小日向台町の新渡戸邸
部屋数が三十以上、床面積一万平方メートル以上もある、優雅な二階建て和洋折衷邸宅が、東京の郊外小石川の小日向台町に位置する新渡戸家は、東京の街を見下ろす小高い丘の上にあり、約四万平方メートルの土地をしめていた。メアリーは庭に、桜、梅、藤など、季節ごとに花を咲かせる木を植えた。庭の一角には、バラ園を配し、彼女の大好きなバラの花を咲かせた。メアリーが園芸用の花の栽培や簡単な菜園の手入れが好きであったことは、札幌時代以来、アメリカの家族に書き送った手紙にあきらかである。
メアリーはまた夫の教え子たちとも知り合いになって、教育の仕事でも協力していた。大正の初期に帝国大学で教えている頃、卒業した一高のの教え子たちが頻繁に小日向台の新渡戸邸を訪れた。その中には鶴見祐輔、前田多門、田島道次、笠間杲雄、岩永祐吉、金井清等、その後それぞれの分野で名をはせることになる人たちがいた。メアリーは彼らとも親しくなっていた。
メアリーと稲造は人をもてなすのが好きで、彼らの家に客がたえることがなかった。著名な外国人が日本を訪れると、いつも新渡戸邸の夕食に招かれた。スタンフォード大学学長だったデービッド・スター・ジョーダン、ブラウン大学学長ウィリアム・フォーンス、ハーバード大学学長チャールズ・エリオット、最初の日本派遣米国教授ハミルトン・メルビーといった面々であった。
結婚した当時から、メアリーは客をもてなす女主人としての役割に大いに気を使っていた。1915年(大正4年)に正式に新渡戸夫妻の養女となったこと子は、母親のメアリーが、「自分は日本人の妻になったのだから、日本の言葉や習慣やきまりを学ばなければいけないと思う」と言っていたことを記憶している。しかしメアリーは日本の作法が身に付かなかった。日本語も、努力はしたが、いくつかの言葉を覚えただけで、話せるようにはならなかった。
新渡戸夫妻は様式の生活スタイルを取り入れていた。稲造は、メアリーが日本の様式に合わせるより、自分が彼女の生活様式に合わせた方がよいと考えた。こと子が新渡戸夫妻にひきとられたのは1905年(明治38年)頃のことであったが、その時彼女が最初に覚えなければならないことは、ナイフとフォークの正しい使い方であった。「私たちの家ではいつも洋風の食事だから」と稲造は説明したという。しかし、たまに特別の機会には和食が出されることもあった。
もう一人の「かけ橋」-新渡戸稲造夫人メアリーの生涯ーより抜粋 ジョージ・オーシロ 著 長尾 輝彦 訳
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