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ゴローニン事件の解決

文化九(1812)八月十四日朝五ッ(八時)頃、高田屋嘉兵衛の持船観世丸が、国後島トマリ会所の近くにあるケラムイ岬をまわって湾内に入ってくるのを視認した。ディアナ号副官リコルドは、武装兵二十名を乗せた大型ボート二艘で追わせ、小銃を連射し停船させた。船には、奥蝦夷地方最大の海運業者でエトロフ島請負人でもある高田屋嘉兵衛が乗っていて、リコルドの上司ゴローニンの消息に対する質問に、嘉兵衛は、「生きて、松前に幽閉されている」と、答えた。リコルド大尉は喜んだが、今後、日本側と折衝するのに日本人を捕虜としておくことが得策と考え、嘉兵衛と船頭吉蔵、水主金蔵、文次郎、平蔵、アイヌのシトカを捕え、他の者は釈放した。ロシア艦ディアナ号は、八月十六日夜、国後島から帆影を没した。

幕府は、林蔵(33歳)を再び松前へ派遣することを定めた。松前奉行所が、ロシア艦対策にどのような処置をとるかを探索するためで、九月十九日に、林蔵に蝦夷地御用を命じた。松前奉行所の強化をはかるため、江戸にいた吟味役並柑本兵五郎を調役石坂武兵衛、調役下役長川伸太郎とともに急ぎ松前へ出立させることに決定した。一行に林蔵も加わることになった。九月二十九日、林蔵は、柑本兵五郎らと江戸を発った。一行は駕籠をつらねて道を急ぎ、十月二十三日に津軽藩領三厩にたどりついた。風待ちをした後、二十八日に松前に向けて出帆した。が、風向きが悪く、白神岬をかわすことができず、松前の東方三里(12キロメートル)の吉岡村についた。かれらは、翌朝、出発し、雪に覆われた吉岡峠を越え、途中難儀をしながら山中をたどり、ようやく夕七ッ(四時)頃松前に入ることができた。

林蔵は、高橋重賢に会い、着任の報告をした。奉行所では、文化四年に来襲したロシア艦乗組員によって捕えられ五年後に戻って来たエトロフ島番人五郎治の陳述に、関心が集中していた。五郎治の話によると、エトロフ島その他を襲撃したフォストフ大尉は、ゴローニンの陳述通りその不法行為をロシア政府から責められ、拘留された。その後、川に落ちて溺死したという。高橋重賢は、これらの情報を検討した結果、ロシア艦のエトロフ島その他への襲撃は、ロシア政府とは、無関係で、ゴローニンらを釈放すべきだ、という考えに傾いていた。

翌年文化十(1813)年、五月二十六日、副官リコルドを艦長とするディアナ号が、国後島トマリ沖合いに現れた。リコルドは、捕まえていた高田屋嘉兵衛を上陸させ、ゴローニン少佐ら八名の釈放を求めた。在勤中の調役並増田金五郎と太田彦助は、松前奉行から送られてきていた書類を嘉兵衛に渡し、同時に松前へ急報した.奉行服部備後守は、吟味役高橋重賢、調役下役庵原亮平(直一の子)に通訳として上原熊次郎と捕虜のアレクセイ、水夫シーモノフを随行させ、国後島へ向わせた。高橋らは六月八日、松前を出発、十九日に国後島へ到着した。

吟味役高橋重賢は、リコルドに対して、文化三、四年のロシア艦によるエトロフ島その他への襲撃事件についてロシアの長官の謝罪書の提出と、その折り掠奪した武器、財物の返還を要求した。これらの条件を実行すれば、ゴローニンらを即時釈放すると伝えた。そして、もしもそれを承諾するなら、それらの書簡と返却品をたずさえて、本年中に箱館へ来航するよう指示した。この間、高田屋嘉兵衛は、冷静にリコルドの相談相手になって交渉を円滑に推し進めるようつとめた。リコルドは、日本側の要求を受け入れることを決意し、嘉兵衛らを釈放して、七月十五日、国後島を去った。その出帆前、嘉兵衛は、艦に魚三百尾をとどけた。

松前奉行服部備後守は、ロシア艦の来航にそなえて、南部、津軽藩兵四百五十名を箱館に配した。また、引渡す捕虜のゴローニンら八名を八月十七日に松前を出発させ、二十日に箱館へ到着させた。途中、多くの人が見送り、箱館の町では道の両側に人がひしめき合ってゴローニンらを見物していた。かれらは、役宅に収容され丁重にもてなしを受けた。

九月十日昼四ッ(十時)すぎ、ウスシリ沖に異国船の帆影が現れ、十六日に箱館沖に碇を下ろした。リコルドを艦長とするディアナ号であった。十九日、リコルドは箱館に上陸、沖ノ口番所に赴いた。そこには吟味役高橋、吟味役並柑本兵五郎が待ち、通詞として村上貞助が控えていた。

リコルドは、ロシア語、フランス語、日本語の三種の訳文を添えたイルクーツク長官テレスキンからの書簡を提出した。日本語のものは意味不明で、馬場佐十郎と足立左内がフランス文の翻訳にとりくんだ。また原文のロシア文の書簡を村上貞助とゴローニンが翻訳した。その書簡は、フォストフ大尉指揮のロシア艦ニ隻が千島を襲ったのは独自の暴挙で、ロシア皇帝は激怒し、フォストフらを召捕った、と記され、その行為を謝罪していた。交渉は、ようやく成立し、ゴローニンらはロシア艦に送りかえされた。九月二十八日、ディアナ号は箱館を去った。これによってゴローニン事件も解決し、日本とロシアの国際関係は鎮静化した。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵、松前の獄舎にゴローニンを訪れる

吟味役高橋重賢は、頭脳の殊のほかすぐれた村上貞助に、ロシア語を身につけさせたいと考え、ゴローニンにロシア語を教えてくれるよう依頼した。貞助は、学習の第一日目からいちじるしい才能を発揮し、ロシア文字の読み書きを記録し、発音もすぐに会得する。その上達ぶりは目ざましかった。林蔵は、貞助がゴローニンにロシア語を教えてもらっていることに驚いた。貞助は師村上島之允の養子で、二年前、樺太北部、東韃靼探査の経過を口述筆記してくれた。昨年夏には、伊能忠敬の家でも顔を合わせたことがあり、その後、松前へもどったという話はきいていたが、ゴローニンと深く接しているとは想像もしていなかった。ロシア語習得の成果を挙げているというが、頭脳のすぐれた研究熱心な貞助なら、それも当然のことだろう、と思った。

藩兵が、獄舎の扉にかけられた鉄製の閂をあけた。通路には新しい畳が敷かれ、炉が切られている。その傍の縁台に座っていた異国人が、カピタン(艦長)ゴローニン殿と通詞の上原熊次郎が、言った。頭髪の黒い長身の異国人が、炉端の縁台から立ち上がり、林蔵をみつめた。おだやかな顔つきをした四十歳前後の男で、奉行所であたえたらしい綿入りの服を身に着けていた。村上貞助が「この方は、江戸から来た間宮林蔵です。高名な測量家で、この付近ではやっている腫病(はれやまい)にあなた方がかからぬよう、幕府からの依頼で予防薬を持ってきました」と紹介し、林蔵は柑橘類のしぼり汁を入れた徳利二個と密柑、薬草を渡した。ゴローニンは、感謝の意をしめし、受け取った。

林蔵は、連日のようにゴローニンのもとに赴いた。経度の測定法についてゴローニンに教わることは期待できなかったが、それはかれに近づく一便法でもあった。林蔵は、樺太北部から東韃靼への調査をおこなったことを話した。ゴローニンが疑わしそうな眼をしたので、それらの地図や、旅の途中で描いた絵などをみせた。ゴローニンは、ようやくそれが事実であることを知ったらしく、驚嘆の眼を向けた。林蔵は、さらにフォストフ大尉指揮のロシア艦がエトロフ島を攻撃した時、シャナで応戦したことも口にした。ゴローニンは、自分が捕えられた原因がその折のロシア艦乗組員の乱暴に対する報復であることを通詞より伝えられていた。

文化九(1812)年二月十三日、松前奉行荒尾但馬守のもとに江戸からの下知状がとどいた。それは、但馬守からのゴローニン釈放許可の嘆願書に対する回答であった。下知状は、一月二十六日、老中土井利厚から江戸在勤の松前奉行小笠原伊勢守、村垣淡路守につたえられ、翌二十七日、松前へ急飛脚で送られたものであった。下知状は、ゴローニンの釈放を許さず、今後、ロシア艦が来航した折には、ただちに打ち払うべし、という強硬な内容であった。その趣旨は、蝦夷地警備の任にあたる南部、津軽両藩にも伝えられた。

林蔵(33歳)は、当然のことだ、と思った。ゴローニンの乗っていたディアナ号の乗組員は、フォストフ大尉指揮の艦とちがって乱暴ははたらなかなかったというが、武装船を国後の会所に近づけたことは、威嚇行為と疑われてもやむを得ない。釈放などということは論外で、厳重に拘禁すべきであり、接近してくるロシア艦は、すべて大筒で打ち払うのが正しい処置だ、と思った。

六月三日、奉行交替のため江戸から小笠原伊勢守が松前に到着、荒尾但馬守と事務引継ぎをおこなった。伊勢守も、但馬守と同じようにゴローニンに好意的であった.脱走も故国へ帰りたいという願望によるもので、日本側に危害を加えるという意図はなかったとして、七月九日、かれらを町牢から出し、松前に初めて来た時に収容した屋敷に移した。食事も上質のものになり、煙草、酒もあたえられた。六月十八日、荒尾但馬守は江戸に発ち、村上貞助も随行した。松前には平穏な空気がもどったが、捕えられたゴローニンたちを救出するため、ロシア艦が来攻するにちがいないという噂がしきりであった。来航するのは、ゴローニンらが捕えられた国後島と予想され、その方面に南部、津軽両藩兵が増強された。

林蔵は、ゴローニンらの脱走と逮捕後の奉行所の動きをひそかに見守っていた。新奉行小笠原伊勢守も、前任の荒尾但馬守と変わらぬ処置をとっていることも知った。かれは、自分のあたえられた密命の任務を一応果すことができたと考え、江戸に帰って報告しようと考えた。幸い、親交のある蝦夷地御用達の豪商伊達林右衛門の手代弥兵衛が江戸へ行くことを知り、七月五日、弥兵衛とともに御用船天禄丸に乗船して、松前をはなれた。江戸についた林蔵は、幕府に対して、ゴローニンの収容状況、脱走と逮捕について報告した。ゴローニンの釈放などは論外で、文化三、四年のロシア艦来襲でもあきらかのように、ロシアを信用することは、その術中にはまることだ、と進言した。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵はゴローニン事件で松前へ

文化八(1811)年十一月二十五日、伊能忠敬は多くの人々の見送りを受けて第二回の九州測量の旅に深川黒江町の自宅を出発した。随行者は、測量用の竿や縄を持った者たち十九名にも及んだ。忠敬は、深川の富岡八幡宮に参拝し、旅の無事を祈った。そして、見送りについてきた林蔵(32歳)に樺太北部、東韃靼調査の功をる称える「贈間宮倫宗(林蔵)序」という一文を贈った。

林蔵は、蝦夷地へむかう途中、故郷の常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村に立ち寄ろう、と思った。両親は、林蔵の妻とするものを定めて家に同居させていたが、その娘も今年の二月中旬に病死したという。この機会に親不孝を詫び、妻となるべき女の菩提も弔いたい、と思った。役職も松前奉行所の普請役雇から調役下役格に昇進し、三十俵三人扶持を支給される身になっている。さらに蝦夷地への路用として百両もあたえられ、それらを報告すれば両親は喜んでくれるにちがいなかった。

十二月晦日の朝、林蔵は、家を出発した。千住をへて亀有から舟で新宿に渡り、昼食をとった。さらに新利根川を渡し舟で松戸へつき、小金、我孫子をへて取手で宿をとった。翌朝、宿を出た林蔵は北への道をたどり、小貝川のほとりに立った。なつかしい故郷の川で、水遊びをした少年時代のことがよみがえった。かれは足を速め、上平柳村に入った。

母が雑煮を運び、酒を飲むようにすすめた。嬉々としている母に、林蔵は涙ぐんだ。父が、仏壇から新しい位牌を手に林蔵の前に座り、差出した。林蔵は、受けとり、林誉妙慶信女と刻まれた戒名を見つめた。前年の二月十九日に死亡した、両親が林蔵の妻と定めていた女の位牌であった。

林蔵は、家を出ると専称寺の住職に、墓のことを相談した。碑面には間宮林蔵墓とし、側面に妻の戒名を刻む。自分は、いつ死ぬかも知れぬので、老いた父母に負担をかけぬためにも自分の墓を建てたい、と、言った。住職は、よいお心がけだ、と何度もうなずき、墓の建立について引受ける、と約束してくれた。墓石建立の費用と供養料を住職に渡し、故郷での役目を終えたように思った。両親は老いてはいるが、病気らしい病気もせず、達者でいることにも安堵した。

林蔵は、幕府からは、松前に拘禁されているロシア艦「ディアナ号」艦長ゴローニン海軍少佐と接触し、かれが国後島に来航した真意をさぐれ、という密命をうけている。松前奉行所では、ゴローニンの来航は敵意をふくんだものではなく、釈放すべきだという同情論が支配的で、幕府に釈放の嘆願書も送られてきている。これに対して、幕府は、五年前のフォストフ海軍大尉の指揮するロシア艦の横暴に対する憤りで、釈放など論外だという意見が強い。林蔵は、千島、樺太、東韃靼調査の実績をもち、ロシア通の一人としてゴローニンの来航目的をさぐるのに格好な人物と目されている。林蔵は、そのような密命を受けている身として、いたずらに故郷で日を過すことは許されず、一日も早く松前へ赴かねばならなかった。

文化九(1812)年一月下旬、津軽の三厩についた。が、海は荒れ、吹雪の日が続いていて、十日近く滞留を余儀なくされた。その季節に渡海する者などなく、宿屋は彼を除いてニ、三人の者しか泊まっていなかった。ようやく海上もおだやかになり、船は、津軽海峡を北へ進み、松前の港に入った。家並は、雪の中に埋もれていた。かれは、宿を定めると、奉行の荒尾但馬守に来着の挨拶に赴いた。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵は伊能忠敬に緯度測定法を学ぶ

林蔵(32才)は、過去を振り返り、村上島之允の弟子として測地術を修業し、島之允のお供をして各地を測量し、蝦夷に入り、さらに樺太北部、東韃靼の調査をおこない、地図も作成して幕府に提出した。それによって、役職も昇進したが、ただ一つ心もとなく思っているのは測地術であった。林蔵の測地術は、まだ多くのものを学ばねばならぬ初歩の域であった。調役下役格として一層測量術を高めねばならぬ、と思った。

五月中旬、林蔵は、伊能忠敬から書状を受け取った。それには忠敬は、一昨年の八月に江戸を発し、今年の五月八日に帰ってきたとある。その間、中山道、山陽道の街道筋、また豊前、豊後、日向、大隈、薩摩、肥後の海岸、天草諸島を測量、さらに熊本から大分に至る街道等を実測した。そして、文化八(1811)に入って中国諸街道、三河から信濃に至る街道、甲州街道を実測して、二年近くにおよんぶ測量旅行から帰ってきていたのである。忠敬は、旅行中、林蔵が樺太北部から東韃靼に至る旅を果したことを耳にし、林蔵に会いたいと書いてあった。林蔵は、忠敬が六十七歳であることを知っていた。その高齢で、大測量旅行をおこなっていることに驚嘆した。林蔵は、自分も忠敬に会い、測量の方法についての知識を少しでも吸収したいと思った。忠敬は、日本で最も高度な測量法を身につけていて、緯度、経度の計測も十分にこなしている。林蔵は、忠敬に測量術を学ぶかたわら、天文地理に造詣の深い司馬江漢をはじめ多くの人に会った。

その頃、ロシアの軍艦がまたも千島に現れたが、乱暴ははたらかず、逆に日本側がゴローニン艦長その他を捕らえたという。江戸中は騒然とし、伊能忠敬の家でも、その話で持ちきりであった。松前奉行村垣淡路守から事件の経過をつたえる急飛脚がつぎつぎに江戸へ到着し、その内容があきらかにされた。

その年の五月二十七日、国後島南端のケラムイ岬沖に、二隻の帆船があらわれた。近くのトマリには会所がおかれ、調役奈佐瀬左衛門が、南部藩兵らと警護にあたっていた。遠眼鏡でみると、あきらかに異国船であるので、狼煙をあげて海をへだてた根室につたえ、厳重に防備をかためた。六月四日の朝五ツ(八時)、七人のロシア人と通訳のラショワ島住民のアレクセイが一艘のボートで近づき、上陸した。その中に、艦長の海軍少佐ゴローニンがまじっていた。

ロシア艦は、沖に停泊していたが、六月七日、救出を断念したらしく、帆影を没した。会所では、南部藩兵六名その他二名によってゴローニンら八名を根室へ船で送り、陸路をたどって、七月二日に箱館に到着した。二日後に、吟味役大島栄次郎によって取調べがおこなわれた。通詞は、上原熊次郎であった。ゴローニンたちは、八月二十五日、箱館から松前へ移送され、獄舎に閉じ込められた。この事件は、刻々と江戸へ伝えられ、江戸の市中の大きな話題になっていた。林蔵は、エトロフ島のロシア艦の乱暴を直接眼にしただけに、それについての関心が深く、ゴローニンらを捕らえたという話に興奮した。

林蔵は、多くの人の来訪をうけ、樺太北部、東韃靼について質問され、それに答えることを繰返していた。伊能忠敬の紹介で、天文方の高橋作左衛門も知った。林蔵は、しばしば忠敬の家に足を向けていた。星の観測もし、経度についてはよくわからなかったが、緯度の測定法を身につけた。忠敬が、自分を並々ならぬ人物として扱ってくれているのに満足していた。

十月に入って間もなく、林蔵は、高橋重賢から松前に出発するようにという幕府の密命をうけた。四年前の文化四年に、エトロフ島でロシア艦の襲撃を体験した林蔵に、松前で捕らわれの身になっているゴローニンと接触させ、ロシア側の態度についてさぐらせようとしたのである。江戸出発は、十一月二十日頃と予定された。林蔵は、忠敬が九州へ出立する前に少しでも多く測量の知識を得たいと願い、訪れる回数も多くなった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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間宮林蔵一生幕府無役となる

宗谷では冬を控え最後の引揚げをする津軽藩兵を乗せた舟が出ることになっていて、林蔵(30歳)は、それに便乗し十一月二十七日に松前の港に入った。かれが樺太北端をきわめ、東韃靼まで足を踏み入れて帰着したという話は、たちまち奉行所はじめ松前の町の中にひろがった。松前に在住する者には、蝦夷北端の宗谷は、遠い僻地で、冬には水腫病で多くの者が死亡する恐ろしい地であった。まして樺太は、世界の果てとも言える場所で、その北端まで単身でおもむき、さらに渡海して異国である東韃靼にも足を踏み入れたという話は、かれらを驚かせるのに十分であった。吟味役高橋重賢の用人や出入りの者は、林蔵に畏敬に満ちた目をむけ「難儀なことでござりましたろう」とか、「お見事なお働きで・・・」などと声をかけてくる。林蔵は、あらためて自分の果した旅が異例のものであることを感じ、日を追うにつれて喜びと満足感が強くなるのを感じた。

文化七(1810)年の正月を迎え、林蔵(31歳)は、布団から離れて雑煮を祝った。炉のかたわらで酒をふくんでいると、前年の冬、トンナイ(真岡)で孤独な新年を迎えたことが夢のように感じられた。

林蔵は、体調も好転したので、旅のあいだ描きつづけた野帳をもとに、樺太と東韃靼の原図の整理に手をつけた。その頃、師の村上島之允の養子貞助が訪ねてきた。林蔵は、唖然とした。師の島之允が病死したのは、自分が樺太北端を見極めようとして白主を出発、北へと向っていた昨年八月十二日であった。弟子として師の死も知らずに過ごしてきたことが申訳ない気がした。

寒気が緩んだ頃、「東韃地方紀行」の口述筆記を終えた。林蔵は、その中に旅の間にえがいた絵を入れることにし、村上貞助に模写させた。貞助は画にも豊かな才能をもっていて、絵の出来栄えは見事であった。

野宿の折に睡眠をとった仮小屋、使用した舟、各地の風景。殊に東韃靼のデレンについては、二重の柵にかこまれた役所、役人の姿、諸種族の者が貢物を役人に贈呈する情景、林蔵が役人に饗応されている図など多くの絵が描かれた。さらに、樺太の地理、気候、住民の生活、風俗、漁猟、家屋、習慣などを詳細に述べ、それも貞助が筆記した。それを「北夷分界余話」と名付けた。

十月に入ると、村上貞助が江戸へむかった。林蔵も同道しようと思ったが、風邪をひきこみ旅に出ることはできなかった。翌月、林蔵は、ようやく松前から三厩まで渡海し、冬の奥州路をたどった。体調は好ましくなく、途中、旅宿で寝込むこともあった。城下町を過ぎる度に、自分が樺太奥地の調査という大役を果した話が、奥州一帯に大きな話題になっていることを感じた。

翌文化八(1811)年正月、林蔵(32歳)は江戸に着き、松前奉行所霊岸島会所におもむいた。そして、帰着の報告をし、調査結果の資料をなるべく早めにまとめて幕府に提出することを告げた。やがて、清書された「東韃地方紀行」と「北夷分界余話」が出来上がってきた。また、挿入される絵も、色が加えられ、見事に仕上がった。かれは、「東韃地方紀行」を三帖、「北夷分界余話」を十帖にして綴り、表紙に間宮林蔵口述、村上貞助編纂と書き記した。林蔵は、地図とともに「東韃地方紀行」「北夷分界余話」を、江戸に来ていた松前奉行荒尾但馬守を通じて幕府に提出した。

「老中牧野備前守様より、御沙汰があった。雇の職を免じ、松前奉行支配調役下役格に任ずるという御内意だ。禄高三十俵、三人扶持を御下賜くださる」但馬守は、淀みない口調で林蔵につたえた。病身のため永くのお暇を申出ていたが、そのことに対しても「一生無役」で、一定の仕事に拘束されることなく、自由に仕事を選べるように恩典を授かった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵は東韃靼より無事帰還

文化六(1809)年八月二日、間宮林蔵(30歳)は、ワーシを出発した。河口が近くなって前面に海がみえ、激浪が河に押し寄せてきていた。舟は上下に激しく揺れ、進むことが困難になり、五里(20キロメートル)ほどくだったヒロケーという地の海岸に着いた。ギリヤーク人の家が四、五戸ある侘しい地であった。ヒロケーは、アムール河の河口に位置していた。林蔵は、小高い地に立って海を眺めた。アムール河から流れ出た水は、南の方向へ三割、北へ七割の割合で注いでいるようであった。

北の海に視線をのばした。樺太の北端がみえ、その後方には果てしなくひろがる北の海がひらけていた。かれは、あらためて樺太が離島であり、東韃靼とは海峡をへだてて位置していることを確認した。西欧の地理学者たちは、世界でただ一つの謎の地域である樺太を、東韃靼の地つづきであると半島と断定している。日本でも、その説をいれて、樺太が半島であることは定説となっているが、林蔵が眼にしている樺太は、あきらかに島であり、東韃靼との間には海峡が横たわっている。それは、世界の地理学会にとって、定説をくつがえす驚くべき大発見であった。

林蔵は、北の方向を見つめた。樺太北部のナニオーの荒涼とした光景、ノテトの酋長コーニ、東韃靼の巨大な柵にかこまれたデレンの清国出張役所などが、胸によみがえる。それらが夢の中で見たもののように感じられたが、現実に眼で確かめたことだと思うと、あらためて生きているのが不思議な気がした。かれは、アイヌたちと野宿をかさね、ようやく樺太南部の地にある白主を前方にみることができた。九月十五日であった。樺太再見分のため白主を出発したのは前年(文化五年)の七月十七日で、一年二ヶ月ぶりに白主に帰りつくことができたのだ。

白主の会所は、越冬に備えた季節にあった。例年、秋には会所を閉鎖し、宗谷へ引揚げる定めになっていた。その習わしにしたがって、宗谷の警備にあたっていた多数の津軽藩兵や漁場の支配人、番人たちは、つぎつぎに船に分乗し、白主をはなれていた。が、その年は、役人、津軽藩士の少数が、初めての試みとして越冬することが決定していた。越冬するのは、役人の松田伝十郎をはじめ調役並吉見専三郎、同心吉野藤内、北川弥三郎、柴田角兵衛、御雇医師小林東鴻、津軽藩士の足軽小頭成田孫右衛門ほか足軽六名計十三名であった。

松田伝十郎は、第一回の樺太見分を終えた後、林蔵の提出した地図を手に、松前をへて江戸に赴いた。年が明け、二月二十一日、樺太詰を命じられて江戸を出発し、松前、宗谷をへて九春古丹に渡り、白主へ着任した。山丹人問題を解決するためであった。山丹人は、東韃靼から錦衣、綿織物、玉、煙管、扇などの中国製品を舟にのせて樺太へやってきて、ギリヤーク人などの樺太の住民の持つ狐、貂などの毛皮と交換することを繰返していた。かれらは、次第に南下して、アイヌの住む樺太南部に進出し、遂には樺太南端の白主にも姿をあらわすようになり、白主のアイヌたちと交易した。当時、樺太南部を支配していた松前藩は、山丹人がアイヌと交易する場所を白主一箇所にかぎったが、交易について関係することは避けていた。白主会所が松前藩の手から幕府の支配下におかれるようになると、幕府は、アイヌを保護するため山丹人とアイヌとの交易の改革を企て、松田伝十郎にそれを命じたのである。

文化六(1809)年九月二十八日朝、林蔵は、アイヌと番人の操る図合船で白主をはなれた。峰峯にはすでに雪の白い輝きが見えていた。岬の先端をまわると、舟の揺れは増した。かれは、遠ざかる樺太を見つめていた。やがて霧が流れ、樺太の陸影もその中に没し、夕刻宗谷に帰ってきた。

宗谷に着いた林蔵は、調役並の深山宇平太に迎え入れられた。かれが樺太北端まで行き、さらに東韃靼の地まで足を踏み入れたことは、深山らを驚かせ、そのことはたちまち宗谷で越冬する会所の者や津軽藩士らの間にひろがった。変貌し体も痩せこけた林蔵の姿を眼にして、それが事実であることを疑う者はいなかった。殊に、凍傷にかかって醜く変形した手の指に、その旅がどれほど苦難にみちたものであったかを察したようだった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵は東韃靼デレンに達す

林蔵は、樺太北部の清国とロシアとの勢力範囲を知るには、海を隔てた東韃靼に入り踏査するすることが必要なことに気付き、行って見たいと思ったが、それは身を亡ぼすことになりかねない危険な行為でもあった。幕府は、鎖国政策を固く守り続けて、かれが海を渡って東韃靼へ入ることは国法をおかすことであった。幕府は、キリスト教が国内にひろまることを恐れ、寛永十二(1635)年に鎖国令をした。外国との交流を一切絶ち、貿易も中国、オランダのみに制限し、両国の船の入港を長崎一港にとどめ、さらに貿易業務にたずさわる両国の者や船員も一定の区域にとじこめていた。日本人の海外渡航もかたく禁じ、荒天で遭難して異国に漂着し故国に帰り着いた船の乗組員たちも、海外渡航をおかした罪人として扱う。しかし、林蔵は、東韃靼へ入りたいという欲望は、つのるばかりであった。樺太調査を完全なものにするには、東韃靼におもむき、その実情を把握する必要がある。東韃靼に足を踏み入れることは、樺太調査という幕府の命令をより完璧なものにすることであり、特例として許してもらえるのではないか、とも考えた。

ノテトの酋長のコーニは、東韃靼の清国出張役所のもうけているデレンという地に貢物を持って行くというので、林蔵はそれに随行してゆくことを頼みこみ同行を許された。六月二十六日、貢物や交易品などを山丹舟に積み込みノテトを出船、東韃靼に赴いた。

清国は、アムール河流域と樺太北部の各種族に貢物をさし出すことを命じ、種族の者たちはそれにしたがって貢物を贈る習わしとなった。それらの貢物を受け取るのが、デレンにおかれた出張役所であった。集った種族の間で物々交換の市ももうけられていた。遠く朝鮮やロシアの国境付近からも来ていて、それぞれ持ち寄った品物を必要な品物と交換する。ノテトの酋長コーニも、清国政府からカーシンタ(郷長)の役職に任じられていて、貢物をおさめることと交易のために海を渡ってデレンの役所にくることを繰り返してきていたのだ。

樺太南部に姿を現わす山丹人の存在も、ようやく林蔵には理解することができた。アムール河下流地域にすむかれらは、海を渡って樺太南部にやってきて、アイヌのもつ獣皮と清国の商品を交換する。林蔵は、樺太の大半が清国、南の一部が日本のそれぞれの勢力圏であることを知った。幕府は、樺太北部にロシアの勢力が進出しているのではないかと予想していたが、その恐れがないことも確認できた。林蔵は、たとえ国法をおかしても東韃靼に入ってデレンの地を踏み、入貢、交易の状況を視察できたことは幸いだったと思った。幕府にとってほとんど知識をもたぬ樺太という離島の行政、経済が、かれの報告によってすべてが解明されることはあきらかであった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵、樺太最北端に到達

文化六(1809)年、間宮林蔵(30歳)はトンナイ(真岡)で越冬、年が明けた。かれは凍傷した不自由な手で矢立をにぎり、野帳を見ながら第一回探検で測地した樺太の地図を描いた。足を踏み入れなかった樺太東海岸の北知床と西海岸のラッカのそれぞれ以北は、点線で推定図をひいた。その地図とリョナイからトンナイまでの旅の途中に書いた書状を一包みにし、漁場の支配人に手渡した。春が訪れ宗谷との間に舟が往来するようになった折に、江戸の天文方高橋作左衛門のもとへ送ってくれるよう依頼した。林蔵は、正月二十九日、雇のアイヌたちに食料その他を背負わせてトンナイを出発した。

林蔵は、海をおおう氷のとけるのを待ちながらウショロにとどまっていた。やがて沖合いあるかに流氷が銀色に光るだけになり、気温も緩んできた。林蔵は、アイヌたちに二艘のチップを用意させ、食料、酒などを積ませてウショロをお出発した。その夜は途中で野宿し、翌日の夕刻、去年舟をあずけてあるリョナイに着き、すぐに酋長ウトニンの家に行った。あずけておいたポロチップは、道具類とともに蔵の中に保管されていて、村の男たちが舟を引いて海岸までおろしてくれた。

野宿をかさね、四月九日、リョナイから約六十五里(255キロメートル)北のノテトにたどり着いた。その地は、前年の第一回樺太調査の折りに、松田伝十郎とめぐり合うことができた地であった。ノテトには、ギリヤーク人が六十人とアイヌの男女二人が住んでいた。酋長のコーニとは顔見知りになっていた。二人の従者と通訳のアイヌの男をつれてきた、コーニは、対岸の清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格をあたえられていて、派手な布地に竜と花の模様をあしらった役人服を着ていた。

林蔵は、昨年はこの村の少し北にあるラッカまで行き、そこからは海をおおう海草に行手をはばまれてやむなく引返した。酋長のコーニに頼んでアイヌ語を話せるギリヤーク人の男を道案内兼通訳として雇入れた。準備もととのい、五月八日、ノテトを出発した。舟は、北に進みラッカに着いた。そこは前年の探検でたどりつくことができた最北端の地であった。前年は干潮時にあったていてはるか沖まで干潟になっていたが、幸いにも潮が満ちていて無事にラッカを通り過ぎ、北へ進むことができた。

林蔵は、胸をおどらせた。樺太北部の最も奥地へ入った日本人は松田伝十郎と林蔵だが、舟はさらに北方へ進んでいる。フランス人ラ・ペルーズ、イギリス人ブロートンも、むろんはるか南方で引返していて、探検家としては林蔵が最も北の海に舟を乗り入れたことになる。その夜は、海岸で野宿し、翌日の夕刻近くにユクタマーという地にたどり着いた。そこには、数戸のギリヤーク人の家が点在していた。ノテトから二十五里(98キロメートル)の位置で、アムール河の河口を正面からながめることができた。舟は北へ北へと進んでゆく。右手の陸岸は、樺太の最北端に属する地であった。その日の夕刻、林蔵は、ナニオーという地に着いた。ナニオーから北へ行くと、陸地は絶え、海だという。それはナニオーが樺太の最北端に位置していることを意味している。しかし、それだけで樺太を島だとは断定できない。その最北端の岬をまわって東海岸に出ることができた折に、初めて島であることを実証できる。

林蔵は、海に眼を向けると、ノテトを発してナニオーまでの二十七里三十五町半(110キロメートル)に及ぶ海の状態を思い起こした。ノテトを出発して暫らくの間は、潮の流れが南下し、それに逆らうように舟を進めた。が、アムール河の河口の沖をすぎると、潮流は北に流れるようになり、舟は流れに乗って進んだ。つまり、アムール河の河口から流れ出た水は二分して、一つは南へ、他は北へと流れているのだ。海流が北へ向っているということは、北方が半島などでさえぎられていず、広い海であることを示している。ギリヤーク人が、北方に行くと陸地が切れ、海が広がっているというが、潮流から考えてもそれが事実であることを知った。その日、小高い丘に登って北方の海をながめた。広い海が広がってイテ、ギリヤーク人の言う通り、樺太の北端に近い場所に立っていることを実感として感じた。林蔵は、潮流から推測し、樺太が島であると断定した。歓びが、胸に溢れた。ようやくたどり着くことができたナニオーで、樺太が島であることを確認できたことが嬉しくてならなかった。

林蔵は、樺太が島であることを確認し、幕府から命じられた役目を果たすことができたが、樺太がどの国の影響を強く受けているかを知りたかった。樺太の南部にはアイヌが住み、日本が会所をもうけてほぼ支配している形になっている。問題は北部で、清国の強い影響下にはあるが、領土とまでは至っていないようだった。また、ロシアの影響が及んでいるらしいとも言われているが、その形跡はない。この事情を、ノテトに留まって確かめたかった。かれは、従者のラロニとともに、ノテトの酋長コーニに暫らくこの地に逗留したいと申し込み酋長の家の裏手にある物置小屋に住むことが許された。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵は再び北樺太探査

宗谷には、昨年春来襲したロシア艦が再び来攻することを予想し、会津藩兵五百人が警護に当っていた。また、松前奉行所から奉行河尻肥後守、吟味役高橋重賢が出張し、さらに海上監視の専門家である長崎の遠見番の日高市郎太、別所新左衛門がはるばる長崎から招かれて、宗谷の遠見番所に勤務していた。長崎のオランダ通詞馬場為八郎も出張してきていた。林蔵は、あらためて日本とロシアの関係が極めて緊迫化していることを感じた。

林蔵は、松田とともに会所に帰着の報告をした。奉行河尻肥後守はただちに出頭を命じ、林蔵は、松田とともに報告書を手に奉行の宿所におもむいた。そこには河尻と高橋重賢が待っていた。松田伝十郎が調査結果を報告し、林蔵は、東海岸の北知床半島から引返し、西海岸に出て松田と合流しラッカまで至ったことを述べ、樺太が地つづきの半島でなくおそらく島であろうと報告した。吟味役の高橋は、江戸の天文方高橋作左衛門が、測地術を身に付けた林蔵が樺太奥地に入ったことを知り、その地域の謎がとければ世界地図の上で大壮挙になると書状を送ってきたことを口にした。

林蔵は、第一回の樺太調査による地図を作成した。それは東海岸の北知床半島までと西海岸のラッカまでの図で、里程表も別紙に書きとめた。また、それらの地の住民から聞いた樺太と対岸の東韃靼の地勢その他も書き記した。かれは、地図と報告書を宗谷に出張していた松前奉行河尻肥後守に提出した。それらは、松前をへて江戸へむかう松田伝十郎によって幕府に届けられることになっていた。

林蔵は、ラッカよりさらに北へ進み樺太最北端の再見分を松前奉行河尻肥後守より許され、準備を整えることに専念し、七月十三日、図合船に便乗して宗谷を出発し、その日のうちに樺太最南端の白主に着いた。

白主から北方にある漁場のトンナイ(真岡)で六人のアイヌを雇入れ、使用する舟は、チップ(小舟)よりも大きいポロチップを選んだ。八月三日、舟はトンナイを出発し、海岸沿いに北上した。前回に東海岸から山越えをしてたどりついた西海岸の久春内を過ぎ、海岸で野宿をかさねながら十二日後にリョナイ(千緒)に到着した。その夜は、仮小屋を作って野宿した。九月三日、トッショカウという地についた。アイヌたちは、激しい動揺をしめした。この地から北にアイヌは住まず、ギリヤーク人、オロッコ人の居住地帯になっていて山丹人もしばしば姿を現わす。その上、寒気が予想以上にきびしく、海が凍結すれば南へ帰ることもできなくなる。アイヌの訴えを聞いているうちに林蔵は、目的地は遠く、これ以上北進することは無謀だ、と思った。アイヌたちは喜び、舟を翌朝、南に向けた。舟は往路を引返し、九月十四日にリョナイに戻った。

引返しはしたが、林蔵は、樺太奥地の調査を断念する気にはなれなかった。奉行の河尻肥後守、吟味役高橋重賢に樺太行きを申出て出発したかぎり、あくまでも北へ向って進みたかった。どのような危険をおかしても樺太が半島か島かを自分の眼で確実に見定めたかった。すべては北上する時期を誤ったためで、思い切って第一歩からやり直す方が賢明だ、と判断した。かれは、アイヌたちを雇ったトンナイ(真岡)に引返すことを決意した。トンナイには、漁場の支配人、番人らもいて、その地で越冬し、来春、再び北上しよう、と思った。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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東韃靼の陸影をみつめ

間宮林蔵と松田伝十郎の役目は、樺太が一般に言われている通り半島であるのか、それとも定説をくつがえして島であるのかを確認することであった。もしも、半島であるとしたら、どの地点が樺太と清国領との国境であるかを知る必要があった。半島か島かを探るためには、樺太の西海岸を北上することが最も効果的であった。樺太と東韃靼との間に海峡があれば、島であることが確認できる。林蔵は、むろん西海岸を北へ向って進みたかったが、松田は、東西両海岸にわかれて北上しようと提案し、自らは西海岸を進む、と主張した。東海岸を行く林蔵が、もしも奥地でそれ以上舟を進ませることができなくなった場合には、陸地を横断し西海岸に出て、松田と会うことにしたらよい、と言う。林蔵は、上司である松田の言葉でもあるのでそれに従うことにした。

アイヌたちは舟を出し、五月二日には内淵(ナイブツ)まで北上した。内淵は、享和元(1801)年幕府に樺太調査を命じられた普請役中村小市郎が、最後に足を踏み入れた地であった。林蔵は、日本人が到達した樺太東海岸の北限の地を踏んだのである。五月六日に北上を開始し、日本人として初めてたどる地であった。舟はアイヌの村落のある海岸につくことを繰返しながら北に進み、十七日には、北知床岬のつけ根にあたる多来加(タライカ)湖畔にたどりついた。そこにはオロッコ人たちだけが住んでいてアイヌの姿はなく、樺太北部の東海岸がオロッコ人の居住地だという説を裏付けていた。林蔵は、北知床半島のシャックコタン(柵丹)に行き、そこからアイヌに舟を引かせて五町(545メートル)ほどの砂原を横断、東海岸に出た。海を眺めた林蔵は、潮の流れが驚くほど速く、チップ(アイヌの舟)で海に乗り出すことは危険で、樺太の最北端をまわり西海岸へ出ることなど不可能だと判断した。

松田伝十郎との約束では、林蔵がもしも舟で進むことができなかった折には、樺太の最も幅のせまい陸地を横切って西海岸に出て、松田と合流することになっていた。林蔵は、その時が来たことを知った。アイヌたちの意見を求めると、北上してきた途中に舟を着けた真縫(マアヌイ)から西海岸の久春内(クシュンナイ)との間が、樺太で最も幅のせまい箇所だという。林蔵は、真縫まで引返し、陸地を横切って西海岸に出ることを決意した。

久春内を出船してから三日後に、北方三十三里三町(約130キロメートル)の位置にあるショーヤにたどりついた。その地は、七年前の享和元(1801)年に小人目付高橋次太夫が幕府の命令を受けて調査に来た地であった。

林蔵は、松田の後を追ってさらに舟を北へ進ませ、モシリヤという海岸沿いの地についたが、松田伝十郎一行が図合船を残し、チップニ艘に乗りかえて北上したことを知った。その地から北へ進むには大きな図合船では不可能だ、と土地のアイヌから忠告されたからだという。

西海岸の久春内(クシュンナイ)を出発してから十四日目の六月二十日夕刻、ノテトに近づいた。林蔵の計測によると、久春内から直線距離で九十四里二十七町(372キロメートル)の地点であった。小舟の中央に林蔵が乗り、前後にアイヌが乗って櫂を操っていたが、前部に乗っていたアイヌが短い声をあげた。アイヌの口からシャモ(和人)という言葉がもれた。林蔵は、舟の進行方向に眼を向けた。海上に二艘のチップがみえ、それぞれの舟の中央に二人の男が座っている。頭髪は丁髷のようだった。測地家として視力の優れている林蔵は、小舟に乗っているのが松田伝十郎と番人の万四郎であることを知った。松田は気づかぬようだったが、その舟に乗っているアイヌがこちらに顔を向けた。アイヌが教えたらしく、松田が振向いた。二艘の舟が近づき、やがて林蔵の舟と並んだ。「お達者で・・・」林蔵が声をかけると、松田も懐かしそうにうなずいた。三艘の舟はノテトの村落のある浜に着いた。ノテトは、スメレンクルと呼ばれているギリヤーク人の村落で、近くにはオロッコ人も住んでいた。

林蔵と松田伝十郎がノテトにたどりついたことは、大きな意義があった。樺太が島か半島かを見極めるため西海岸を北上したフランス人ラ・ペルーズと、それにつづくイギリス人ブロートン一行は、ノテトに達することができず、引返している。つまり、かれら西欧の探検家よりも、林蔵たちはさらに北の地を踏んだのである。

林蔵は、清国領東韃靼の陸影をみつめた。ナッコ岬がはるかにみえ、その近くにアムール河らしい川の河口がかすかに望まれた。北方に視線を向けると、樺太と東韃靼との間の海はさらに広くなっていて、地つづきになっている様子はなさそうだった。松田伝十郎の言ったように樺太は東韃靼の半島ではなく離島らしい、と思った。

林蔵は松田とともにナッコ岬をはなれ、ノテトの村落に戻った。ノテトは、東韃靼への渡海する場所で、三十七、八歳のコーニというギリヤーク人が村落の酋長になっていた。かれは、竜の形を織り出した絹の衣服を着、二人の家来を連れて歩きまわっていたが、松田らには親切で魚を与えてくれたりしていた。ギリヤーク人は多数の犬を飼い、荷を運ばせるのに使っていた。六月二十六日、林蔵は、松田とともにノテトをはなれた。風向きに恵まれ、閏六月十八日には樺太最南端の白主に帰り着くことができた。林蔵がたどった距離は、百六十一里五町半(約633キロメートル)であった。白主に到着した林蔵は、二日後、松田伝十郎とともに宗谷海峡を渡り、蝦夷最北端の会所のある宗谷に戻った。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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間宮林蔵・松田伝十郎ら樺太探査に出帆

宗谷へ出発する林蔵に、万四郎という従者がついていくことになった。万四郎は、樺太南端の白主(しらぬし)で十九年間も番人をしていた男で、樺太方面の事情にも詳しく、かれを同行することは好都合であった。

宗谷には、樺太の地理にも詳しい調役並の最上徳内が会所に詰めていた。最上は、数学、天文を学んで天明五(1785)に幕府の蝦夷地調査に参加し、クナシリ島の地を踏み、さらに翌年には日本人として初めてエトロフ、ウルップ島にも渡った人物として知られていた。寛政元(1789)年にも蝦夷に渡り、その後再び千島のウルップ島に足を踏み入れ、さらに樺太の調査にも当った。寛政十(1798)年には、またも千島へ渡ったりしたが、上司と衝突することが多く、職を免ぜられた。しかし、蝦夷地に対する深い知識をもつ彼は、再び幕府に召出され、松前奉行支配調役並として宗谷に勤務していたのである。五十三歳になっていた最上徳内は、蝦夷地で十年間をすごし、その間にアイヌとなじみ、同じ食物をとり、衣服も身に着けていた。アイヌ語に精通していて、アイヌに日本語を教えていた。

文化五(1808)年四月十三日早朝、宗谷の浜には北樺太調査に船出する間宮林蔵(29歳)、松田伝十郎(40歳)を見送る会所の深山字平太、津軽藩兵の山崎半蔵たちの従者、そして、松田は見送りにきた雇人たちに、「困難な見分調査であり、死を覚悟している。もしも、樺太奥地で命を落とすか、異国船に捕われるかして、年を越しても帰って来ない場合には、今日の出帆の日を命日とするよう江戸で留守を守る妻に申し伝えるように・・・」ときびしい表情で言って、船は浜を離れ樺太に向った。

樺太の南部には、亜庭湾をかかえこむように東に中知床岬、西に能登呂岬が突き出ている。蝦夷北端の宗谷から最も近い位置にあるのは能登呂岬で、岬の近くの白主に会所が設けられ、蝦夷から樺太への渡り口になっていた。船は、十八里(71キロメートル)の海を無事に渡って、その日の夕刻には白主に到着した。林蔵にとって、初めて踏み入れた樺太の地であった。白主には、支配人、番人が詰め、アイヌの家も五戸あった。

翌日から、林蔵は、松田とともに樺太北部の情報を集めることに集中した。白主には、清国領のアムール河(黒竜江)下流地域に住む山丹人が、しばしば交易にきていた。かれらは、上質な布、装飾品、日用品などを持ってきて白主のアイヌのもつ獣皮と交換する。かれらの態度は横柄で、不当な商売をしてアイヌをおどし、その粗暴さに、アイヌたちは恐れおののいていた。当然、山丹人は、アムール河下流地域から樺太北部をつたわってやってくるので、その地方の知識をもっているはずだった。山丹人から樺太北部の地勢について何か聞いてはいないか、とアイヌたちに聞いてみたが、何も聞いて否という、林蔵たちは、やはり実地に足を踏み入れなくては地勢をさぐることは出来ないことを知った。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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幕府は「軽き者一両名」樺太へ派遣

奉行支配吟味役高橋重賢は、樺太調査に林蔵と誰を同行させるか思案した末、蝦夷北端の宗谷に勤務している調役下役松田伝十郎が適役だと考えた。松田は、明和六(1769)年、越後国(新潟県)の貧しい農家の子として生れた。幼名を幸太郎といった。たまたま村の近くの米山峠で幕府の改修工事がおこなわれ、かれも人夫として働いていたが、敏捷で誠実な働きぶりが監督をしていた幕吏の松田伝十郎の目にとまった。松田は幸太郎を連れて江戸にもどり、人物を見込んで養子とし、仁三郎と改名させた。幕府に召出され、昇進して小人目付になった。

寛政十一(1799)年正月、仁三郎三十歳の年、幕府は蝦夷地東部を松前藩から取り上げて直轄地にすると同時に、松平忠明を蝦夷地取締御用掛に任命し、蝦夷地の開拓を命じた。開発政策を推し進めるため、蝦夷地に常駐する役人が選抜されたが、松田仁三郎もその末席に加えられた。

江戸から千島方面に行くには、陸路をたどって下北半島へおもむき、アツケシ(厚岸)に渡り、それから船でネモロ(根室)をへてクナシリ(国後)島、エトロフ島へ行くのが筋道になっていた。御用掛は、千島への旅の日数を短縮するため、江戸とアツケシ間を船で直航することを企て、官船政徳丸(千四百石積)を用意した。が、江戸から下北半島までの航海はきわめて危険で、乗組員を募ったが、誰も応じない。その時、仁三郎は、すすんで志願し、御目付から一番槍にも等しいと賞讃された。

政徳丸は、寛政十一(1799)年三月二十四日、江戸を出帆したが、風波にさまたげられて、途中漂流同様の難航をつづけ、六月二十九日にようやくアツケシにたどりついた。この航海によって、江戸、アツケシ間の直航航路がひらかれ、千島方面の開発に大きな貢献をはたした。仁三郎は、蝦夷にとどまってアブタ(虻田)で冬を越し、翌年十一月に江戸にもどった。

三年後の享和三(1803)、箱館奉行支配調役下役になってエトロフ島におもむき、会所のあるシャナで越年した。エトロフ島で冬を越すことができた最初の日本人であった。翌年七月、交代して江戸に帰った。翌文化ニ(1805)年、養父が隠居したため家督を継ぎ、伝十郎を襲名、翌々年文化四(1807)、箱館奉行戸川安論の手付として箱館に向う途中、ロシア艦来襲を知った。箱館着後、蝦夷最北端の宗谷勤務を命じられ、冬の寒気の中で勤務に励んでいた。宗谷には、津軽藩兵二百名が警備のため越冬していたが、大半が水腫病におかされ、春までに多数の者が死亡した。その中で、松田伝十郎は、病気にかかることもなく勤務ができた。

伝十郎は幕吏の中でも最も蝦夷地の越冬経験の豊かな人物で、アイヌ語にも通じていた。それに、樺太行きの条件である「身分の軽き者」にも相当する調役下役であった。豊かな経験と見識をもつ松田と、強靭な精神と肉体に恵まれた上に測地術にも長じた林蔵との組合わせは、絶妙なものに思われた。吟味役高橋重賢は、林蔵の同行者として松田伝十郎を樺太に派遣したいという伺書を江戸へ送った。幕府もそれを適当と考え、許可する旨の返書が送られてきた。

高橋は、ただちに松田に樺太派遣を命ずる書状を送った。それは二月十六日に松田の勤務する宗谷に到着し、同時に松田は、調役下役から昇進して調役下役元締として八十俵三人扶持の禄を得、役金十両を支給されることになった。松田が同行することは、高橋重賢から林蔵にも伝えられた。単身で樺太奥地に行くと思いこんでいた林蔵は、蝦夷地に精通しているという松田と行を共にすることを喜んだ。林蔵は、七人扶持、役金十五両の雇で、むろん松田の下僚であった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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樺太(サハリン)は半島か島か…

中国で作られた図はヨーロッパに伝えられ、フランス王室の地図師ダンヴィルによって地図としてまとめられていた。それには、樺太を半島とし、その西方にサハリン島が描かれていて、それが権威のある地図として扱われていた。この図は、オランダを通じて長崎にもたらされ、林子平は天明五(1785)年に著した「三国通覧図説」で、樺太を東韃靼の地つづきである半島と断定し、老中松平定信も、通詞本木仁太夫が和訳した「阿蘭陀製全世界地図書」によって、樺太は半島であり、それを島らしいと憶測するのは誤りである、と書き記した。これによって、日本の有識者たちは、樺太半島説を信じ、さらに北方地域の最高の研究者である近藤重蔵も、その説を全面的に支持したことによってそれを疑う者はいなくなった。

幕府は、それを実地に確認するため享和元(1801)年に小人目付高橋次太夫、普請役中村小市郎を樺太に派遣した。かれらは南部を踏査したが、北部に入ることはできず、わずかに北部から交易にきた東韃靼の山丹人に砂の上に地図を描かせて北部の地勢をきいたが、樺太が半島か島かはわからなかった。

近藤重蔵は、高橋、中村両名の調査結果を考慮した上で、西欧で定説化されているように、樺太は東韃靼の大陸との地つづきである半島とし、それとは別にサハリンという島があると判断して「辺要分解図考」を著した。しかし、その説も憶測の域を出ず、依然として世界地図の上で唯一つの謎の地域とされていた。

西欧の地理学者は、この地域の解明に挑戦した。初めにいどんだのは、天明七(1787)年フランス人ドウ・ラ・ペルーズであった。探検船は黄海から日本海に入り、北上して樺太南部沖合に達し、左側に東韃靼大陸を望み、船を北へ進め海が浅くなり座礁の心配で船を反転させて引き返し、宗谷海峡をぬけてカムチャツカへ向かった。ラ・ペルーズの探検の結果を再確認するため、イギリス人のブロートンが、探検船に乗って調査に乗り出した。帰国後、文化元(1804)年「北部太平洋探検航海記」を発表、樺太が半島であると明記した。ラ・ペルーズ、ブロートンの探検によるサハリンと樺太が同一であるという説は日本にも伝えられ、樺太は半島であることを疑う者はいなくなっていた。

それらの説を最終的に確認しようとしたのは、ロシア人クルーゼンシュテルンであった。かれは、文化元(1804)年にロシア遣日使節レザノフを乗せて長崎に来航したナデシュダ号の船長であった。レザノフは、樺太探査をクルーゼンシュテルンに命じ、翌年ナデシュダ号を操船して樺太は、東韃靼大陸を流れるアムール川(黒竜江)河口の南で大陸と接続している半島という結論をくだし、その調査結果を「世界周航記」として発表した。

間宮林蔵には、半島である樺太がどのように東韃靼大陸とつながっているかを調査する役目が負わされたのである。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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間宮林蔵、樺太見分(調査)を命ず

文化五(1808)年、林蔵(29才)は箱館から松前に移されていた奉行所に行き、江戸から帰着したことを報告した。幕府は、前年の三月重要性を増す蝦夷地を松前藩にゆだねておくことに強い不安を感じ、蝦夷地すべてを松前藩から取り上げて幕府の直轄地とした。それにともなって、奉行所を蝦夷地の中心地である松前に移していた。

ロシア艦来攻直後、幕府は、ロシアとの武力紛争を避けるため、ロシア人がエトロフ島を占領したとしても、それを取り返そうと張り合ってはならぬ、とさとした。さらにロシア船が来航して、薪、水を求めた場合には、それを与えて穏便に帰らせるようにせよ、と、指令していた。が、林蔵が松前に到着した頃には、海岸警備の諸藩に対して、ロシア船が近づいた折には、捕らえ、または斬殺し、難破船の場合は乗組員を抑留して、その処置を幕府に仰ぐようにという強硬策に変っていた。

松前は、緊迫した空気につつまれていたが、正月らしい賑わいにつつまれていた。林蔵は、松前を通過する度に僻地の町とは思えぬ華やかさに驚きを感じていた。立ち並ぶ家々は構えがしっかりしていて、堅牢な土蔵がつらなっている。家の調度も贅をこらし、囲炉裏は灰の代りに小砂をしいていて、銅製の灰掻きで見事な筋がひかれている。茶棚も設けられていて、高価な茶器や菓子器がおかれていた。商店では輪島塗の椀、膳、重箱や瀬戸物、呉服、屏風などが売られ、大八車でさかんに荷を運び込んだり積み出したりしている。道を行き交う者たちも上質な衣服を身に着けている者が多く、女は化粧をし、中には絹の着物をつけている者もいた。町の風俗は、京都、江戸にも劣らぬ華美なものであった。正月を迎えていた町並みは、門松が立てられ、注連縄が軒に張られていた。子供たちは、雪すべりに興じていた。罪もはれ蝦夷にもどってきた林蔵には、松前の正月風景が殊のほか華やかなものに感じられた。エトロフ島からの敗走者という汚名が拭い去れ、町の者の蔑みにみちた視線をおそれて編笠もかぶることなく外出できるのが嬉しくてならなかった。

松前奉行支配吟味役の高橋重賢は、蝦夷地すべてが幕府の直轄地になったことに関連して松前の城を松前藩から引取るために、前年の八月十四日以来松前にとどまり、開所した奉行所で奉行を補佐して執務していたのである。間宮林蔵は、奉行所で吟味役高橋より、樺太見分(調査)の役を果たすことを命じられた。樺太南部の地勢はおおむねわっかているが、北部については全く見当もつかない。その方面にはロシア人が姿を見せているという説もあり、危険も多いが出来るだけ実情を調査してこいというものであった。

高橋重賢は、日本の地図作成の第一人者である伊能忠敬にも林蔵を樺太に派遣する伺書を幕府に提出したことを伝えた。樺太については、寛政四(1792)年に最上徳内、九年後享和元(1801)年に高橋次太夫がそれぞれ派遣されたが、その調査は南部にとどまった。北部の調査に林蔵が赴くことは、その地が世界地図の上で唯一解明されぬ地であるだけに、伊能にとっても大きな関心事にちがいなかった。

樺太南部は、最上徳内らによって調査され、概要はあきらかにされているが、北部は未知で、その実情をさぐることを求められている。幕府にとって、その地域の地勢を知ることは国防、経済のうえで重要視されていた。そして、天文方の高橋作左衛門や伊能忠敬らは、その地域の解明は、世界の地理学のうえだ画期的な意義をもつものであることを知っていた。その点については林蔵も師の村上島之允から伝えきいていた。

その頃、樺太については、日本、中国、ロシアさらに西欧の多方面からの探求がおこなわれていた。樺太の対岸にある沿海州を東韃靼として領有していた中国では、海をへだててサハリンという島があることを知っていた。その一方では、日本が樺太南部をあきらかにしていたので、サハリン島と樺太とは別々のものであると考えられ、樺太が島であるか、それとも東韃靼との地つづきである半島なのか全く見当もついていないときであった。

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間宮林蔵はシャナ事件でお咎めなし

文化四(1807)年、ロシア艦来襲に戦もせずにエトロフ島のシャナ会所を放棄して逃げ帰った者たちの処罰について、さまざまな憶測が交わされていた。敗走者の一人である林蔵は、町の者たちの蔑みにみちた視線にたえきれず、借りた家の中にとじこもって鬱々の日を過ごしていた。

林蔵は、シャナ会所を立ち退く時、あくまでも強硬な態度をつらぬけばよかったのに、と繰り返し思った。退却に反対し戸田亦大夫に、自分だけはふみとどまって戦おうとしたことを証文に書かせようとしたが、御雇医師久保田見達にいさめられた形で、証文を取ることもできなかった。もし、その証文を手にしていたらそれを証拠に自分の立場を明確にすることができ、奉行所も林蔵を咎めるどころか勇気をたたえ、お褒めの言葉もあたえてくれたにちがいなかった。

師の村上島之允が江戸から箱館に引き返してきたのは、ロシア艦がエトロフ島を襲ったという急報をうけた幕府が、若年寄堀田摂津守正敦(まさあつ)らを蝦夷地に急派させたが、蝦夷、千島の地勢その他に精通している村上も随行員の一人に加えられ、七月二十六日に箱館に着いていたのである。

幕府がシャナ会所の放棄を憤り、その場から退却した者を厳罰に処することは予想された。林蔵は箱館に戻った師の村上に会うと、背筋を伸ばし「敗走者の汚名をそそぐために、オロシャへ潜入し、かの地を徹底的に調べて復命しようと思います」と言った。師の村上は、林蔵が煩悶の余り、そのようなことを口にしたのだろう、と思った。林蔵は近々のうち江戸へ送られ、きびしい吟味をうけ、もしかすると苛酷な処罰を受けるかも知れない。それを予想している林蔵が、思い切って死を覚悟のうえでオロシャに潜入しようとするのも無理はなかった。

林蔵は編笠をかぶって家を出ると、奉行所に赴いき上申書を提出した。奉行支配吟味役の高橋重賢(通称三平)が在勤していた。かれは、その年、文化四(1807)年五月十日、奉行交代のため江戸を出立し、六月十二日に箱館に着いていた。高橋は江戸生まれの幕府役人で八年前の寛政十一(1799)年に蝦夷地取締御用掛に任命された松平信濃守忠明の随行員として蝦夷地に勤務して以来、蝦夷地の調査と行政に深くたずさわっていた。人なりは誠実で優れた頭脳を持ち判断力に群を抜いていた。高橋は、思いがけぬ内容の林蔵の上申書に興味をいだいた。ロシア艦が来襲して間もないのに、その本国に足を踏み入れ、さらに首都まで赴いて国情を徹底的に調査し、幕府に報告したいという、それは突拍子もない発想であったが、もしも、それが果たせたなら、どれほど日本の国益に利するかも知れなかった。

変わった男だ、と高橋は胸の中で呟いた。かれは、林蔵が六月二十一日の取調べの際、シャナ会所を立ち退く折に戸田亦大夫に証文を書かせようとしたが果たせなかった、と述べたことも知っていた。その話は、作り話だとうけとられたが、御雇医師久保田見達の証言によって事実であることがあきらかになり、役人たちの間で話題になっていた。その林蔵が、今度はプロシャの首都まで足を踏み入れたいと願い出ている。

十月十七日、江戸から飛脚が箱館奉行所についた。書状は幕府の老中から奉行宛のもので、エトロフ島シャナ会所から敗走した者を江戸へ送るようにという指令書であった。江戸での吟味のためであった。江戸へ送るように指名されたのは最高責任者の調役菊池惣内、調役下役関谷茂八郎、児玉嘉内、南部藩砲術師大村治五平、間宮林蔵ら多数であった。奉行所から出頭命令を受けた林蔵は危惧していた通り江戸へ送られることを知り失望した。

文化四(1807)年、エトロフ島のロシア艦来襲は、大村治五郎をはじめ多くの者の運命を狂わせたが、同時に幕府の蝦夷地への防備を一層強化させることにもなった。蝦夷地警護の命をうけた津軽藩も、前年の文化三年に派兵された藩兵は二百五十八名で越冬者はなかったが、文化四年には千二名が派遣され越冬者も六百三名の多きに及んが越冬者のうち四十三名が水腫病で死亡し、さらに翌五年には百十九名が命を失った。

ロシア艦来襲シャナ事件は、各方面に大きな影響をあたえたが、その中で間宮林蔵はお咎めをうけることなく、唯一人、再び蝦夷地の勤務を命じられたのである。林蔵は、健脚をいかして早くも年が明けた頃には、津軽海峡を渡って蝦夷の地を踏んでいた。

『間宮林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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幕府はロシア交易を拒否

レザノフの持ってきた幕府の信牌は、入港の際長崎奉行が取りあげ、また政府代表に直接手渡すためのアレクサンドル一世の親書の日本語訳も転写した。一方、役人や通訳は、ひんぱんにナデジダ号を訪ねて津太夫ら漂流民を訊問し、また使節団の目的、ロシアとその植民地の分布、ナデジダ号の航路、ロシアの産業、欧州とカムチャッカからロシア船が運んでくることのできるロシア商品などについて質問し、その返事を書き留めていた。

ナデジダ号の航海は、文化元(1803)八月にカムチャッカを出航してからすでに長期にわたり、乗組員は陸上での休息を強く望んでいた。使節のレザノフも風邪をひいて苦しんだ。かれらはたびたび入港と上陸を日本側に要求したため、長崎奉行は使節の療養の名目で上陸を許した。オランダ商館のある出島の対岸で、三方を湾に囲まれた梅ヶ崎に使節と随員の家を建てた。しかし高さ三メートルの竹矢来を二重にめぐらし、海面からも、オランダ商館のある出島からも厳重に遮断した。

十二月五日、鍋島藩船は多くの小舟を従えて、レザノフと随員を上陸させた。その後の取扱いはきわめて丁重であったが、文字通り軟禁であった。レザノフは対日通商交渉を成功させるため、あらゆる忍耐に徹する覚悟で日本にきたのである。

レザノフは、特に日本においては厳しい規律を守り、『謙虚かつへりくだった態度により、かの人民の愛情を得ることを可能にして、同時に日本人の心情にロシア帝国の尊厳にふさわしき印象を抱かせ得る』であろうから、日本人には慇懃に接し、ロシア人の尊厳に傷をつけることなく日本の礼儀作法を守り、どれほど奇妙に感じられようとも日本の慣習をあざけることはせず、『彼らのたとえわずかな不満のきっかけとなるべきようなことはすべて分別と慎重さをもって避け』公然と礼拝をせず、宗教用品も見せず、すでに作成された規定を守って日本人の質問に対する返事で不一致を来たさぬこと、陸上のスキャンダルで罪のあるものは日本側司直の手に引渡すことなど水夫たちに申渡すようクルゼンシュテルン艦長に言った』 涙ぐましいレザノフの忍耐と努力に対する江戸幕府の回答は、まったくかれの期待に反するものであった。

江戸幕府老中の協議の結果を携えた目付遠山金四郎景晋(かげみち)は、諭書(ゆしょ)を携えて文化ニ(1805)年二月二十八日長崎に到着、さっそく長崎奉行肥田豊後守、成瀬因幡守と協議のうえ、三月六、七日に使節レザノフを引見することになった。第一日は儀礼的挨拶に終り、第二日目は、江戸から届いた「露西亜国への御教諭書」を、長崎奉行肥田豊後守がレザノフ使節に読み聞かせた。その内容はわが国の対外事情を詳しく述べたうえ、「再び来る事を費す事なかれ。速に帰帆すべし」であった。その趣旨は通訳を通して直ちにレザノフに伝えられた。

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幕府は択捉島の開拓す

寛政十一(1799)の新年をエトモで迎え、有珠へ移って逗留していた近藤重蔵のもとへ江戸から帰府命令が届いた。直ちに有珠を出立した重蔵は、二月二十六日江戸に到着した。すでに幕府は、東蝦夷地ウラカワ(浦河町荻伏)以東の七カ年間上知を決定し、異国境取締りの御用を目付羽太正養(はぶとまさやす)、大河内政寿ら五人に命じていた。そして三月十日、これに従う官吏として近藤重蔵、最上徳内らを含む約七十名が任命され、重蔵は普請役元締山田鯉兵衛とともに「択捉島掛り」を命じられた。(羽太正養『休明光記』)

つづく三月十五日に勘定役に任命され栄進を大いに喜んだ重蔵は、在宅わずか二十三日にして再び江戸を離れた。鯉兵衛とともに択捉島を目指す重蔵は、厚岸でたまたま寄港した高田屋嘉兵衛と出会い、ともに国後島の安渡移矢まで行った。しかし風雨と霧にはばまれて択捉島渡海の見通しが立たない重蔵は調査を高田屋嘉兵衛に託し、この年は、重蔵は様似で、鯉兵衛は勇払で、それぞれ越冬した。

翌寛政十二(1800)年三月、手船辰悦丸(1500石積)に乗った高田屋嘉兵衛は、図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して様似に入港した。重蔵は鯉兵衛とともにこれに乗って直ちに出航し、国後島を経て択捉島の丹根萌に上陸した。

ここで重蔵は、高田屋嘉兵衛に命じて十七か場所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して七郷と二十五村の名称を定めた。択捉島開拓のことに一段落をつけた重蔵は、十二月に江戸に帰ったが、翌享和元年(1801)は二月から十一月まで、つづく享和ニ年(1802)は四月から十二月まで、それぞれ択捉島へ渡って異国境取締りの御用を勤めた。

享和三(1803)年正月二十五日、近藤重蔵は小普請奉行配下の小普請方への転任を命ぜられたが、十二月には「御目見え以上」の格式を与えられ、以後、将軍への御目通りが許されることとなった。

それから四年後の文化四(1807)年、ロシア船による樺太襲撃の報告、ついで択捉島襲撃の報告を受けた幕府は、六月六日、重蔵に対して蝦夷地御用の出張を命じた。箱館から西蝦夷地の海岸を北上し宗谷(稚内市)まで行った重蔵は、樺太のアイヌを召集して事情を取調べ、帰途、天塩川と石狩川を巡歴して十二月八日に帰府した。そして十五日には将軍家斉(いえなり)の御目通りを得て特例の褒詞を賜り、ついで蝦夷地の将来警衛のことについての御下問があった。

これに対して重蔵は、総蝦夷地の中央に要害を立て四方へ道路を開くこと、要害の場所としては石狩川筋カバト山または浜通りタカシマ・ヲタルナイの奥またはイシカリサツポロの西テンゴ山の辺りが適当と考えること、国土経営の基本は穀物の生産と道路の開設でこの二つは第一になすべき務めであることなどを述べ、さらに道路について、石狩川筋などの内陸に大道を開設し、八、九里ごと薪水の良い所に旅宿を設け、おいおい四方の海岸まで道路を開けば、三年を出ずして道路は四通八達する、などとする「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」を提出した。

翌文化五(1808)二月三十日、近藤重蔵は栄転して書物奉行となり、三月十六日には先の西蝦夷地出張の褒美として金一枚を拝領した。書物奉行の役目は江戸城中紅葉山文庫の管理であるが、近藤重蔵は日夜文庫の図書を閲覧し、在職した十一年の間に膨大な数の著書を残した。

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間宮林蔵エトロフへ渡る

文化ニ(1805)年、林蔵(26歳)は箱館奉行所の命により、天文地理御用掛としてシツナイ(静内)に赴き、そこを根拠地として太平洋沿岸の測地と地図作成を手がけた。その地で、幕府の御雇医師久保田見達を知った。久保田は、備中松山藩の藩士であったが、武家をきらって医家になったという変わった経歴をもつ男で、武術に長じていた。医家としての経験も知識も豊かで、開業すれば不自由のない生活をすることができるのに、御雇医師として、しかもほとんどの者が赴任することを嫌う蝦夷での勤務を希望し、箱館からさらに奥地のシャマニ(様似)に来て勤務していたが、シツナイに発病した者が出たので往診に来ていたのである。

役人たちや警護の藩兵たちは、蝦夷地への赴任を極端にきらう傾向が強い。蝦夷は、この世の果てに似た遠隔の地であり、死地でもある。冬の厳しい寒気と粗末な住居と食物に命を落とす者も多い。そのような地に、すすんで入ってきている久保田に、林蔵は自分を見るような思いで深い親密感をいだいた。

それから間もなく、林蔵に新たな幕命が伝えられた。クナシリ島をへてエトロフ島シャナ会所に赴き、海岸線の地図を作成するとともに新しく道路を開くようにという仕事であった。林蔵にとって、それは望むところであった。当然、越冬はしなければならず厳しい生活を余儀なくされるが、アイヌの生活知識を身につけたかれには、冬を越す自信があった。

林蔵は、ただちに舟でシツナイをはなれ、ネモロ(根室)に赴き、クナシリ島へ向かった。遠ざかる蝦夷地を眺めながら、いよいよ北辺の地に足を踏み入れることに胸をおどらせた。

クナシリ島へ渡海した林蔵は、西海岸の半分を測地して原図を作り、翌文化三(1806)年、エトロフ島へ渡り、会所のあるシャナに着任した。そこには、意外にも御雇医師久保田見達がすでに赴任していた。林蔵(27歳)は、シャナに腰を据えて海岸線を測量し、新道開設も指揮していたが、その折にロシア艦の来襲(シャナ事件)騒ぎにまきこまれたのである。

『間宮林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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間宮林蔵復職す

享和三(1803)年を迎え、林蔵は二十四歳になった。体調は食生活を改めたことが効を奏したらしく、足のむくみが日を追って薄れ、顔の血色もよくなった。歩行も容易になり、体に自信を持つことができるようになった。

林蔵は、商家の主人が云うとおり、水腫病を避けるためには食べ物はじめアイヌの生活そのものに従うべきで、それが、蝦夷地で生き抜く唯一の心掛けだと、思った。戸外に出るとアイヌのチセ(家)を訪れては、かれらの生活について熱心に観察するようになった。そして彼らの生活様式を知るためアイヌ語の通訳である蝦夷通詞のもとに通って、家庭内のしきたりを始め狩猟、漁猟、食べ物、衣服、家屋の構造、信仰や言葉等々学んだ。

体も達者になった林蔵は、師の村上島之允の勧めもあり、奉行所に復職を願いを出していたが、測地ということが幕府の急務であり人材が不足しているか、重宝がられお許しがでて、箱館奉行所では蝦夷地御用雇に任命することが申渡された。一年間の手当金として十五両が支給されることも告げられた。林蔵は測地術という道をえらんだことは幸いだった、と思い浮き立つ心で奉行所を退出した。

年が明け、村上島之允は、舟造り、衣服、家屋の構造と建築方法、更に懲罰などの絵に解説を加え、林蔵も自分の得ている知識を述べて補筆したりした。これは後に「蝦夷生計図説」として、アイヌの風俗、生活を紹介した傑作と称されている。

間宮林蔵(25歳)は、村上の助手として測地の仕事に従事していたが、翌文化ニ(1805)年八月、村上島之允が江戸へ出発したので、一人で仕事をつづけることになった。

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林蔵箱館にて伊能忠敬との出逢い

安政十二(1800)年、間宮林蔵(21歳)は、蝦夷地箱館にて一人の優れた人物と接する機会を得た。伊能忠敬であった。

伊能忠敬は、延享二(1745)年上総国(千葉県)小関村に生まれ、幼時から算術に興味をもち、18歳の時に江戸に出て平山左忠次の名で昌平坂の学問所に入り学んだ。その年、酒造業を営む伊能家の養子になり、やがて天文学への関心を深めるようになった。伊能家は名主であったので、村の田畑の所在、境界などを知る必要から独自の測地術を実地に応用した。50歳で家督をゆずった忠敬は、専門に測地術を学ぶことを志し、江戸に出て幕府天文方高橋至時(よしとき)の門に入り、たちまち頭角をあらわした。当時、蝦夷地の地図はすこぶる粗末なもので、実用には程遠いものであった。前年、幕府は東蝦夷地を直轄地としていたが、高橋至時は、その地を調査して地図を作成すべきだと考え、伊能忠敬にすすめて幕府に願書を提出させた。幕府もその必要性を認めていたのでただちに許可したが、それに要する調査費を支出することを渋った。伊能は費用の大半を自分で出すことを申出で、四月十九日に門弟三人、下男二人をしたがえて江戸を出立し、途中、測量をしながら奥州街道を北へ進んだ。そして、津軽海峡をわたり、箱館、室蘭、釧路、厚岸をへて西別(根室支庁別海町)に達し、九月十一日に箱館へもどった。

林蔵は、師の村上島之允を訪ねてきた伊能忠敬に会ったのである。五十歳で隠居後、測量術学ぶことに専念し、五十五歳という年齢ではるばる蝦夷地にやってきて測地をした伊能忠敬の老いを知らぬ精力と情熱に驚嘆した。さらに、伊能の測量術は、師の村上よりも進んだもので、東蝦夷地の測地も、きわめて高度な質のものであることも知った。

普請方に任じられた林蔵は、村上とともに植林の仕事に専念していた。この年、納戸頭取格戸川安論が、西別川の塩鮭を初めて将軍に献上し、話題になった。

元号が、享和に改まった。林蔵は、その冬も寒気と野菜不足による足のむくみに悩まされた。春の気配が濃くなっても体調は回復しなかった。師の村上は、四月幕府の命を受けて蝦夷地全域にわたる測地に出発したが、林蔵はそれに同行することができなかった。

享和ニ(1802)年、幕府は羽太正養をクナシリ島、普請役中村小市郎らを樺太へ派遣し、また支配勘定格富山元十郎をエトロフ島からウルップ島に渡らせて、天長地久大日本属島の標柱を建てさせた。その年の冬も、林蔵は、半病人のようになり、外に出ることもできなかった。林蔵は、失望した。蝦夷地には強い興味をもっているが、冬には必ず病気になるようでは留まることもできない。頑健で病気もしたことがなかったかれは、体質が寒冷の地には合わぬようだ、と思った。夏を迎えても、体調が芳しくなかった。かれは越冬する自信がなく、勤務地の一ノ渡を去り、箱館にもどって商家の一間を借りた。そして、奉行所に赴くと、病状を説明し普請役雇の職を辞した。

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間宮林蔵始めて蝦夷地に渡る

寛政十(1798)年、林蔵は19歳になった。師匠の村上島之允は幕府から奥羽地方の宿場から宿場への駅路図を作成する仕事を命じられた。かれは、林蔵をともなって江戸を発った。まず、野州(栃木県)の奈須(那須)と奥州白河の境から測地にかかり、福島、仙台、一関、水沢、盛岡、一戸、野辺地とたどった。さらに陸奥湾に面した津軽半島、下北半島のそれぞれの一部を測地し、駅路図を作成した。村上島之允は、林蔵とともに江戸へもどり、奥羽地方の宿場の地図を作成し、「陸奥州駅路図」として幕府に提出した。

翌寛政十一(1799)年、村上島之允は幕府より蝦夷地(北海道)の地理調査を命じられた。

蝦夷地は、松前藩が支配していたが、その地の重要性が急速に増しているにもかかわらず政策が積極性を欠いていることに苛立った幕府は、直轄領にすることを決意し、東部をまず幕府地とした。そして、寛政十年十二月下旬、蝦夷地に強い関心を寄せる書院番頭松平信濃守忠明を筆頭に、五名の者を蝦夷地取締御用掛に任じた。その任務は、松前藩の政策に苦しみ反感をいだくアイヌと協調することを第一義として蝦夷地の安泰をはかり、産業をさかんにし、道路をひらき、外国に対する防備には南部、津軽両藩の兵力をあてることであった。それらの政策を推し進めるためには、蝦夷地に常駐する者が必要で、頑健な体と強い意志力をもつ者が選ばれた。その中に、村上島之允も加えられたのである。

間宮林蔵(20才)は、師匠村上の従者として寛政十一(1799)年三月二十日に松平信濃守一行にしたがって江戸を出発し、生れて初めて津軽海峡をわたり、四月九日に松前に到着しました。

村上島之允は、前年の四月、近藤重蔵らにしたがって最上徳内らとともに東部蝦夷地の調査隊に加わって、クナシリ(国後)島、エトロフ(択捉)にも渡って調査行をしていた。

村上島之允は、蝦夷地勤務を命じられ、林蔵もそれに従い蝦夷地にとどまることになった。村上に与えられた任務は、植林であった。箱館付近の樹木は伐採され禿山になっているところが多く、そこに苗木を植えることを命じられたのである。

林蔵は、師匠の村上に従って箱館北方五里(20キロメートル)余にある一ノ渡で、杉、檜、楮の植林に従事した。そのかたわら農耕を知らぬアイヌに、畑を耕し種を蒔く方法を教えた。

八月、林蔵は奉行所に呼び出され、役人として勤務に励むよう告げられた。職名は主として土木の仕事をする普請役で、その下級者である雇の位置を与えられた。

『間宮林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より参考

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間宮林蔵少年筑波から江戸へ

間宮林蔵は、安永九(1780)年常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市旧伊奈町)の農家の子として生まれました。祖先は、小田原北条氏の家臣間宮康俊の六男隼人で、康俊が秀吉の小田原攻めの折に討死後、追放されて上平柳村に落ちのび住み着いたといわれている。

利発な子と言われ、八才になると村の専称寺にある寺小屋に通いはじめる。一人っ子であったので、両親は林蔵の好むままに読み、書き、そろばんを学べさせたのである。

少年時代に、強い興味をしめしたのは小貝川の堰(せき)とめ、堰切りの工事であった。それは、小貝川の水を灌漑用水として、下総国相馬郡の中部にある三十三ヵ村の二万石におよぶ水田に水をおくる施設で、寛永八(1631)年に関東郡代伊奈半十郎が創設したものであった。

毎年春の彼岸になると堰をとめて小貝川の水を貯え、土用あけの十日目に堰をひらいて、水を水田に放つのである。その例年くり返される堰とめと堰切りを村の者たちが手伝ったが、林蔵は、その作業が面白く、終日堰の傍に立って熱心に見守っていた。作業は、普請掛の役人の指図によってすすめられていたが、林蔵はすすんで雑用を手伝い、役人の使い走りを喜んで引受けた。毎年行われる作業なので、林蔵は、普請掛の役人下条吉之助に頭の回転の早い子として知られるようになった。

堰の作業をみているうちに、林蔵は土木工事というものに強く魅せられるようになった。頭を働かせ工夫することによって、自然の力を人々の生活を豊かにさせるのに利用できることが興味深かった。水が張られ稲穂が揺れる水田を眼にする度に、それが堰工事によるものだと思うと、人間の智慧の深さに感嘆した。

寛政四(1792)年、林蔵が13才のとき筑波山に登り立身出世を祈願した年の春も、例年のように堰とめ工事がおこなわれたが、現場に袴をはいた肩幅のひろい役人らしい武士が姿をみせた。かれは、普請掛の役人下条吉之助の話を聞いて小貝川の岸を歩きまわったりしていた。かれは、いったん去ったが、土用あけ十日目の堰切りの日に再び姿を現わし、堰が切られ貯えられた水が勢いよく流れてゆくのを見守っていた。その日、林蔵はかれに声をかけられ、下僕にならぬか、と言われた。林蔵は思いがけぬ言葉に眼をみはった。

声をかけた役人は、宝暦十(1760)年、伊勢国(三重県)宇治山田に生れた普請役雇の村上島之允で、天明八(1788)年に老中松平定信に見出され、幕府の命令を受けて地理調査のため関東諸国を歩きまわっていた。かれは、堰工事の役人下条吉之助から、林蔵が利発で、しかも土木工事に興味をいだき、工事の方法についても幼いながら思わぬ指摘をすることを聞き出し、使い走りとして雇おうと思ったのである。林蔵は、役人である村上のもとで働けることに興奮し、両親を説得して許しを得、村上島之允について江戸へ向かいました。

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