日本を愛したカウボーイ、エドウィン・ダン
エドウィン・ダンが完成させた『真駒内用水路』(~明治12年完成)は、真駒内川から取水され、精進川に注ぐ約4kmに及ぶ灌漑用水で、家畜の飲料水・農業用水・水車などにも利用され、後には広く、平岸、豊平、白石など広域に用水を供給したきた歴史をもっています。
明治9年(1876年)7月31日、マサチューセッツ州立農科大学学長ウィルアム・S・クラーク(当時50才)が、教え子のウィリアム・ホイーラー、ディビット・ベンハローとともに札幌着任。8月14日、札幌農学校開校となります。これに伴い札幌官園の大半が農学校の農場となったこともあり、エドウィン・ダンも協力して、明治10年(1877年)我が国最初の模範家畜房(モデルバーン)を建築しました。これは、今日も北大校内に、重要文化財として保存されています。
明治10年(1877年)ころには、真駒内の牛舎には牛107頭、馬は農耕用・愛馬用あわせて10数頭、豚も40頭くらいいました。当時のエドウィン・ダンは、本府近くの虻田通り(現在の中央区北4西2)の官舎に妻ツル・長女ヘレン(明治10年生れ)と住み、毎日真駒内牧牛場に通っていました。
明治11年(1878年)、エドウィン・ダンの提言により新冠牧馬場が整備され、馬産王国北海道の基礎ができたのでした。馬の改良と増殖が進められ、開拓使が米国農法を模範として、馬を使用する農機具の導入を図ったこともあり、馬による大型機械が普及して、北海道の大規模農業の発展に大きく貢献しました。また、ビール製造用の大麦・小麦・亜麻の栽培、暗渠排水による土地改良など、エドウィン・ダンの指導によるところが大きく、また、バター、チーズの製造、ハム、ソーセージの加工、ミルクなどの普及もここからはじまりました。
明治15年(1882年)1月、開拓使の廃止により真駒内牧牛場は農商務省の所管となりますが、この年、札幌農学校2期生の「町村金弥」(1859-1940)が真駒内牧牛場に勤務して、短期間でありましたが、エドウィン・ダンの直接指導を受けました。エドウィン・ダンは、この年12月、6年半にわたる北海道滞在に多くの業績を残して、家族と一緒に東京に移りました。その後エドウィン・ダンは、明治16年(1883年)長年にわたる北海道農業・畜産指導の功績により勲五等旭日双光章を受賞しています。
米国オハイオ州に一時帰国しますが、明治17年(1884年)、駐日米国公使館の二等書記官として再来日、明治30年(1897年)まで、外交官として勤務。明治33年(1900年)石油採掘事業を起し、大正元年(1912年)三菱会社勤務。昭和6年(1931年)5月15日、東京代々木の自宅で永眠しました。(享年83歳でした)
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