政三(1820)年の冬をひかえ、林蔵(41歳)は箱館にもどった。かれの手元には、蝦夷地の内陸部を測量した膨大な原図がはつめられていた。その年の三月、佐渡奉行に転出していた高橋重賢が越前守として松前奉行に任命され、五月に松前に着任していた。林蔵にとって長年、目をかけてくれた高橋の奉行就任は大きな喜びであった。

文政四(1821)年五月、勤務交代の奉行夏目左近将監が到着し、高橋越前守は江戸へ帰ることになり、蝦夷地測量を終えた林蔵(42歳)は随行を命じられた。江戸に戻った林蔵は、ただちに原図を元に蝦夷地の地図作成にとりくんだ。蝦夷地の内陸部を苦労して踏査した努力がそのまま地図にあらわれ、河川と地名が詳細に記入され、海岸図では潮流が矢印で示されているという周到さであった。蝦夷地(北海道)のみならずクナシリ島の東部、エトロフ、ウルップ島の図も作図された。山岳部は緑、平地は白と色分けされ、地図の大きさは一畳半になった。その月の下旬に蝦夷全図と名付けて幕府に提出された。

伊能忠敬の死後、門人たちによって忠敬が日本全国を測量した地図の作成がつづけられた。それは、大日本沿海與地全図と與地実測録で、林蔵の蝦夷全図をあわせたきわめて正確な日本地図が誕生したのである。天文方高橋作左衛門は、三治郎を忠誨(ただのり)と改名していた忠敬の孫や門人らと大日本沿海與地全図、與地実測録を携えて江戸城に登城し、大広間に列座する老中、若年寄の前で図をつなぎ合わせて披露した。これによって地図の献上の儀も終え、はじめて伊能忠敬の死が公表された。幕府は、忠敬の偉大な功績に報いるため孫の忠誨に家督を継ぐことを許し、五人扶持、永大帯刀の栄典をあたえた。この家督相続についても、林蔵は親身になって力をつくした。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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