ゴローニン事件の解決
文化九(1812)八月十四日朝五ッ(八時)頃、高田屋嘉兵衛の持船観世丸が、国後島トマリ会所の近くにあるケラムイ岬をまわって湾内に入ってくるのを視認した。ディアナ号副官リコルドは、武装兵二十名を乗せた大型ボート二艘で追わせ、小銃を連射し停船させた。船には、奥蝦夷地方最大の海運業者でエトロフ島請負人でもある高田屋嘉兵衛が乗っていて、リコルドの上司ゴローニンの消息に対する質問に、嘉兵衛は、「生きて、松前に幽閉されている」と、答えた。リコルド大尉は喜んだが、今後、日本側と折衝するのに日本人を捕虜としておくことが得策と考え、嘉兵衛と船頭吉蔵、水主金蔵、文次郎、平蔵、アイヌのシトカを捕え、他の者は釈放した。ロシア艦ディアナ号は、八月十六日夜、国後島から帆影を没した。
幕府は、林蔵(33歳)を再び松前へ派遣することを定めた。松前奉行所が、ロシア艦対策にどのような処置をとるかを探索するためで、九月十九日に、林蔵に蝦夷地御用を命じた。松前奉行所の強化をはかるため、江戸にいた吟味役並柑本兵五郎を調役石坂武兵衛、調役下役長川伸太郎とともに急ぎ松前へ出立させることに決定した。一行に林蔵も加わることになった。九月二十九日、林蔵は、柑本兵五郎らと江戸を発った。一行は駕籠をつらねて道を急ぎ、十月二十三日に津軽藩領三厩にたどりついた。風待ちをした後、二十八日に松前に向けて出帆した。が、風向きが悪く、白神岬をかわすことができず、松前の東方三里(12キロメートル)の吉岡村についた。かれらは、翌朝、出発し、雪に覆われた吉岡峠を越え、途中難儀をしながら山中をたどり、ようやく夕七ッ(四時)頃松前に入ることができた。
林蔵は、高橋重賢に会い、着任の報告をした。奉行所では、文化四年に来襲したロシア艦乗組員によって捕えられ五年後に戻って来たエトロフ島番人五郎治の陳述に、関心が集中していた。五郎治の話によると、エトロフ島その他を襲撃したフォストフ大尉は、ゴローニンの陳述通りその不法行為をロシア政府から責められ、拘留された。その後、川に落ちて溺死したという。高橋重賢は、これらの情報を検討した結果、ロシア艦のエトロフ島その他への襲撃は、ロシア政府とは、無関係で、ゴローニンらを釈放すべきだ、という考えに傾いていた。
翌年文化十(1813)年、五月二十六日、副官リコルドを艦長とするディアナ号が、国後島トマリ沖合いに現れた。リコルドは、捕まえていた高田屋嘉兵衛を上陸させ、ゴローニン少佐ら八名の釈放を求めた。在勤中の調役並増田金五郎と太田彦助は、松前奉行から送られてきていた書類を嘉兵衛に渡し、同時に松前へ急報した.奉行服部備後守は、吟味役高橋重賢、調役下役庵原亮平(直一の子)に通訳として上原熊次郎と捕虜のアレクセイ、水夫シーモノフを随行させ、国後島へ向わせた。高橋らは六月八日、松前を出発、十九日に国後島へ到着した。
吟味役高橋重賢は、リコルドに対して、文化三、四年のロシア艦によるエトロフ島その他への襲撃事件についてロシアの長官の謝罪書の提出と、その折り掠奪した武器、財物の返還を要求した。これらの条件を実行すれば、ゴローニンらを即時釈放すると伝えた。そして、もしもそれを承諾するなら、それらの書簡と返却品をたずさえて、本年中に箱館へ来航するよう指示した。この間、高田屋嘉兵衛は、冷静にリコルドの相談相手になって交渉を円滑に推し進めるようつとめた。リコルドは、日本側の要求を受け入れることを決意し、嘉兵衛らを釈放して、七月十五日、国後島を去った。その出帆前、嘉兵衛は、艦に魚三百尾をとどけた。
松前奉行服部備後守は、ロシア艦の来航にそなえて、南部、津軽藩兵四百五十名を箱館に配した。また、引渡す捕虜のゴローニンら八名を八月十七日に松前を出発させ、二十日に箱館へ到着させた。途中、多くの人が見送り、箱館の町では道の両側に人がひしめき合ってゴローニンらを見物していた。かれらは、役宅に収容され丁重にもてなしを受けた。
九月十日昼四ッ(十時)すぎ、ウスシリ沖に異国船の帆影が現れ、十六日に箱館沖に碇を下ろした。リコルドを艦長とするディアナ号であった。十九日、リコルドは箱館に上陸、沖ノ口番所に赴いた。そこには吟味役高橋、吟味役並柑本兵五郎が待ち、通詞として村上貞助が控えていた。
リコルドは、ロシア語、フランス語、日本語の三種の訳文を添えたイルクーツク長官テレスキンからの書簡を提出した。日本語のものは意味不明で、馬場佐十郎と足立左内がフランス文の翻訳にとりくんだ。また原文のロシア文の書簡を村上貞助とゴローニンが翻訳した。その書簡は、フォストフ大尉指揮のロシア艦ニ隻が千島を襲ったのは独自の暴挙で、ロシア皇帝は激怒し、フォストフらを召捕った、と記され、その行為を謝罪していた。交渉は、ようやく成立し、ゴローニンらはロシア艦に送りかえされた。九月二十八日、ディアナ号は箱館を去った。これによってゴローニン事件も解決し、日本とロシアの国際関係は鎮静化した。
『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋
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