« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

日本を愛したカウボーイ、エドウィン・ダン

エドウィン・ダンが完成させた『真駒内用水路』(~明治12年完成)は、真駒内川から取水され、精進川に注ぐ約4kmに及ぶ灌漑用水で、家畜の飲料水・農業用水・水車などにも利用され、後には広く、平岸、豊平、白石など広域に用水を供給したきた歴史をもっています。

明治9年(1876年)7月31日、マサチューセッツ州立農科大学学長ウィルアム・S・クラーク(当時50才)が、教え子のウィリアム・ホイーラー、ディビット・ベンハローとともに札幌着任。8月14日、札幌農学校開校となります。これに伴い札幌官園の大半が農学校の農場となったこともあり、エドウィン・ダンも協力して、明治10年(1877年)我が国最初の模範家畜房(モデルバーン)を建築しました。これは、今日も北大校内に、重要文化財として保存されています。

明治10年(1877年)ころには、真駒内の牛舎には牛107頭、馬は農耕用・愛馬用あわせて10数頭、豚も40頭くらいいました。当時のエドウィン・ダンは、本府近くの虻田通り(現在の中央区北4西2)の官舎に妻ツル・長女ヘレン(明治10年生れ)と住み、毎日真駒内牧牛場に通っていました。

明治11年(1878年)、エドウィン・ダンの提言により新冠牧馬場が整備され、馬産王国北海道の基礎ができたのでした。馬の改良と増殖が進められ、開拓使が米国農法を模範として、馬を使用する農機具の導入を図ったこともあり、馬による大型機械が普及して、北海道の大規模農業の発展に大きく貢献しました。また、ビール製造用の大麦・小麦・亜麻の栽培、暗渠排水による土地改良など、エドウィン・ダンの指導によるところが大きく、また、バター、チーズの製造、ハム、ソーセージの加工、ミルクなどの普及もここからはじまりました。

明治15年(1882年)1月、開拓使の廃止により真駒内牧牛場は農商務省の所管となりますが、この年、札幌農学校2期生の「町村金弥」(1859-1940)が真駒内牧牛場に勤務して、短期間でありましたが、エドウィン・ダンの直接指導を受けました。エドウィン・ダンは、この年12月、6年半にわたる北海道滞在に多くの業績を残して、家族と一緒に東京に移りました。その後エドウィン・ダンは、明治16年(1883年)長年にわたる北海道農業・畜産指導の功績により勲五等旭日双光章を受賞しています。

米国オハイオ州に一時帰国しますが、明治17年(1884年)、駐日米国公使館の二等書記官として再来日、明治30年(1897年)まで、外交官として勤務。明治33年(1900年)石油採掘事業を起し、大正元年(1912年)三菱会社勤務。昭和6年(1931年)5月15日、東京代々木の自宅で永眠しました。(享年83歳でした)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

真駒内を拓いたエドウィン・ダンの牧牛場

明治2年(1869年)7月、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、明治3年(1870年)5月、開拓次官となった黒田清隆は、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求めて、マサチューセッツ州出身の米国農務長官ホーレス・ケプロン(1804-1885、当時67才)を開拓使顧問として招聘しました。明治4年(1871年)7月来日したケプロンの指導で、早速、東京の青山・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作・家畜の飼育や農業技術者の養成が行われました。また、ケプロンは3回にわたり道内各地の視察・調査に来道し、詳細な「ケプロン報文」を作成しました。

エドウィン・ダン(1848-1931)は、オハイオ州で牧場経営をしていましたが、ホーレス・ケプロンの指示によるアルバート・ケプロン(ホーレス・ケプロンの息子)の依頼を受けて、明治6年(1873年)7月に米国の進んだ畜産技術指導のために、牛20頭・羊100頭とともに大陸横断の苦難の末横浜に着きました。早速、東京麻布の第三官園で約30人の生徒に北海道開拓に役立つ技術者養成のために実技を主体にした畑作や畜産の技術を幅広く指導しました。

明治8年(1875年)5月、エドウィン・ダンは、北海道七重(現在の七飯)官園に、五ヶ月の長期出張で来て、農業技術や馬の改良に欠かせない去勢技術の普及に努めました。この期間中、札幌官園、新冠牧場も視察しました。また七重では「妻となるべき女性」松田ツル(15才)との出会いがありました。(後に、国際結婚の難しい手続きを経て、正式に結婚。日本永住の決意を固めたのでした。)

明治9年(1876年)6月、28才のエドウィン・ダンは、園芸担当のポーマーと共に札幌官園に転勤し、北海道開拓の指導にあたります。直ちに原始林の生い茂る真駒内の地で、牧牛場の建設に着手、搾乳場・乳製品加工場・用水路など、牧場の施設整備に努力しました。このエドウィン・ダンの手により開拓使牧牛場として創設された建物は、その後北海道種畜場となり、名実ともに北海道の家畜改良や技術普及のセンターとしての役割をはたしてきました。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

エドウィン・ダン年譜と業績

1848年(嘉永元年)7月19日米国オハイオ州チリコーシで生まれ、父の経営するスプリングフィールドの大牧場で育つ。

1866年(慶応2年)18才 マイアミ大学(オックスフォード市)を退学。長兄ジェイムスに代わって父を手伝い、牛馬の飼育法を学ぶ。

1873年(明治6年)25才 仲買人A・C・ケプロンの要請を受け訪日を決意。牛42頭とめん羊百頭の輸送を兼ねて赴任。A・C・ケプロン(ホーレス・ケプロン開拓使顧問の息子)が、開拓使の注文に応じてダン家の牧場から牛を購入したが、このとき一年間の契約で日本の青年たちに牧場の技術指導をすることになり、家畜の輸送を兼ね約二ヶ月かけて横浜に到着。

1875年(明治8年)27才 5月、北海道七重官園に約四ヶ月の長期出張。この間に札幌官園、新冠牧場を視察し、牧場の経営管理の改善策や家畜飼育に関しての意見書を提出、本道畜産事業指導の第一歩を踏み出す。この七重でダンの回想録でいう「津軽から来た小役人の娘・(つる)」と出逢い東京に連れて戻る。当時、国際結婚には手続き上数々の困難があったが、後年、正式に結婚し、ダンに日本永住を決意させた。

1876年(明治9年)28才 東京第三官園から札幌官園に移り、真駒内牧牛場の建設に着手する。この後、札幌を拠点として開拓使が廃止されるまでの間に、牛牧場・牧羊場・養豚場等の建設と家畜飼養の試験・指導・牧草・甜菜・亜麻の栽培、西洋農具の使用方法の指導など北海道農業の基礎作りに大きな貢献をした。

1877年(明治10年)29才 真駒内種畜場完成。当初、百余頭の牛と若干の耕馬、豚80頭を飼育し、100ヘクタール余の飼料畑を持って真駒内牧牛場として発足。1886年(明治19年)北海道庁が設置されて間もなく真駒内種畜場と改められ、牛だけでなくすべての家畜を飼育、名実ともに北海道畜産普及の拠点となる。また、バター・チーズ・練乳などの製造、ハム・ソーセージの加工等も指導し、北海道の酪農加工の基を拓いた。

1878年(明治11年)30才 新冠牧場を拡張整備し、馬産改良につとめ馬産王国北海道の礎を築く。開拓使は札幌の建設事業に関連して、新冠のほか、漁村、手稲、登別に牧馬場を設置していたが、いずれも狭い上に地味の悪いこともあり、ダンは新冠牧場を拡張整備して、他牧場の馬をことごとくここに移して、200キロ余の札幌~新冠牧場間を一人のアイヌ従者を供にしただけで何度も往復し育成法を指導、北海道馬産政策の根拠地とした。牧場の草創間もなく1879年(明治12年)には染退川(しびちゃり)の洪水があり、80年にはバッタの大群による牧草の被害、つづいて野犬、狼による被害が一時牧場の前途を暗くしたが、ダン以下職員の努力と英断によって困難を切り抜け、日本一の馬牧場となって日本の馬産に貢献した。

1882年(明治15年)34才 開拓使廃止に伴い、12月北海道を離れて東京に移り、翌年2月、日本政府との契約期間満了(期間 九年九ヶ月)

1883年(明治16年)35才 長女ヘレンを連れ、米国オハイオ州の故郷に一時帰国。家族との生活の場を求めて西北部の開拓地域を旅行。

1884年(明治17年)36才 駐日米国公使館第二書記官を命じられ再び来日。日本は当時、徳川幕府が米国をはじめ各国と結んだ修好条約(不平等条約)を改正しようと努力し、その一環として鹿鳴館を建て、ここを核として内外人の交歓を行わせたが、ダンは、つる夫人を通じて日本の上流社会に多くの知己を得た。

1888年(明治21年)40才 つる夫人死去。28才…ダンはこのとき人生に対する希望を失い、職を辞めて帰国しようとさえした。後年、元旗本の娘中山ヤマと再婚し、四男をもうける。

1889年(明治22年)41才 参事官となる。

1893年(明治26年)45才 公使に昇進する。

1894年(明治27年)46才 日清戦争始まる。米国が仲裁の労をとることになり、ダン公使は北京駐在のデムビー公使と連携し献身的な努力の末、和平交渉にこぎつけ早期終結に貢献した。

1895年(明治28年)47才 日清戦争終結。

1897年(明治30年)49才 米国の政変により公使を辞任する。

1900年(明治33年)52才 石油事業を起す。日本の発展のためには外国資本を入れて国内産業を開発することが必要と考え、スタンダード会社の力を得て石油会社を設立し、新潟県直江津郊外に精油所を建設、操業した。だが、1907年(明治40年)産油量が少なく廃業した。

1912年(大正元年)64才 三菱本社に勤務。ダンは三菱に迎えられ、当初、長崎の三菱造船所にあって、港内の沈没船の引き上げなどに携わっていたが、間もなく東京本社勤務となる。

1931年(昭和6年)83才 5月15日午前10時30分、脳溢血のため代々木の自宅で逝去。享年84歳。墓は東京青山墓地にツル、ヤマ両夫人の墓とならんで建っている。 56年間日本に住み、1893年より1897年に至るまで東京駐在米国公使をつとめた人、と刻んである。

エドウィン・ダン記念館(札幌市南区真駒内泉町 真駒内中央公園内)…エドウィン・ダンと北海道冊子より抜粋 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

北海道の酪農・馬産王国の生みの親エドウィン・ダン

大和には、郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登立ち 国見すれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鴎立つ立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は 美しく礼儀正しい……うまし国。

国民はおとなしく紳士的で、芸術的感情は豊かな…近いうちには、きっと世界の一等国になるだろうが、国民の生活は長く江戸幕府の鎖国により豊かとはいえず、ことに食生活は進んでいない。なかでも酪農の面ではほとんど無知に等しいため、1869年(明治2年)明治政府は開拓使を置き、「蝦夷地」を「北海道」と改めて大いに開拓経営をおこなうこととした。北海道開拓次官黒田清隆は、米国農務長官ホーレス・ケプロンに開拓使顧問を要請した。その折に家畜の仲買人をしていたケプロンの子息のA・C・ケプロンのすすめでオハイオ州出身のエドウィン・ダン(25才)が1873年(明治6年)開拓使が米国で購入した牛42頭とめん羊100頭を日本に輸送を兼ね約二ヶ月かけて横浜に到着、日本の青年達に家畜の飼養技術、西洋農具の使用方法などを習得させるため一年間の契約で来日した。

東京に着くと直ちに青山の第3官園で生徒に実地指導し、従来役畜だけで飼い方も粗放であったわが国に進んだ牧畜技術をうえつけた。1875年(明治8年)に函館に近い七重(現在の七飯町)の農業試験場へ約四ヶ月間長期出張してひと夏を送りましたが、そのとき青森県南津軽郡尾上村の出身である小役人の娘松田つる(15才)と出逢いました。当時日本では国際結婚の手続きが非常に面倒でしたが、エドウィン・ダンは何年もかかって手続き上の難問を解決して「つる」さんと正式に結婚し、日本永住を決意しました。

1876年(明治9年)エドウィン・ダンは妻と共に札幌に移り、道内の広い舞台で献身的に多くの仕事をしました。はじめて一歩を踏み入れた北海道は、まだ蝦夷という名前が消えきれない、まったく未開の地であった。西郷隆盛から贈られた太刀を背にアイヌの青年を案内人に原生林切り開き今日の食料・酪農・馬産王国の礎を築き北海道開拓に尽くした功績は大きなものであった。

クラーク博士を助けて札幌農学校の整備や教育にも当たりながら牧羊場、養豚場を整備し、真駒内には牧牛場を建設しました。さらに新冠には大牧場をつくり北海道産馬の改良に努めるなど家畜の飼育管理方法だけでなく、バター、チーズの製造、ハム、ソーセージの加工なども指導し、飼料を自給するために各種の牧草をはじめ、デントコーン、大・小麦、えん麦、馬鈴薯、キャベツ、てん菜、亜麻など新しい作物の耕作技術を、自分が真っ先になって働き、日本の生徒に教え、またプラウとかハローといった西洋農具を馬に引かせて広く耕作する畜力機械農法を指導、耕馬の訓練や育成に努め、幅広く本道農業の夜明けのために日夜努力しました。

1882年(明治15年)エドウィン・ダンは、開拓使の廃止により札幌を去って東京に移り、翌年2月、日本政府との契約を満了した。後に米国駐日公使として活躍し、さらにわが国の石油開発事業やサルベージ事業に先鞭をつけるなど、日本の産業発展につくしました。

1931年(昭和6年)5月15日、次男ジェームスとその妻道子の二人に見守られながら東京で逝去しました。享年84歳。  【合掌】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

愛しきメアリー

新渡戸夫人メアリーの生涯は、一人の勇敢なアメリカ人女性の冒険談である。日米交流の初期に、家族や友人に囲まれた快適なフィラデルフィアの生活を捨てて、大望を抱く一人の日本の青年と結婚し、彼とともにその国に暮した一人の女性の物語である。

今から思えば、それは彼女にとって危険な賭けであったと言えるが、また大きな成果をもたらす賭けでもあった。夫が有名人への道を努力して歩んでいるときに、そのかたわらで彼を助け、精神的な支えと励ましを与え続けた女性の物語である。

夫の稲造がそうであったように、メアリーもまた国際主義と日米文化交流の開拓者であった。日本人と結婚した最初のアメリカ人女性の一人として、第二の祖国に忠実でありながら、なおかつ生まれた祖国への愛着を持ち続けることが可能であることを、彼女は身をもって示した。アメリカの家族や友人と遠く離れながらも、彼らとの関係を保ち続けた。同時に、世界情勢の中で日本が直面した問題についても、日本に長く住んだことによって、ユニークな見方をすることができた。彼女も彼女の夫も、時代の歴史的状況の制約を受けていた。そのために二人は、今日の我々が、こうあるべきと考えるような、真の国際人の条件をすべて満たしていたとは言えないかもしれない。しかしそれでもなお、彼女は、当時の社会のさまざまな障害や偏見をみごとに乗りこえたのであり、異なる文化、異なる国民への橋となって、その国に同化することができたのである。   [完]

もう一人の「かけ橋」-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ー 文章抜粋  桜美林大学国際学部教授 ジョージ・オーシロ著  北海道大学文学部教授 長尾 輝彦訳

| | コメント (0) | トラックバック (0)

メアリーと日本の関係

メアリーの伝記を書いたドロシー・ギルバートが、一つのヒントを与えてくれる。それは「稲造とメアリーは、まず第一に愛国者であり、第二に世界市民であり、第三にクエーカーであった」という評価である。

19世紀アメリカのクエーカーとして生まれ育ったメアリーは、その生涯の最後には、夫の国日本に同化していた。日本に何年間か住んで新渡戸夫妻とも親しくなっていた、キャサリン・エディーという宣教師が、その書き残した回想録で、この点を明快に指摘している。

新渡戸博士の死後、新渡戸夫人は手紙でこう書いてきた。「周りの人たちに、本国にはいつもどられますか、とたずねられることがあるが、これは本当につらいものです。本国とはアメリカのことを言っているのです。私はいつも、ここが私の国なのです、私は死ぬまでここにいるつもりです、と答えています」と。

メアリーが生まれ育ったクエーカー教の、中心的な教えの一つに平和主義がある。だが彼女は、この平和主義に拘泥しなかった。メアリーは1904-05年の日本のロシアとの戦争を支持した。1930年代においてもまた、稲造と同様、中国での日本の軍事行動を擁護したのである。こういった態度は、二人が、当時の政治的、社会的状況のために、平和主義の原則を二の次にしたという事実を痛ましくも物語っている。しかしそれをするためには、二人は二つの忠誠の板挟みになって悩んだに違いないのである。すなわち、祖国日本への愛とクエーカーの信条への献身という二つのものの板挟みである。

文化的、心理的に言えば、メアリーは生涯外国人のままであったと言える。日本語を話せるようにはならなかったし、行動も考え方も日本の風習に染まることはなかった。努力はしたかもしれないが、しかし何が何でもという努力ではなかったのであろう。家は洋風に整え、東京のただ中にあってもなお、親しい(英語を話す)友人や知人に囲まれるという生活を満喫していた。彼女の性格から考えても、使用人や周囲の日本人たちに弱いところを見せたくはなかった。彼女はいつも尊敬と畏敬の念を周囲に与え続けていた。日本語を使いはじめれば、そのような威厳を維持することが難しくなることを、彼女は知っていた。この点から言えば、新渡戸家は、日本という海の上に漂う、異国の島のようなものであった。稲造はこれを特に不都合とは思わず、結婚したばかりの頃から、彼女に生活様式を変えることなくアメリカと同じ生活をさせていた。メアリーは最後までアメリカ人としてのアイデンティティーを持ち続けたと言えるのである。

もう一人の「かけ橋」-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ー (文章抜粋) 桜美林大学国際学部教授 ジョージ・オーシロ著  北海道大学文学部教授 長尾 輝彦訳

| | コメント (0) | トラックバック (0)

晩年の新渡戸夫妻

ヨーロッパから東京に帰って、退職後の生活を始めたとき、メアリーは70歳に近い年齢になっていた。養子にした二人の子供、孝夫とこと子は、ともに成人して結婚していた。そして二人の孫が生まれていた。1918年に生まれた誠と1920年に生まれた武子である。稲造と同じように子供好きだったメアリーは、この孫たちに愛情を注いだ。

フィラデルフィアのエルキントン家にも、多くの変化が起きていた。最愛の弟ジョゼフは、いつも新渡戸夫妻と手紙のやりとりをしていたし、1905年(明治38年)と1915年(大正4年)の二回、東京の家まで訪ねてきたことがあったが、1920年(大正9年)、ロンドンで亡くなり、社会奉仕と人類愛に捧げたその生涯を全うしていた。

母親のマリンダは生涯メアリーのよき友であったが、やはり1920年に88歳で他界していた。だがエルキントン家との絆は続いていた。次の世代のエルキントン家の人々との間でひんぱんに手紙が交わされていた。メアリーは今は、「メアリーおばさま」と呼ばれ、エルキントン家の子供たちから愛情のこもった手紙を受け取っていた。その一人はジョゼフの息子のパスモアであり、父親がもっていた新渡戸夫妻とのつよい絆を引き継ぎ、日本にも深い関心を持ち続けた。

彼女も稲造も、日本のクエーカーの人々とのつよい絆を保ち続けていた。ガーニー・ビンフォード夫妻、イーディス・シャープレス、ハーバート・ニコルソン夫妻、ボートン夫妻、ボウルズ夫妻といった宣教師たちがしばしば彼らの家を訪問していた。この頃メアリーが行った仕事の一つは、動物への虐待を防止する日本動物愛護教会の設立に貢献したことであった。また日本のYWCA(キリスト教女子青年会)の活動にも参加し、数年間その会長もつとめた。さらに東京のフレンド派女子学校ともかかわった。

1932年(昭和7年)に稲造は、日本の軍部について批判的な発言(松山事件)をしたとして、愛国主義者たちの団体から攻撃を受けるという事件があった。彼は、排日移民法が廃止されるまでは二度とアメリカの土は踏まないと公言していたのであるが、この事件の後、その誓いを破って、アメリカに渡り、日本の立場について講演を行う役目を引き受けることにした。一年にわたる旅行であり、彼の年齢にはきつい旅であった。メアリーも同行した。しかしカリフォルニアに到着した後に、まもなく、彼女は重い心臓発作にかかり、体の一部が動かせないような状態になった。稲造は彼の使命を果たすべく旅を続け、アメリカでの10ヵ月間に、ほぼ166回の講演をこなした。この精力的な旅を終えた稲造は、一人帰国した。メアリーは病気療養のため、カリフォルニアに残った。

数ヵ月後に稲造は再びアメリカにもどった。今度は、カナダのバンフで開かれるIPR(太平洋問題調査会)の日本代表団の団長としてであった。1933年(昭和8年)9月にはメアリーも旅行ができるまでに回復しており、夫と合流すべくカナダに向かったのであったが、その夫には、わずか数週間の命しか残されていなかったのである。

1933年(昭和8年)10月15日カナダ・ブリティッシュコロンビア州ビクトリア市のロイヤル・ジュビリー病院で手術の後、稲造が亡くなったとき、彼のかたわらにはメアリーがいた。彼はバンクーバーで埋葬され、一ヵ月後、メアリーは彼の遺骨をもって日本に帰国した。東京で稲造の葬儀がもう一度行われ、死後の稲造に、天皇から勲一等が贈られた。

メアリーは稲造の死後5年間生きた。その5年間に彼女は、稲造の思い出を残す仕事を続け、彼の書いたものを出版のために整理した。稲造が40年以上にわたって書き溜めた日記の整理もしていた。メアリーは、1938年(昭和13年)9月23日、81歳で、軽井沢の別荘で静かに息をひきとった。彼女の葬儀は、三田のフレンド派女子学校の講堂で行われ、多くの著名な人々が参列した。同じ日に、フィラデルフィアの集会所でも彼女の葬儀が行われた。メアリーの遺骨は、東京郊外の多磨霊園に埋葬され、彼女の夫と、そして幼くして亡くなった子(トーマス遠益)とともに眠っている。

もう一人の「かけ橋」-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ー文章抜粋  桜美林大学国際学部教授 ジョージ・オーシロ著  北海道大学文学部教授 長尾 輝彦訳

| | コメント (0) | トラックバック (1)

スイス・ジュネーブでの日々

1920年(大正9年)、稲造は国際連盟の事務次長に就任し、事務局はジュネーブに移された。新渡戸夫妻は、稲造がその職を退く1926年(大正15年)までの間、スイスに住んだ。街の郊外に借りた広大な邸宅は、レマン湖に面して広大な芝生の庭があり、また遠くに美しいモンブランが望まれた。ここで新渡戸夫妻は続々と訪れる訪問客を接待したのであり、訪れる人たちの中には、キューリー夫人、アンリ・ベルグソン、ギルバート・マレー、アルバート・アインシュタインといった世界的な著名人がいた。

メアリーの協力によって、稲造は、ジュネーブで最も人気のある国際人の一人として有名になった。ジュネーブで最も人気のある人物の名前を1,2,3の順番で三人選んで書くという催しがありました。そのとき全員がイナゾー・ニトベの名をナンバーワンとして書いていました。

新渡戸夫妻は、1927年(昭和2年)3月16日に、ジュネーブを去って日本に帰国し、退職後の生活に入った。この帰国の旅で、稲造は米国をわざとさける経路を選んだ。日本からの移民を禁じた1924年(大正13年)の新移民法が廃止されるまでは、決してアメリカの土を踏まないと、稲造が決意していたからである。このためにメアリーは、エルキントン家を訪れる機会を逸したのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »