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小日向台町の新渡戸邸

部屋数が三十以上、床面積一万平方メートル以上もある、優雅な二階建て和洋折衷邸宅が、東京の郊外小石川の小日向台町に位置する新渡戸家は、東京の街を見下ろす小高い丘の上にあり、約四万平方メートルの土地をしめていた。メアリーは庭に、桜、梅、藤など、季節ごとに花を咲かせる木を植えた。庭の一角には、バラ園を配し、彼女の大好きなバラの花を咲かせた。メアリーが園芸用の花の栽培や簡単な菜園の手入れが好きであったことは、札幌時代以来、アメリカの家族に書き送った手紙にあきらかである。

メアリーはまた夫の教え子たちとも知り合いになって、教育の仕事でも協力していた。大正の初期に帝国大学で教えている頃、卒業した一高のの教え子たちが頻繁に小日向台の新渡戸邸を訪れた。その中には鶴見祐輔、前田多門、田島道次、笠間杲雄、岩永祐吉、金井清等、その後それぞれの分野で名をはせることになる人たちがいた。メアリーは彼らとも親しくなっていた。

メアリーと稲造は人をもてなすのが好きで、彼らの家に客がたえることがなかった。著名な外国人が日本を訪れると、いつも新渡戸邸の夕食に招かれた。スタンフォード大学学長だったデービッド・スター・ジョーダン、ブラウン大学学長ウィリアム・フォーンス、ハーバード大学学長チャールズ・エリオット、最初の日本派遣米国教授ハミルトン・メルビーといった面々であった。

結婚した当時から、メアリーは客をもてなす女主人としての役割に大いに気を使っていた。1915年(大正4年)に正式に新渡戸夫妻の養女となったこと子は、母親のメアリーが、「自分は日本人の妻になったのだから、日本の言葉や習慣やきまりを学ばなければいけないと思う」と言っていたことを記憶している。しかしメアリーは日本の作法が身に付かなかった。日本語も、努力はしたが、いくつかの言葉を覚えただけで、話せるようにはならなかった。

新渡戸夫妻は様式の生活スタイルを取り入れていた。稲造は、メアリーが日本の様式に合わせるより、自分が彼女の生活様式に合わせた方がよいと考えた。こと子が新渡戸夫妻にひきとられたのは1905年(明治38年)頃のことであったが、その時彼女が最初に覚えなければならないことは、ナイフとフォークの正しい使い方であった。「私たちの家ではいつも洋風の食事だから」と稲造は説明したという。しかし、たまに特別の機会には和食が出されることもあった。

もう一人の「かけ橋」-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ーより抜粋   ジョージ・オーシロ 著  長尾 輝彦 訳

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国際的日本人の妻としての日々

『武士道』の出版後、稲造は一躍有名人になった。ベストセラーの著者として国際的に名を知られるようになっただけではなかった。日本国内においても、農政学に関する彼の進んだ知識が求められた。アメリカ滞在中に、台湾の殖民事業担当の政府の高官であった後藤新平から、台湾の製糖産業の指導者としての仕事を引き受けてくれるようにと強く説得された。この求めに応じた後、稲造は新しい仕事の準備としてヨーロッパの植民政策を研究するため、時間の猶予を求めた。彼はまた、1900年(明治33年)パリ万国博に日本が出品するための準備にもかかわった。この間メアリーは大部分、養子の孝夫とともに、フィラデルフィアの実家で過ごしていた。彼女がアメリカの家族のもとを次に訪れるのは、これから十年後のことになる。

メアリーがフィラデルフィアを次に訪れる機会は、1911年(明治44年)、一高校長となっていた稲造が、カーネギー平和基金米国派遣交換教授に任命されたときであった。このときに稲造がアメリカの六つの大学で行った講演は、『日本国民』として編纂されたが、その序文で、稲造は、この新しい仕事を引き受けるに際してメアリーから受けた励ましについて謝辞を述べている。後年自らの成果を謙虚にかえりみながら、「この偉大な目的に対していかに自分が及ばないものであったかは、この私が最もよく知っている。そして付言させてもらうなら、私の妻がそばにいて常に支え、完璧な気配りをしてくれていなかったなら、私の成果はどんなにか更に小さなものになってしまっていたことか」と稲造は書いている。彼はまた「私の妻を生まれ故郷に連れて行くことができたのは」嬉しいことであった、とも書いている。

稲造がアメリカ各地をまわって日本についての講演を行っている間、メアリーは、大部分の時間を、新世代を迎えつつあったフィラデルフィアの一家のもとで過ごした。父親のジョゼフ・スコットンは1905年にすでに他界していたが、ジョゼフ、トーマス、ウィリアムの三人の弟たちは働き盛りの年齢で、一家の石鹸製造事業をどんどん拡大していた。彼らの子供たちも成長し結婚する年齢になっており、次の世代の子供たちが生まれつつあった。また、新渡戸夫妻の養子の孝夫も、この頃には、メアリーがかって学んだクエーカーの寄宿学校ウェストタウン校を卒業して、ハバフォード大学の学生になっていた。カーネギー派遣交換教授の任務は、国際人としての稲造の活躍の一つの山であり、「太平洋の架け橋」としての彼の名声はこのときに確固たるものになった。

もう一人の「かけ橋」-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ー  より文章抜粋    ジョージ・オーシロ 著    長尾 輝彦 訳

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『武士道』執筆、そして著名人への道

『武士道』の初版序文に、稲造は、「この小著を書くことになった直接のきっかけは、私の妻が、ことあるごとに、日本にはどうしてこのような考え方、あのような習慣があるのだと尋ねたことによる」と書いている。稲造が日本古来の道徳のよってきたるところを本にまとめるにあたり、メアリーは、その動機を与えるという役割を果たしたのであり、そのことについて稲造自身の証言がここにあるわけである。

上に引用した同じ初版序文の最後に、「私の友人であるアンナ・ハーツホーンから多くの貴重な助言をいただいたことに感謝したい」という言葉で結ばれている。アンナ・ハーツホーンはレイチェル・リードのいとこにあたる人で、父親のヘンリー・ハーツホーン博士と日本に来ていた。ハーツホーン博士はその後まもなく死去し日本の地に埋葬された。アンナ・ハーツホーンはレイチェル・リードと同じように、新渡戸家に何年間か寄宿した。数年後には、津田梅子が英学校(現在の津田塾大学)を開くときに、学校経営と教育面で津田梅子を助けた。

稲造が発病後、新渡戸一家がアメリカに渡ったとき、アンナは彼らと行動をともにした。当時の手紙を見ると、彼女が『武士道』の執筆に重要な役割を果たしたことがわかる。稲造の手が弱って、ふるえてペンが持てないほどになったようなときに、彼女が代筆して書いたというような証拠もある。

『武士道』1900年(明治33年)にフィラデルフィアで出版され、その数年後の1905年(明治38年)、日露戦争が勃発した後に、ジョージ・パットナムズ・アンド・サンズという大手の出版から版を新しくして出版され、これがこの本の読者を広げることになった。日露戦争によって、日本に対する関心が高まり、日本人によって英語で書かれた本ということで、ベストセラーになった。このために、稲造は日本人の道徳感情についての権威として、世界的な有名人になった。

残っている書簡を見ると、メアリーが『武士道』の出版をかげで支えていたことがわかる。稲造が台湾での殖民事業という新しい任務に忙しいときであったので、ウィリアム・グリフィスらとの文通はメアリーが行うことが多かった。グリフィスは、著名な知日家で、稲造の著書に「序論」を寄せてくれることになっていて、その上校正などの手伝いもしてくれた人である。メアリーは事務的な事柄について出版社とかけあい、多忙な稲造が出版に付随する様々な面倒な手続きに時間をとられることのないようにしていた。

『武士道』の成功のクライマックスは、1905年(明治38年)、明治天皇に拝謁を仰せつけられたことであった。この大きな名誉のときに、メアリーも稲造につきそって皇居に出向いた。

もう一人の「かけ橋」-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ー冊子より抜粋 ジョージ・オーシロ著  長尾 輝彦訳

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稲造とメアリー、札幌時代

結婚後の七年間を、北海道開拓の街札幌で過ごした。稲造が、発展途上にあった札幌農学校、また北海道庁の仕事に忙殺されているかたわら、メアリーも社会的活動を行った。学生を家に招いて聖書教室を開いたりしたのだった。メアリーも稲造も、アメリカの家族や友人にあててこまめに手紙を書き送り、自分たちがしているキリスト教精神に基づく様々な活動について、知らせていた。

札幌時代のメアリーと稲造の活動には、クエーカー教徒であるがゆえの影響がはっきりと見てとれる。とりわけ、稲造はペンシルバニア州を開いたウィリアム・ベンの偉業に深い感銘を受け、想像力をかき立てられていた。北海道においても、同じような試みができるのではないかと考えたのである。このため彼はいくつかの事業を計画し、クエーカー教の歴史を広める仕事をした。一つには、ウィリアム・ベンについての連載記事であり、これは地元紙『北門新報』の編集者に書かせたものである。もう一つは、ウィリアム・ベンの小伝の翻訳であり、これを『建国美談』と題し、稲造は自分のお金で出版し、北海道各地の入植者たちに配った。

新渡戸夫妻が取り組んだもう一つの仕事は、札幌に最初の夜学校を設立する仕事であり、正規の学校教育を受けられない人たちのための教育施設をつくることが、発展途上にある札幌の社会にとって緊急必要なことだと考えていた。

ところが、1893年(明治26年)、新渡戸夫妻が札幌に住み着いて二年後に、フィラデルフィアでの思いがけない出来事によって、この事業をおこす資金が彼らの手に入ることになった。メアリーが、ある亡くなった一人の女性から千ドルの遺産を受けることになったのである。それは幼い頃に孤児となり、メアリーの父親によってエルキントン家に引き取られ、家族の温かい愛情を受けた女性であった。彼女はこの受けた恩を忘れなかった。何年もの後、死ぬときに、エルキントン家の長子であるメアリーにお金を遺したのである。メアリーは、このお金を自分のことに使うのでなく、稲造の長年の夢であった私設の学校をおこすのに使おうと決心した。

メアリーと稲造は、札幌のある地区に二階建ての古い木造家屋がついた土地を購入した。ここに学校を開き、愛情をこめて「ぼろ学校」と呼んだ。その正式の名称は、「遠友夜学校」で、そこに言う「遠くの友」とは、メアリーの家族や友人たちそして、1892年(明治25年)1月に一週間後に亡くなった長男トーマス(遠益)にちなんだものであった。45年間にわたって、札幌の多くの若者たちに、働きながら学ぶチャンスを与え続けた。稲造は1933年(昭和8年)に亡くなるまで、この学校の名誉校長であった。彼の死後、その称号はメアリーに与えられ、彼女が死ぬまで名誉校長をつとめた。

まだ札幌にいるときに、二人は稲造の姉の子供で三歳になる男の子孝夫(よしお)を養子にした。それからまた何年か後、東京に住んでいた頃に、稲造の別の姉の孫、こと子をひきとり、大きくなってから正式に養女とした。

北海道で過ごした六年間は、札幌の名士となり、この街の発展に大いに貢献した。だが稲造は、「働き過ぎ」が原因の重い神経衰弱にかかっていた。それにメアリーもまだ健康を回復してはいなかった。エルキントン家では彼女の看護をするためにレイチェル・リードという付き添い看護婦を日本に行かせて、彼らの家に同居させていた。リードはその後何年も彼らと生活をともにすることになる。

1897年(明治30年)の夏に、メアリーの提案で、一家は札幌を去った。稲造を仕事から解放し、療養して病気快復をはかろうとしたのである。鎌倉と湘南海岸に数ヶ月滞在した後に、長期療養のためアメリカに向けて旅立った。

もう一人の「かけ橋」-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ー より抜粋  ジョージ・オーシロ 著    長尾輝彦 訳

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稲造とメアリーの出会い、そして結婚

正統的なクエーカーであり質素な生活の中で育ったメアリー・パターソン・エルキントンは、1886年(明治19年)、新渡戸稲造(24才)がボルティモアのジョンズ・ホプキンズ大学の大学院生になっていたときに、フィラデルフィアの集会で彼と出合った。稲造と級友で留学中の内村鑑三は、ウィスター・モリスの一家と親しくなっていた。ウィスター・モリスは地元の実業界の有力な指導者でありクエーカー教徒であった。彼の家で、フィラデルフィアのフレンド派海外派遣宣教師婦人部の集会が頻繁に開かれていた。そのような集会で、稲造は、女性会員たちに日本について語る機会があった。その講演の後のティー・パーティーで、稲造はメアリーと会い、またメアリーも稲造の講演に大変興味を持ったのであった。

その後まもなく、稲造は、母校札幌農学校の教師に任命され、研究を続けるべくヨーロッパに向けて旅立つことになった。メアリーとの関係を大切にしようと思って、稲造は彼女と文通をはじめた。ドイツ留学中の三年間、稲造はメアリーに、研究のこと、旅行のこと、出合った人たちのこと、将来の夢などについて手紙を書き送った。

メアリーの方も、合衆国で問題になっている日本関係の出来事、たとえば日米条約の改正や、起草中の日本国憲法のことなどについて、稲造に書き送っていた。遠く離れていたために、二人をつなぐのは、大西洋をわたる手紙だけであった。それでもそれはやがて恋へと発展し、二人は結婚を決意するまでになった。

しかし、結婚は簡単ではなかった。両方の家族の承諾を得ることは、忍耐を要することであった。稲造の養父は最初反対していたが、折れて、本人が決めることに同意した。もっと強い反対はメアリーの側からであった。とりわけ父親であった。彼の考えは地元の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』に発表された。「新渡戸氏個人に問題があると言っているのではない、知性と教養を備えた立派な人物であると思っている。だが、娘が遠い日本に行って、家族や友人、そして慣れ親しんできた環境から切り離されてしまうことが問題なのだ」と。

メアリーと稲造は、こういった周囲の反対にも負けず、結婚の意志を貫き、ついに、1891年(明治24年)の元旦に、フィラデルフィア市街のフレンド派集会所で結婚式を挙げた。その何日か後、メアリーの父とも和解して、二人は、日本での新居に向けて旅立ち、二月半ば、北海道の札幌に到着した。

もう一人の『かけ橋』-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ーより抜粋 

桜美林大学国際学部教授 ジョージ・オーシロ 著           北海道大学文学部教授      長尾 輝彦  訳                

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愛弟子森本厚吉と東京文化学院(2)

最初は名誉校長の腹案

新渡戸が女子経済専門学校(現東京文化学院)の初代校長に就任したのは、昭和三年(1928)四月だった。昭和三年といえば、新渡戸の受洗五十周年の記念すべき年に当っていて、そちらが一般的には有名だが、女子教育でも重要な最後の仕事にかかった年でもあった。

創立者である森本は、当時ジェノバから帰国したばかりの恩師・新渡戸を訪ねた。森本の腹には、今度自分が女子経済専門学校を開校するにさいしての女子教育事業について聞いてもらい、名誉校長にでもなっていただければありがたいという思惑があった。新渡戸は常に繁忙を極めていたことは衆知のことだったので、校長にとはどうしても頼めなかったから、せめて名誉校長にという腹案を持って会ったのである。

ところが新渡戸は、森本の女子教育にかける熱意を聞いているうちに、こんな質問を不意にした。「名誉校長と普通の校長とは、どんなふうに違うんだい」それに対して、森本は型どおりの説明をした。しかし、この時、森本には新渡戸にかすかに脈があるように見えた。それで、こうも言ったのである。「私が一番上に立つと誰も叱る人がいなくなるので、新渡戸先生に是非とも校長になっていただきたいんです」新渡戸は、にんまりとした表情で言った。「よく分かった。僕は君たちのやることは、どんなことだって信頼するよ。そして、その事業を助けたいんだ。君の言い方からすれば、普通の校長のほうが都合がいいんだろう。それだったら、その普通の校長とやらをやらせてもらっていいよ。君も知ってるように、僕はこれまで、そうした女子専門教育の必要性を充分に感じて、幾つかの学校に関係してきたんだから」

森本の心をくんで快く校長を引き受けてくれた恩師・新渡戸に、森本はこう言っている。「その時ほど嬉しかったことを私はかって経験しなかった」話が一段落したあと、新渡戸は森本に向かって、しんみりとこんなことを言った。「君が帝大の教授をやめて専門学校の先生になれば、世間ではそれだけ落ちぶれたように思うだろうが、僕はそれだけ君を見上げるよ」当時、周囲には、北海道帝国大学教授の職を投げうって女子教育に打ち込もうとする森本の行為を多分に揶揄する人がいたらしく、逸早く新渡戸はそれをかぎとっていたのである。

新渡戸自身も、もちろん任せられたからには、この学校のために身を賭けて尽力しようという気持ちにあふれていた。新渡戸はその時の決意を森本に次のように語っている。「東京には立派な学校が既にたくさんあるが、あまりに規則や型にはまりすぎている。尊い人の魂を自由に伸ばさせるには愛の教育を基調とせぬばならなぬ。経専は親心をもって教える良教師による愛の学校であらねばならぬ。生徒をかわいがることによって、しかる以上の効果をあげねばならぬ。幸いに経専がそうした学校として成長してゆくならば、他に幾つかの欠陥があったとしても、日本一の学校となって役立つであろう」つまり、それは人格主義に基づく愛の教育で、日本一の学校にしようというのである。

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愛弟子森本厚吉と東京文化学園(1)

西郷隆盛を首領とする反政府戦争である西南戦争の最大の死闘といわれている田原坂の激突が繰り広げられていた明治十年三月、当時の京都府舞鶴田辺の増山家に森本は生まれた。森本の少年時代は海辺で送った。浜育ちだったので水泳はお手のもので、楽しい腕白生活を過ごしていたが、十歳のとき、増山家から森本家に養子入籍した。

小学校を終えた森本は、もっと勉強をしたく、特に英語を学びたく、そのため東京に出たかった。森本の熱望を知った母は、夫の事業の失敗で蓄えもなかったことから、恥を忍んで初めて質屋の暖簾をくぐり、旅費とその後の費用を調達してくれた。

こうして東京に出た森本は、麻布中学の前身の東洋英和学校に入学した。森本は好んで外人教師の家を訪れ、学校以外にも英語の上達のため機会を求める努力を惜しまなかった。森本は、英会話は言うまでもなく英語演説、英語劇、英文学と、およそ英語と名のつくものは何でも貪欲に求めていった。

英語に上達した森本は明治二十七年六月、東洋英和学校普通科を卒業した。新渡戸稲造の名を知ったのは、この直後だった。卒業を間近に控え、森本はぜひ、この人から学問を習いたいという思いが強くなっていった。その衝動を抑えることができなくなった森本は、遂に札幌に向かうのである。

同年九月、新渡戸のいる憧れの札幌にやってきた森本は、北鳴学校という札幌農学校に入るための私立の中学校に入った。ちょうど三年前にできたばかりのこの学校は、新渡戸が初代校長である。森本は、ここで早くも新渡戸から教えを請うことができるなどとは夢にも思わなかったことだろう。

新渡戸校長は倫理の時間に、よくこんな話をした。「いいかい、人物さえ優れていれば、学問がなくても決して恥じることはないんだ。いたずらに成績ばかりにとらわれてはいけないよ」森本は、人生に大切な事柄を分かりやすく、しかも、えもいわれぬ面白さとユーモアを交えて語る新渡戸校長の表情に、身を乗り出すようにして吸い込まれていった。

当然のように、森本は上級学校として新渡戸が教えている札幌農学校に進んだ。ここで森本は生涯の親友を得る。後に小説家となる有島武郎である。札幌農学校での森本を、有島は次のように伝えている。「その当時の森本君は、生きた独立雑誌のようだった。級友からも全く孤立して沈黙を守っていた君が、時たま演壇にでも立つと、火のような憤激と侮蔑の言葉が、一般のキリスト者に向かって吐き出された。また、森本君は罪の鋭い自覚なしには、天国の門は開かぬと言った。それは、その当時、内村鑑三先生が極説したところであって、森本君はまた熱烈なその共鳴者であった」

これからすると森本は、新渡戸の人格主義の講話に影響を受けながらも、内村鑑三の無教会主義キリスト教にも傾倒していたらしい。有島によると、「生きた独立雑誌のようだった」というから、それは峻厳で熱烈そのものだったのだろう。

札幌農学校時代に森本が一番苦しんだのは、罪という観念だった。入信はしたものの煩悶が押し寄せ、三度のご飯ものどを通らない状態が続いた。当然のように、死の誘惑lにも駆られた。これを救ったのは、新渡戸から示唆を得て読んだトーマス・カーライルの「サーター・リザータス」(衣装哲学)と、もう一つ卒業記念に有島と研究して著した「リビングストン」伝だった。『サーター・リザータス』を読み、リビングストンの生き方を学んだ森本は、次第に明るくなり、元気を取り戻すことができたのである。『リビングストン』伝は恩師である新渡戸に捧げられた。森本らが、いかに新渡戸を信頼し敬服していたかを如実に物語っている。

明治三十四年八月、札幌農学校を卒業した森本のその後は、東北学院で2年間教えたあとジョンズ・ホプキンス大学大学院に留学し、母校である北海道帝国大学に奉職し、消費経済学という学問を確立した。その講義は明快で分かりやすく、学生間に非常な人気があったといわれる。

文化的な生活の普及のため、親友・有島武郎や吉野作造らとともに『文化生活』を創刊し、文化生活運動から生まれたものに、森本が実際につくってみせた文化アパートメントがある。こうした一連の運動の中から、生まれるべくして生まれたのが無駄の少ない合理的な消費生活を女子のために勧める経済専門学校だったといえる。愛弟子森本と恩師新渡戸博士の最大の接点は、何といっても昭和三年に森本厚吉が創立した女子経済専門学校(現東京文化学園)開校の時だろう。

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高尚にして勇気ある生涯

2004年7月11日、五千円札新渡戸稲造さよなら記念シンポジウム第13回「北海道遠友夜会」における拓殖大学副学長・拓殖大学北海道短期大学学長、草原克豪(くさはら かつひで)氏の講演要旨を記述させていただく。

新渡戸稲造と高い教養

新渡戸は抜群の英語力の持ち主であり、大変な博識家でもあった。しかし、教養とは単なる物知りとは違う。物の見方や価値観、判断力、行動力までを含めて教養という。そういう観点から新渡戸を眺めてみると、いくつかの重要と思われる特徴を見出すことができる。

第一に、新渡戸は幅広い大局的なものの見方ができる人物であった。理想に走って空理空論をもてあそぶことはせず、かといって理想を忘れて現実の利害関係だけで行動することもなかった。極端には走らず、常に中道を歩んだ。新渡戸が好んで使った言葉に、”sense of proportion”というのがある。「大きなものは大きく、小さなものは小さく見る」、つまり全体を俯瞰するということである。

第二に、自分の立脚点あるいは座標軸がしっかりしていた。新渡戸は日本を代表する国際人であり自由主義者であったが、同時に、天皇を敬愛する愛国者でもあった。軸足はしっかりと国内に置いていた。それでこそ真の国際人といえる。自分の視点をしっかりもつことは、物の見方、判断力を決定的に左右する重要な要素である。

第三に、自分の社会的使命を明確に意識していた。新渡戸の行動を一貫して支えていたのは「世のため人のため」という公共への奉仕の精神であった。札幌農学校時代には貧しくて学校に行けない人たちのために遠友夜学校という夜学を設立して校長を務めたし、のちに帝国大学教授になってからは、雑誌「実業の日本」に勤労青年のための人生訓や処世訓などを執筆した。これらはすべて「世のため人のために尽くす」という公共精神の表れであったといえる。

第四に、個人の責任と行動力を重視した。拓殖大学の卒業式において新渡戸学監は、「個人として強かれ」という訓示を残している。こうした新渡戸の大局的な物の見方、軸の確かさ、使命感、行動力こそ、新渡戸がすぐれた教養人であるとされる理由である。では一体彼はどのようにしてそうした資質を身に付けることができたのか。重要なことは、彼が明治維新直前に幼少期を過ごして武士の子としての育てられ方をしているということであろう。それに加えて、明治維新を経て高い志を抱き、西洋人教師を通じて直接的に西洋の学問に触れる経験をしたこと、などがあげられる。和魂洋才である。

今日の日本人は和魂を失ってしまった。昭和20年の敗戦後は、過去が否定され、倫理や道徳などという言葉を口にするだけで復古的、反動的、軍国主義的であるとして批判されるようになった。その結果、新渡戸のような戦前の日本で活躍した国際的教養人の業績も否定され、その存在すらほとんど忘れられてしまった。今、我々はもう一度謙虚に過去を振り返り、歴史や伝統、古典から学ぶ必要がある。

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東京女子大学と新渡戸稲造

東京女子大学は1918年(大正7年)に新渡戸稲造先生を初代学長に、安井てつ先生を学監にお迎えして東京角筈に創立された。新渡戸博士没後70年の記念すべき時に、教育者、国際人、産業の指導者として数えきれない功績の中から、「東京女子大学と新渡戸先生」に絞って、卒業生学長(湊 晶子)として語らせて頂けることは大変光栄である。……一部文章抜粋させていただく。

初代学長の女子教育理念…

新渡戸先生は学長就任の一年前に、「婦人に勧めて」を世に出し、伝統的良妻賢母主義を否定し、女性も一個の人間として教育されるべきことを強調した。「日本人に最も欠けているのは、Personality(人格)の観念である。PersonalityのないところにはResponsibility(責任)は生じない」と述べられ、人格形成は男性も女性も同等であることを説かれた。

大正7年1月号「新女界」には、「キリスト教主義の女子大学」についての高邁な理想と教育方針を掲載され、「入学する者を悉く基督教信者にするとか、教会に入ることを強制するとかの考えはないけれども、心持だけは基督の心持にしたい、己を犠牲にしても国のため、社会のため、人道のため若しくは一家のために貢献する精神を奨励したい」と語られた。

東京女子大学の開校式では、確固たる先生の女子教育理念に立脚して、「婦人が偉くなると国が衰えるなどと言うのは、意気地のない男の言う事で、男女を織物に例えれば男子は経糸、女子は緯糸である。経糸が弱くても緯糸が弱くても織物は完全とは言われませぬ。この意味で女子に高等教育を施す必要がある。そればかりでなく人格の修養と社会の学問を必要とする。このようないままでの女子教育の欠陥を補うためにこの学校を設立した」と開学の趣旨を述べられた。

1919年(大正11年)第一回卒業式には「ジュネーブ湖畔より」と題して、民族、主義主張の違いを超えて生きるためには、東京女子大学の校章に刻まれた犠牲と奉仕の精神が全生涯を通じて大切であることを強調された。

新渡戸先生の教育理念は、男性と女性の性を超えて「人格」を形成し、民族の差異を越えて「真の国際人」を作り出す教養教育であり、まさに現代を生かす教育の原点を示すものであった。

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新渡戸稲造五千円札さよならシンポジウム

2004年7月11日、札幌で開催されたシンポジウムでの李登輝台湾前総統メッセージ全文。

縄田圭一実行委員長、ご来賓の皆様!こんにちは。台湾の李登輝です。この度、北海道遠友夜会が「新渡戸稲造五千円札さよならシンポジウム」を開催することになり、縄田委員長から私のメッセージを依頼されました。光栄に存じます。

新渡戸稲造博士は私たちが最も尊敬し、その功績をいくら称えても止まない偉大な学者、政治家、教育家であるばかりでなく、文学、農学と法学の博士であります。新渡戸先生は21歳の時に、「太平洋の橋とならん」と言い、1900年に『武士道』を書き、日本精神をアメリカや世界に広く紹介しました。その訳本は17種の語言に至っています。

1920年に国際連盟事務局次長となり、世界平和に多大の貢献をしました。1926年から1933年まで日本貴族院議員となり、また1929年には太平洋問題調査会理事長をも兼任し、世界平和に貢献しました。正に日本を代表する国際人でもあります。

新渡戸先生の偉大な功績をここでいちいち紹介するいとまがありませんが、私が特につけくわえたいことは台湾において成し遂げた偉業であります。新渡戸先生は、まず札幌農学校で教育を受け、北海道で勉強した農業経済学の知識を台湾で活かされました。1901年から3年間、当時の台湾総督民生長官後藤新平先生に請われて台湾総督府技師、殖産課長、殖産局長となり、植民地台湾の農業を振興し、殊に砂糖産業を育て、台湾をして半世紀にわたり砂糖生産量が年間150万トンを誇る、砂糖輸出国としての基盤を作り上げました。新渡戸先生が著した「台湾糖業意見書」は歴史的にすこぶる高く評価されています。

「恨みは水に流し、恩は石に刻めと言われますが、台湾植民地時代、新渡戸先生は台湾のために多大な貢献をし、台湾人にとって永久に忘れられない日本人の一人であります。新渡戸先生は人類社会が20世紀に突入する直前、明治維新以来の国造りなりて「極東の島国・日本」がようやく列強の一員として迎えられるときに大著『武士道』が世を問いました。

武士道は日本精神であり、日本人が最も誇りに思うべき普遍的真理であります。人類社会が直面している危機を乗り切って行くために、必要な精神的指針であると信じます。

新渡戸先生はクリスチャンでありますが、仏教や儒教、神道などと深くかかわっている「大和心」である日本精神は日本人にとって、あまりにも大切であり、日本人は常に想起すべきであるばかりでなく、世界にアピールしたのであります。

新渡戸先生が言うように、『武士道』は日本人の精神そのものであります。これは国際的に見ても特筆すべき独自のアイデンティティであります.私は昨年4月日本で出版した『武士道ー解題』で、その一つ一つの徳目について私なりの解釈を示したのですが、一つだけ強く強調したものがあります。それは「誠」の精神であります。つまり、考えること、言うこと、やることが完全に一致することです。世界の国々、人々から信頼されるか、尊敬されるか、そのキーワードは「誠」につきます。日本人はそれを失いかけているけれども、嘗てはこんな精神的、道徳的な体系をもっていました。それこそが日本そのものでした。

大東亜戦争のころの軍国主義と武士道は無関係です。誤って伝えられたものです。しかるに、まことに残念なことには、戦後日本においては、この『武士道』や『大和魂』が否定され続けてきたのです。そのうえ戦後の日本は敗戦によるいろいろな社会的ネガティブの現象で「過去を否定する」自逆的価値観となっていると感じられます。そして、これをそのまま放置すれば日本だけでなく世界全体が不幸になります。私はそれを危惧しているのであります。

幸い、今日本の空気は変わりつつあります。ぜひ、日本の若者たちに日本人としての輝かしい歴史や伝統を大切にし、新しい時代なりの武士道をつくりあげなさいと呼びかけたい。日本がよくなれば、台湾もよくなり、世界もよくなります。私はそういう思いでこの本を書きました。

新渡戸稲造博士が五千円札の肖像画になったのは1984年ですから、今年で丁度20年になります。いよいよ今年をもって去って行くのは、本当に惜しい、寂しい気もします。北海道遠友夜会がこれを記念して「さよならシンポジウム」を開催することは、非常に有意義であります。武士道に出てくる徳目の大部分はいつの時代にも、どこの世界においても相通じます。広く中国人の社会にも武士道の真髄を知って貰うため、この3月私が書いた日本語版の『武士道ー解題』を翻訳し中国語版として出版しました。副題の「ノーブレスオブリジェ」は「人となりの根本」としました。同時にこの訳本の表紙裏には新渡戸稲造博士の肖像画がある五千円札を印刷してあります。これを機会に私たちが共通して尊敬する偉大な新渡戸稲造博士からもっと学び、その精神をいつまでも語り継いで行きたいものです。

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日野原重明氏のラスト・サムライ

”私の証、あるがまま行く”の新聞欄に日野原重明氏が忘れ去られた「武士道」が記述されている。

映画「ラスト・サムライ」の監督エドワード・ズウィックやオールグレン大尉役を演じたトム・クルーズは"Bushido---The Soul of Japan"を熟読したそうです。この本は1899年、新渡戸稲造が日本人の魂の根源となる「武士道」を欧米人に理解させたいと願って、英文で書いたものです。ズウィック監督はハーバード大学時代に、後に駐日大使を務めたライシャワー教授について、日本の歴史と文化について研究した経歴を持っているそうです。

新渡戸稲造の英文原書を最初に日本語で訳したのは元東大学長でキリスト教徒の矢内原忠雄氏です。日野原先生が昔読んだのも、この矢内原版『武士道』でした。その後、奈良本辰也氏や須知徳平氏、更に、岬龍一郎氏による訳本が続きました。そして、この映画が封切られると、これらの訳本もベストセラーに入ったのです。

『武士道』というと、封建社会のあしき産物のように考えられます。特に第2次世界大戦後、欧米の近代民主主義思想が日本国内に広まり、日本古来の良きモラルまで無視されて来たように思います。

新渡戸博士は英文の初版の序文にこんな話を書いています。ベルギーの法学者ド・ラヴレーと宗教の話になり、「日本の学校では宗教教育がない。どのようにして道徳教育をするのですか」と聞かれ、「その質問に愕然とし、すぐに答えることが出来なかった。なぜなら、私が子供の頃に学んだ人の道たる道徳の教えは、学校で習ったものではなかった」と書いています。そして、善悪や正義の観念を吹き込んだものは武士道だったことに気付いた、ともいうのです。

岬氏の注解によると、新渡戸博士が記した武士道の基本精神では、「義」を最重視し、「義」とは不正卑劣な行動を自ら禁じ、死をも恐れない正義を遂行する精神だ、と言います。

第13章の「刀・武士の魂」には、「武士道の究極の理想は平和である」とあります。「血を流さずして勝をもって最上の勝利とす」戦わずして勝つには、心の修行をする外はありません。枝は末で、心が本です。心の鏡を磨くことが、何ものにもまさる修行の第一です。まさしく、山岡鉄舟の「無刀流」の極意そのものである。

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平和こそ新渡戸博士の願い

岩島久夫氏(元防衛研究所戦史部長、(財)新渡戸基金教育部会専門委員)が私の視点で『武士道』について記されている。

第13章「刀・武士の魂」では「武士道は刀の無分別なる使用を是認するか。答えて曰く、断じて然らず!武士道は刀の正当なる使用を大いに重んじたる如くその濫用を非とし且つ憎んだ」「武士道の究極の理想は結局平和であった」とも説いておられる。

であればこそ、日露講和条約の締結交渉に当たり尽力のあったセオドア・ルーズベルト米大統領も、旧知の金子堅太郎貴族院議員から献呈された『武士道』に感銘を受けたのである。

制度としての武士が消滅した後、博士は「武に重きを置くよりは、平和を理想とし、かつ平和を常態とすることが至当であろう」「武士を理想、あるいは標準とする道徳もこれまた時世遅れであろう。それよりは民を根拠とし標準とし、これに重きを置いて政治も道徳も行う時代が今日まさに到来した」と記し、平和を理想とする「平民道」を繰り返し説かれた。

こう見てくると、新渡戸博士がその生涯を通して訴えたかったことは、武士道そのものの称揚にあるのではなく、今日の武士に相当する社会的指導層、すなわち政策決定に従事する政官財民のリーダーたちの真摯なる平和への取り組みであったことは明らかである。

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17章…武士道の将来

ヨーロッパの騎士道の経験と日本の武士道の経験との間における一つの顕著なる差異は、ヨーロッパにありては騎士道は封建制度から乳離れしたる時、キリスト教会の養うところとなりて新たに寿命を延ばしたるに反し、日本においてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなかったことである。したがって母制度たる封建制度の去りたる時、武士道は孤児として遺され、自ら赴くところに委ねられた。

社会の状態が変化して武士道に反対なるのみでなく敵対的とさえなりたる今日は、その名誉ある葬送の準備をなすべき時である。騎士道の死したる時を指摘する困難は、その開始の正確なる時を決定するの困難なるがごとくである。ミラー博士は曰く、騎士道はフランスのアンリ二世が武芸試合で殺されし1559年をもって公然廃止せられたと。我が国においては1870年(明治3年)廃藩置県の詔勅が武士道の弔鐘(ちょうしょう)を報ずる信号であった。その5年後公布せられし廃刀令は、「代価なくして得る人生の恩寵、低廉なる国防、男らしき情操と英雄的なる事業の保姆」たりし旧時代を鳴り送りて、「詭弁家、経済家、計算家」の新時代を鳴り迎えた。

……日本人の心によって証せられかつ領解せられたるものとしての神の国の種子は、その花を武士道に咲かせた。悲しむべしその十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある。しかして吾人はあらゆる方向に向かって、美と光明、力と慰藉の他の源泉を求めているが、いまだこれに代わるべきものを見いださないのである。功利主義者および唯物主義者の損得哲学は、魂の半分しかない屁理屈屋の好むところとなった。

武士道は一つの独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない。しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃止を超えて長く活くるであろう。その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。百世の後その習慣が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は、「辺路に立ちて眺めやれば」遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。………合掌。

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16章…武士道はなお生くるか

我が国において駸々として進みつつある西洋文明は、すでに古来の訓練のあらゆる痕跡を拭い去ったであろうか。一国民の魂がかくのごとく早く死滅しうるものとせば、それは悲しむべきことである。外来の影響にかくもたやすく屈服するは貧弱なる魂である。

武士道は我が国民特に武士の上に刻印したる性格は「種属の除くべからざる要素」を成すとは言いえないが、その保有する活力については疑いを存しない。仮に武士道が単なる物理力であるとしても、過去七百年間にその獲得したる運動量はそんなに急に停止するをえない。

武士道は一つの無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた。新日本の最も輝かしき先駆者の一人たる吉田松陰が刑に就くの前夜詠じたる次の歌は、日本民族の偽らざる告白であった…”かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ大和魂”…形式をこそ備えざれ、武士道は我が国の活動精神、運動力であったし、また現にそうである。

日本の変豹は全世界周知の事実である。かかる大規模の事業にはおのずから各種の動力が入りこんだが、しかしもしその主たるものを挙げんとせば、何人も武士道を挙ぐるに躊躇しないであろう。全国を外国貿易に開放した時、生活の各方面に最新の改良を輸入したる時、また西洋の政治および科学を学び始めた時において、吾人の指導的原動力は物質資源の開発や富の増加ではなかった。いわんや西洋の習慣の盲目的なる模倣ではなかったのである。

……武士道の日はすでに数えられたように思われる。その将来を示す不吉の徴候が空にある。徴候ばかりでなく、強大なる諸勢力が働いてこれを脅かしつつある。

『武士道』が書かれた百年前に、武士道を示す、”不吉の徴候”があった。徴候ばかりでなく、既に”強大なる諸勢力”があった。著者志村氏は、それらの根源は、夏目漱石が明治44年(1911)8月、和歌山で行った講演「現代日本の開花」に語られている。「西洋の開花は内発的であって、日本の開花は外発的である。……現代日本の開花は皮相上滑りの開花である。」と主張する。そして、21世紀初頭の現代ではどうか。武士道は、ほぼ完全に過去のものとなっている。ほぼ完全に消滅している。それは「戦後日本の四大主義」による、と著者は断じている。

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