« 高田屋嘉兵衛・北洋の開拓 | トップページ | ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛 »

箱館の高田屋本陣

高田屋嘉兵衛は官許を得て恵比須町地先に自費による埋め立てを行って自家用地とした。海岸の一部であった地蔵町地先を埋め立て、工楽松衛門の手を借りて築港工事を行うとともに、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ官船はじめ多くの船を建造する巨大な造船所もつくった。その後、大町に新たな土地の払い下げを受け間口七間四尺、奥行き二十四間三尺の店を新築しました。「高田屋本陣」と呼ばれる豪邸がそれである。高田屋の土地は三町にかけて五万坪におよび、倉庫は全部で四十八戸前後に及んだという。

文化三(1806)年、高田屋嘉兵衛は蝦夷地産物売捌方を命じられて、幕府の蝦夷地経営に深くかかわるようになった。取り扱う商品の品質管理を厳密に行った為、山高印の商品は絶大の信用を得ていた。

また嘉兵衛は箱館の街づくりにも尽力した。文化三(1806)年、箱館が大火で街の大半を焼失したとき、高田屋は被災者の救済事業と復興事業を率先しておこなっていった。摂津の池田から松、杉などを取り寄せて箱館山へ移植して木材を使う造船業者としての社会的責任を果たした。故郷の淡路や兵庫からハマグリ、シジミ、鯉や鮒などを運んできて海岸や池沼などで養殖しました。箱館奉行所の計画に基づいて大坂、淡路などから農民を移住させ耕地を開墾させました。陸上輸送を円滑にするため幹線道路の松前街道を自前で改修しました。一代で財を築いた嘉兵衛ですが、それに溺れてしまうことなく商売で得た富によって漁場や箱館の道路の改修や開墾、植林、養殖など基盤整備の功労者であった。

一方、商売の廻船事業の方も箱館の他、大坂・江戸にも店を開いて名実ともに全国ネットワークをつくりあげた。「御用」の官用提灯を掲げた山高印の高田屋船は日本近海すべての海を往来した。

|

« 高田屋嘉兵衛・北洋の開拓 | トップページ | ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/304058/8028159

この記事へのトラックバック一覧です: 箱館の高田屋本陣:

« 高田屋嘉兵衛・北洋の開拓 | トップページ | ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛 »