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15章…武士道の感化

武士は全民族の善き理想となった。「花は桜木、人は武士」と、里謡に歌われる。武士階級はは商業に従事することを禁ぜられたから、直接には商業を助けなかった。しかしながらいかなる人間活動の路も、いかなる思想の道も、或る程度においては武士道より刺激を受けざるはなかった。知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった。

武士道はその最初発生したる社会階級より多様の道を通りて流下し、大衆の間に酵母として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。武士道は最初は選良(エリート)の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。しかして平民は武士の道徳的高さまでは達しえなかったけれども、「大和魂」は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った。もし宗教なるものは、マシュー・アーノルドの定義したるごとく「情緒によって感動されたる道徳」に過ぎずとせば、武士道に勝りて宗教の列に加わるべき資格ある倫理体系は稀である。

本居宣長が『敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花』と詠じた時、彼は我が国民の無言の言をば表現したのである。しかり、桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性の表章であった。特に歌人が用いたる「朝日に匂う山桜花」という語に注意せよ。

大和魂は柔弱なる培養植物ではなくして、自然的という意味において野性の産である。それは我が国の土地に固有である。その偶然的なる性質については他の国土の花とこれを等しくするかも知れぬが、その本質においてはあくまで我が風土に固有なる自然的発生である。しかしながら桜はその国産たることが、吾人の愛好を要求する唯一の理由ではない。その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。

薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない。薔薇は桜の単純さを欠いている。さらにまた、薔薇が甘美の下に刺を隠せること、その生命に執着すること強靭にして、時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽つるを選び、あたかも死を嫌い恐るるがごとくであること、その華美なる色彩、濃厚なる香気…すべてこれらは桜と著しく異なる特質である。我が桜花はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くして人を飽かしめない。

しからばかく美しく散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の香気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型(タイプ)であるのか。日本の魂はかくも脆く消えやすきものであるか。…

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14章…婦人の教育および地位

人類の一半を成す女性は往々矛盾の典型と呼ばれる。けだし女性の心の直感的な働きは男性の「算数的な悟性」の理解を超ゆるが故である。「神秘的」もしくは「不可知的」を意味する漢字の「妙」は、「若い」という意味の「少」という字と「女」という字とから成っている。けだし女性の身体の美と繊細なる思想とは男性の粗雑なる心理能力の説明しえざるところだからである。

しかるに武士道における女性の理想には神秘的なるところなく、その矛盾もただ外見的のみである。私はそれを勇婦的であると言ったが、それは真理の半面たるに過ぎない。妻を意味する漢字「婦」は、箒を持てる女を意味する……もっともそれは確かに彼女の配偶者に対して攻撃的もしくは防御的に揮うためではなく、また魔法のためでもなく、箒が最初発明せられたところの無害な用途においてである……かくしてその含意する思想は、英語の妻(wife)が語源的に織る人(weaver)よりいで、娘(daughter)が乳搾り(duhitar)よりいでしと同様に家庭的である。ドイツ皇帝は婦人活動の範囲は台所、教会ならびに子供にありと言われたというが、武士道の女性の理想はこれら三者に限定することなく、著しく家庭的であった。この一見矛盾と思われる家庭的ならびに勇婦的特性は、武士道においては両立せざるものではない。

我が国文学上最も優れたる詩歌の若干は女性の感情の表現であった。じっさい婦人は日本の美文学史上重要なる役割を果たしたのである。舞踊が教えられたのは、ただ動作の角(かど)を滑らかにするためであった。音楽は彼らの父もしくは夫の物憂き時を慰めるためであった。芸道は常に道徳的価値に対し従たる地位に置かれてことを見たのであるが、同一の観念が女子の場合にもまた現れている。音楽、舞踊は生活に優雅と明朗を付加するをもって足りるとなし、決して虚栄奢侈を養うためでなかった。

女子がその夫、家庭ならびに家族のために身を棄つるは、男子が主君と国とのために身を棄つると同様に、喜んでかつ立派になされた。自己否定…これなくしては何ら人生の謎は解決せられない…男子の忠義に置けると同様、女子の家庭性の基調であった。女子が男子の奴隷でなかったことは、彼女の夫が封建君主の奴隷でなかったと同様である。女子の果たしたる役割は、内助すなわち「内側の助け」であった。奉仕の上昇階段に立ちて女子は男子のために己を棄て、これにより男子をして主君のために己れを棄つるをえしめ、主君はまたこれによって天に従わんがためであった。

私はこの教訓の欠陥を知っている。またキリスト教の優越は、生きとし生ける人間各自に向って創造者に対する直接の責任を要求する点に、最も善く現れていることを知る。しかるにもかかわらず奉仕の教義に関する限り…自己の個性をさえ犠牲にして己れよりも高き目的に仕えること、すなわちキリストの教えの中最大であり彼の使命の神聖なる基調をなしたる奉仕の教義…これに関する限りにおいて、武士道は永遠の真理に基づいたのである。

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13章…刀・武士の魂

武士道は刀をその力と勇気の表徴となした。マホメットが「剣は天国と地獄との鍵である」と宣言した時、彼は日本人の感情を反響したに過ぎない。武士の少年は幼年の時からこれを用うることを学んだ。五歳の時武士の服装一式を着けて碁盤の上に立たせられ、これまで玩(もてあそ)んでいた玩具の小刀の代わりに真物の刀を腰に挿すことにより始めて武士の資格を認められるのは、彼にとりて重要なる機会であった。この武門に入る最初の儀式終わりて後、彼はもはや彼の身分を示すこの徴(しるし)を帯びずしては父の門をいでなかった。もっとも日常の佩用(はいよう)には普通銀塗の木刀をもって代用したのであるが、幾年もへずして擬刀(ぎとう)を捨て、たとい鈍刀にせよ常に真正の刀を佩び、しかして新たにえた刀よりも鋭き喜びをもって戸外に進出し、その刃をば木や石に試みる。十五歳にして成年に達し、行動の自由を許さるる時に至れば、いかなる業にも用うるに足る鋭利な刀の所有を誇りうる。この兇器の所有そのものが、彼に自尊ならびに責任の感情と態度を賦与する。「刀は伊達にささぬ」。彼が帯に佩ぶるものは心に佩ぶるもの……忠義と名誉の象徴である。大小二本の刀……大刀小刀、もしくは刀脇差と呼ばれる……は決して彼の身辺を離れず、家にありては書斎客間のもっとも目につきやすき場所を飾り、夜は容易に手の届く所に置かれて彼の枕頭を守る。

……しかるに、常に手の届く所にありしが故に、その濫用に対し少なからざる誘惑があった。平和なる鞘から刀身の閃きいずることしばしばなるに過ぎた濫用の極、時には新たに獲たる刀をば無辜の首に試むるものさえあった。しかしながら我々のもっとも関心する問題はこれである、…武士道は刀の無分別なる使用を是認するか。答えて曰く、断じてしかず!武士道の刀の正当なる使用を大いに重んじるごとく、その濫用を非としかつ憎んだ。場合を心得ずして刀を揮った者は、卑怯者であり法螺吹であった。重厚なる人は剣を用うべき正しき時を知り、しかしてかかる時はただ稀にのみ来る。……「負くるは勝」という俚諺があるが、これは真の勝利は暴敵に抵抗せざることに存するを意味したものである。「血を流さずして勝つをもって最上の勝利とす」。その他にも同趣旨の諺があるが、これらはいずれも武士道の窮極の理想は結局平和であったことを示している。

戦って勝つのは本当の勝ではなく、戦わずして勝つのが本当の勝だといはれています。戦わずして勝つには、心の修行をする外はありません。枝は末で、心が本(もと)です。心の鏡を磨くことが、何ものにもまさる修行の第一です。まさしく、山岡鉄舟の「無刀流」の極意そのものである。

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12章…自殺および復仇の制度

この二つの制度(前者は腹切ハラキリ、後者は敵討カタキウチとして知られている)については、多くの外国著者が多少詳細に論じている。まず自殺について述べるが、私は私の考察をば切腹もしくは割腹、俗にはらきりとして知られているものに限定することを断って置く。これは腹部を切ることによる自殺の意である。

切腹が我が国民の心に一点の不合理性をも感ぜしめないのは、他の事柄との連想の故のみでない。特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信念に基づくのである。……近世の神経学者は腹部脳髄、腰部脳髄ということを言い、これらの部分における交感神経中枢は精神作用によりて強き刺激を受けるとの説を唱える。この精神生理学説がひとたび容認せらるるならば、切腹の論理は容易に構成せられる。「我はわが霊魂の座を開いて君にその状態を見せよう。汚れているか清いか、君自らこれを見よ」。

すでに読者は、切腹が単なる自殺の方法でなかったことを領解せられたであろう。それは法律上ならびに礼法上の制度であった。中世の発明として、それは武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖い、もしくは自己の誠実を証明する方法であった。それが法律上の刑罰として命ぜられる時には、荘重なる儀式をもって執り行われた。それは洗練せられたる自殺であって、感情の極度の冷静と態度の沈着となくしては何人もこれを実行するをえなかった。これらの理由により、それは特に武士に相応しくあった。

かくして吾人は武士道における自殺の制度は、その濫用が一見吾人を驚かすごとくには不合理でもなく野蛮でもなきことを見た。吾人はこれからその姉妹たる報復……もしくは復仇と言ってもよい……の制度の中にも、果たして何らかの美点を有するや否やを見よう。

復仇には人の正義感を満足せしむるものがある。復仇者の推理はこうである。「我が善き父は死する理由がなかった。彼を殺したる者は大悪事をなしたのである。我が父もし存命ならば、かかる行為を寛仮しないであろう。天もまた悪行を憎む。悪を行なう者をしてその業を止めしむるは、我が父の意志であり、天の意志である。彼は我が手によりて死なざるべからず。何となれば彼は我が父の血を流したのであるから、父の血肉たる我がこの殺人者の血を流さぬばならない。彼は倶に天を戴かざる仇である」と。

「目には目を、歯には歯を」。吾人の復仇の感覚は数理力のごとくに正確であって、方程式の両項が満足されるまでは、何事かがいまだなされずして残っているとの感を除きえないのである。

武士道に対し倫理的衡平裁判所の一種として敵討の制度を与え、普通法に従っては裁判せられざるごとき事件をここに出訴するをえしめた。四十七士の主君は死罪に定められた。彼は控訴すべき上級裁判所をもたなかった。彼の忠義なる家来たちは、当時存在したる唯一の最高裁判所たる敵討に訴えた。しかして彼等は普通法によって罪に定められた、……併し民衆の本能は別個の判決を下した、これがため彼等の名は泉岳寺なる彼らの墓と共に今日に至るまで色みどりにまた香ばしく保存されている。

老子は怨みに報いるに徳をもってすと教えた。しかし正義をもって怨みに報ずべきことを教えたる孔子の声の方が遥かに大であった。……しかしながら復讐はただ目上の者もしくは恩人のために企てられる場合においてのみ正当であるとなされた。

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11章…克己

一方において勇の鍛錬は呟(つぶや)かずして忍耐することを銘記せしめ、他方において礼の教訓は我々自身の悲哀もしくは苦痛を露(あらわ)すことにより他人の快楽もしくは安静を害せざるよう要求する。この両者が相合してストイック的心性を産み、遂に外見的ストイック主義の国民的性格を形成した。私が外見的ストイック主義というわけは、真のストイック主義は一国民全体の特性となりえざることを信ずるが故であり、また我が国民の作法および習慣中外国人の観察者に無情と映ずるものがあるかもしれないからである。しかしながら我が国民はじっさい天下のいかなる民族にも劣らず優しき情緒に対して敏感である。

日本人は、人性の弱さが最も酷(きび)しき試練に会いたる時、常に笑顔を作る傾きがある。我が国民の笑癖についてはデモクリトスその人にも優る理由があると、私は思う。けだし我が国民の笑いは最もしばしば、逆境によって擾(みだ)されし時心の平衡を快復せんとする努力を隠す幕である。それは悲しみもしくは怒りの平衡錘である。

克己の修養はその度を過しやすい。それは霊魂の溌剌たる流れを抑圧することがありうる。それはすなおなる天性を歪めて偏狭畸形となすことがありうる。それは頑固を生み、偽善を培い、情感を鈍らすことがありうる。いかに高尚なる徳でも、その反面があり偽者がある。吾人は各個の徳においてそれぞれの積極的美点を認め、その積極的理想を追求しなければならない。しかして克己の理想とするところは、我が国民の表現に従えば心を平かならしむるにあり、或いはギリシャ語を借りて言えば、デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤ(明朗闊達さ)の状態に到達するにある。吾人は次に自殺および復仇の制度を考察しようとするのであるが、その前者において克己の極致は達せられ、かつ最も善く現れている。

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10章…武士の教育および訓練

武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。美的のたしなみが武士の教育上重要なる役割を占めることは、前に述べた。それは教養ある人に不可欠ではあったが武士の訓練上本質的というよりもむしろ付属物であった。知的優秀はもちろん貴ばれた。しかしながら知性を表現するために用いられる「知」という語は、主として叡智を意味したのであって、知識には極めて付属的地位が与えられたに過ぎない。武士道の骨組を支える鼎足は智・仁・勇であると称せられた。武士は本質的に行動の人であった。学問は彼の活動の範囲外にあった。彼は武士の職分に関係する限りにおいて、これを利用した。宗教と神学とは僧侶に任され、武士は勇気を養うに役立つ限りにおいてこれに携わったに過ぎない。

武士道において節倹が教えられたことは事実であるが、それは経済的の理由によるというよりも、克己の訓練の目的にいでたのである。奢侈は人に対する最大の脅威であると考えられ、しかして最も厳格なる質素の生活が武士階級に要求せられ、奢侈の禁令は多くの藩において励行せられた。

武士道は一貫して理財の道をば卑(ひく)きもの…道徳的および知的職務に比して卑きものと看做すことを固執した。かくのごとく金銭と金銭欲とをつとめて無視したるにより、武士道は金銭に基づく凡百の弊害から久しく自由であることを得た。これは我が国の公吏が久しく腐敗から自由であった事実を説明する十分なる理由である。しかしああ!現代における拝金思想の増大何ぞそれ速やかなるや。

知識でなく品性が、頭脳でなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である」。この観念をもってするが故に、師たる者の受くる尊敬は極めて高くあった。かかる信頼と尊敬とを青少年より呼び出すほどの人物は、必然的に優れたる人格を有しかつ学識を兼ね備えていなければならなかった。彼は父亡き者の父たり、迷える者の助言者であった。語に曰く、「父母は天地ごとく、師君は日月のごとし」[『実語教』]と。

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9章…忠義

封建道徳中他の諸徳は他の倫理体系もしくは他の階級の人々と共通するが、この徳……目上の者に対する服従および忠誠……は截然としてその特色をなしている。人格的忠誠はあらゆる種類および境遇の人々の間に存在する道徳的結びつきであることを、私は知っている、…掏模(すり)の一団もフェイギンに対して忠誠を負う。しかしながら忠誠が至高の重要性を得たのは、武士的名誉の掟においてのみである。

頼山陽は彼の偉大なる『日本外史』において、父の叛逆行為に関する平重盛胸中の苦闘をば、惻々たる言葉をもって述べている。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」。哀れむべし重盛!彼れの後、魂を傾けて死を天に祈り、純潔と正義の住み難きこの世より開放せられんことを願いしを見るのである。多くの重盛が義務と人情との衝突によりて心を裂かれた。……しかるにもかかわらず右のごとき衝突の場合において、武士道は忠を選ぶに決して逡巡しなかった。

武士道は、我々の良心を主君の奴隷となすべきことを要求しなかった。……主君の気紛れの意志、もしくは妄念邪想のために自己の良心を犠牲にする者に対しては、武士道は低き評価を与えた。かかる者は「佞臣」すなわち腹黒き阿諛をもって気に入ることを求むる奸徒として、或いは「寵臣」すなわち卑屈なる追従によりて主君の愛を盗む嬖臣として賤しめられた。これら二種の臣下はイアゴーの語るところと正確に一致している。……一は「我が身を繋ぐ頸の綱を押し戴き、主が厩の驢馬同然、むざむざ一生を仇に過ごす、正直な、はいつくばいの患者」であり、他は「陽に忠義らしき身振り業体を作り立て、心の底では我が身のためばかりを図る者」である。臣が君と意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の途はリア王に仕えしケントのごとく、あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった。容れられざる時は、主君をして欲くするがままに我を処置せしめよ。かかる場合において、自己の血を濺いで言の誠実を表わし、これによって主君の明智と良心に対し最後の訴えをなすは、武士の常としたるところであった。生命はこれをもって主君に仕うべき手段なりと考えられ、しかしてその理想は名誉に置かれた。したがって武士の教育ならびに訓練の全体はこれに基づいて行われたのである。

明君への臣下の「諫言」を求めたのであるが、主君が、この諫言を受けつかなかった場合にはどうなるのか。その場合には、「押込め」という慣行が武士社会にあった。これは元来、江戸時代の刑罰の一つで、屏居させて出入を禁ずる形であった。しかし、重臣たちが主君を「御家(藩)」のため不適格と考えた場合には、武力をもってしても強制的に、その主君を座敷牢などに幽閉したり、隠居させて、別の主君を立ててしまうことも「押込め」であった。これは、決して謀叛、悪逆の行為ではなく、家臣の正当の手段として認められていたのである。

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8章…名誉

「名誉の感覚は人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。従ってかの生まれながらにして自己の身分に伴う義務と特権とを重んずるを知り、かつその教育を受けたる武士を、特色づけずしては措かなかった。今日honourの訳語として通常用いらるる「名誉」という語こそ自由に使用されなかったが、その観念は「名」、「面目」、「外聞」等の語によりて伝えられた。………

廉恥心は少年の教育において養成せらるべき最初の徳の一つであった。「笑われるぞ」「体面を汚すな」「恥ずかしくないか」等は、非を犯せる少年に対して正しき行動を促すための最後の訴えであった。少年の名誉心に訴うることは、あたかも彼が母胎の中から名誉をもって養われていたかのごとく、彼の心情の最も敏感なる点に触れたのである。けだし名誉は強き家族的自覚と密接に結ばれているが故に、真に出生以前の感化である。」

”名誉”と”恥”は裏表の関係にある。”名誉”が尊ばれない世の中では、必然的に”恥”が横行するのだが、”名誉”が曖昧になれば、それに応じて、”恥”も曖昧になるわけで、”恥”を恥と思わなくなってしまうことになる。廉恥心は「恥を知る心」である。恥を恥とも思わないことを破廉恥という。

ルース・ベネディクト著の『菊と刀』で、内面の善悪に絶対の基準を持つ欧米の「罪の文化」に対し、内面の確固たる基準を欠き、他者からの評価を基準として行動が律せられるという日本の文化を「恥の文化」と呼んだ。しかし、武士は「内面に確固たる基準を欠き、他者からの評価を基準として行動を律」しているわけではない。武士は”恥”の確固たる基準を内面に持っているのである。新渡戸博士は、それは「強き家族的自覚と密接に結ばれているが故に、真に出生以前の感化である。」という。

世間の評判を気にするような「名誉」は本当の名誉ではない。それは、虚栄、世俗的賞讃と呼ぶべきものである。名誉が忠実であるべき相手は誰か。誰に対して恥にならぬようにすべきなのか。それは、キリスト教では「神」であり、儒教では「天」である。西郷隆盛は「啓天愛人」、また夏目漱石は「則天去私」という言葉の中に「天」を入れている。我々は小さい頃、よく「オテントサマが見ているよ」とか「オテントサマに申しわけない」という言葉を聞いたものである。この”オテントサマ”は”御天道様”であり、「天」なのである。

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7章…誠

信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。………孔子は『中庸』において誠を崇(たつと)び、これに超自然力を賦与してほとんど神と同視した。曰く、「誠は物の終始なり、誠ならざれば物なし」と。彼はさらに誠の博厚にして悠久たる性質、動かずして変化を作り、無為にして目的を達成する力について、滔々と述べている。

「誠」という漢字は「言」と「成」との結合であり、人をして新プラトン学派のロゴス説との類似を思わしむるものがある。…かかる高さにまで、孔子はその非凡なる神秘的飛翔をもって達したのであった。

虚言遁辞はともに卑怯と看做された。武士の高き社会的地位は、百姓町人よりも高き信実の標準を要求した。「武士の一言」…ドイツ語のリッターヴォルトRitterwortは正確にこれに当る。…と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。

武士は然諾を重んじ、その約束は一般に証書によらずして結ばれかつ履行せられた。証文を書くことは、彼の品性に適わしくないと考えられた。「二言」すなわち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている。

虚言は「他人をあざむく言葉」、遁辞は「責任逃れの言葉」であり、そのような言葉を吐くのは卑怯である。少なくとも武士に許されることではない。したがって、「武士の一言」は真実を保証するものであり、「武士の二言(二枚舌)はない」のである。武士は、自分の「一言」を命に替えても実行するのを旨とするから、武士社会においては、町人社会におけるような「証書」あるいは「証文」は不要である。そのようなものを書くことは、武士の品位を汚すものである。

多くの高潔にして正直なる武士は新しくかつ不慣れなる商工業の領域において狡猾なる平民の競争者と競争するに際し、全然駆け引きを知らぬがため快復し難き大失敗を招き、彼らの運命につて、見る目あるものは泣いても泣き足らず、感ずる心あるものは同情しても、したりなかったのである。アメリカのごとき実業国にありてさえ実業家の80パーセントは失敗するということだから、実業に就きし武士にして新職業に成功せし者が百人中辛うじて一人であっても、驚くに足りぬではないか。武士道の道徳を商取引に適用せんとの試みにおいて幾ばくの財産が破滅したかを認めるには、時を要するであろう。しかしながら富の道は名誉の道でないことは、誰が観てもすぐに解った。しからば両者の差異はいかなる点に存したか。

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6章…礼

作法の慇懃鄭重は日本人の著しき特性として外人観光者の注意を惹くところである。もし単に良き趣味を害うことを恐れてなされるに過ぎざる時は、礼儀は貧弱なる徳である。真の礼はこれに反し、他人の感情に対する同情的思いやりの外に現われたるものである。それはまた正当なる事物に対する正当なる尊敬を意味する。何となれば社会的地位は何ら金権的差別を表すものでなく、本来は実際の価値に基づく差別であったからである。

礼の最高の形態はほとんど愛に接近する。吾人は敬虔なる心をもって「礼は寛容にして慈悲であり、礼は妬まず、礼は誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず」と言いうるであろう。」

「最も著名なる礼法の流派たる小笠原流宗家[小笠原清務]の述べたる言葉によれば「礼道の要は心を練るにあり、礼をもって端坐すれば兇人剣を取りて向うとも害を加えること能わず」と言うにある。換言すれば絶えず正しき作法を修むることにより、人の身体のすべての部分および機能に完全なる秩序を生じ、身体と環境とが完く調和して肉体に対する精神の支配を表現するに至る、と言うのである。」

「茶の湯は礼法以上のものである……それは芸術である。……礼儀はたとい挙動に優美を与えるに過ぎずとしても、大いに裨益するところがある。しかるにその職能はこれに止まらない。礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、他人の感じに対する優しき感情によって動くものであるから、常に同情の優美なる表現である。礼の吾人に要求するところは、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことである。」

茶道が武士のたしなみの一つとなったのは室町時代末期、襌の影響を受けてからであるが、常に死を覚悟しておかねばならない武士にあっては「一期一会」の精神は誠に説得力がある。つまり、茶席に臨む者は巡り合う機会が一生に一度であると覚悟し、主人にも客にも誠心誠意の緊張と真剣さを求める言葉である。

この言葉の語源は、茶道の大成者であ千利休(1522-1591)の弟子である山上宗ニ(1544-1590)の『山上宗ニ記』にある「一期に一度の会」であり、これを「一期一会」としたのは幕末の大老であり、有名な茶人でもあった井伊直弼(1815-1860)といわれている。

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5章…仁・惻隠の心

愛・寛容・愛情・同情・憐憫は古来最高の徳として、すなわち人の霊魂の属性中最も高きものとして認められた。それは二様の意味において王者の徳と考えられた。すなわち高貴なる精神に伴う多くの属性中王位を占むるものとして王者的であり、また特に王者の道に適(ふさ)わしき徳として王者的であった。慈悲は王冠よりも善く王者に似合うとか、慈悲は王笏をもってする支配以上であるとか、これを言葉に表現するにはシェイクスピアを必要としたが、これを心に感ずるにはあえて彼を要せず、世界各国民皆これを知ったのである。

孔子も孟子も、人を治むる者の最高の必要条件は仁に存することを繰り返した。孔子曰く、「君子はまず徳を慎む、徳有ればこれ人有り、人有ればこれ土有り、土有ればこれ財有り、財有ればこれ用あり、徳は本也、利は末也」と『大学』。また曰く「上仁を好みて下義を好まざる者はいまだ有らざるなり」と『大学』

孟子はこれを祖述して曰く、「不仁にして国を得る者はこれ有り、不仁にして天下を得る者はいまだこれ有らざるなり」と。また曰く、「天下心服せずして王たる者はいまだこれ有らざるなり」と。孔孟共に、この王者たる者の不可欠要件を定義して、「仁とは人なり」と言った。『中庸』。

「惻隠」の「惻」は「いたむ、かなしむ、うれえる、あわれむ」の意味であり、この場合の「隠」は「惻」と同じような「いたむ、うれえる」の意味である。古今東西、上に立つ者、王者にとって、何よりも必要なのは「仁、惻隠の心、慈悲」なのである。

「仁は柔和なる徳であって、母の如くである。真直ぐなる道義と厳格なる正義とが特に男性的であるとすれば、慈悲は女性的なる柔和さと説得性とをもつ。我々は無差別的なる愛に溺れることなく、正義と道義とをもってこれに塩つくべきことを誡められた。伊達政宗が「義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる」と道破せる格言は、人のしばしば引用するところである。

幸いにも慈悲は美であり、しかも稀有ではない。「最も剛毅なる者は最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なるものである」とは普遍的に真理である。

「武士の情」という言は、直ちに我が国民の高貴なる情感に訴えた。武士の仁愛が他の人間の仁愛と種別的に異なるわけではない。しかし武士の場合にありては愛は盲目的の衝動ではなく、正義に対して適当なる顧慮を払える愛であり、また単に或る心の状態としてのみではなく、生殺与奪の権力を背後に有する愛だからである。」

「これらの優美なる感情を外に表現するため、否むしろ内に涵養するがため、武士の間に詩歌が奨励せられた。それ故に、我が国の詩歌には悲壮と優雅の強き底流がある。…優雅の感情を養うは、他人の苦痛に対する思いやりを生む。しかして他人の感情を尊敬することから生ずる謙譲・慇懃の心は礼の根本をなす。」

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4章…勇・敢為堅忍の精神

勇気は義のために行われるのでなければ徳の中に数えられるにほとんど値しない。孔子は『論語』において、その常用の論法に従い消極的に勇の定義を下して、「義を見てなさざるは勇なきなり」と説いた。

この格言を積極的に言い直せば「勇とは義(ただ)しき事をなすことなり」である。あらゆる種類の危険を冒し、一命を殆(あやう)くし、死の顎(あざと)に飛び込む…これらはしばしば勇気と同一視せられ、しかして武器をとる職業においてはかかる猪突的行為…シェイクスピアが呼んで「勇気の私生児」と言えるものが不当に喝采せられた。

しかしながら武士道にありてはしからず、死に値せざる事のために死するは、「犬死」と賤しめられた。プラトンは勇気を定義して「恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり」と言ったが、プラトンの名を聞いた事さえなかった水戸の義公も、「戦場に駆け入リて討死するはいとやすき業にていかなる無下の者にてもなしえらるべし。生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の勇とはいうなり」と言っている。

西洋において道徳的勇気と肉体的勇気との間に立てられた区別は、我が国民の間においても久しき前から認められていた。いやしくも武士の少年にして、「大勇」と「匹夫の勇」とについて聞かざりし者があろうか」

”大勇”(まことの勇気、大事に当って奮い起こす勇気)と”匹夫の勇”(思慮分別なくただ血気にはやる勇気、小勇)とをはっきりと区別しなければならない。武士道において、匹夫の勇のために死ぬのは「犬死に」と賤しめられたのである。

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3章…義

義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。武士にとって卑劣なる行動、曲りたる振舞いほど忌むべきものはない。義の観念は誤謬であるかも知れない───狭隘であるかも知れない。

或る著名の武士[林 子平]は、これを定義して決断力となした。曰く「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり、死すべき場所に死し、討つべき場所に討つ事なり」と。また或る者[真木和泉]は次の如く述べている。「節義は例えていわば人の体に骨あるがごとし。骨なければ首も正しく上にあることを得ず、手も動くを得ず、足も立つを得ず。されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ世に立つことを得ず、節義あれば不骨不調法にても武士たるだけのこと欠かぬなり」と。義は簡単な概念ではないが、一般的な意味は「道理、条理、人間の行うべき筋道」である。ここで「人間の行うべき筋道」とは何ぞや、ということである。

この章のタイトルは"Rectitude or Justice"となっており、日本の武士道における「義」を"Rectitude"は原理的あるいは実践的”正しさ”を意味する語であり、"Justice"は”正義、道義、公正”である。武士にとって「義」に反するのは”卑劣なる行動”であり”曲りたる振舞”である。

仙台藩の林子平は”寛政の三奇人”の一人といわれた経世家で、有名な『海国兵談』の著者である。一方、真木和泉(守)は蛤御門の変(1864)に敗れて天王山で自刃した幕末の志士である。林子平は「義」を勇気ある「決断力」と定義した。『論語』の中の「義を見てせざるは勇無きなり」という言葉を思い起こされる。

「義と勇とは双生児の兄弟であって、共に武徳である。しかし勇について述べるに先立ち、私はしばらく「義理」について述べよう。これは「義」からの分岐と見るべき語であって、始めはその原型から僅かだけ離れたに過ぎなかったが、次第に距離を生じ、ついに世俗の用語としては、その本来の意味を離れてしまった。義理という文字は「正義の道理」の意味であるが、時をふるに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになったのである。その本来の純粋なる意味においては、義理は単純明瞭なる義務を意味した…したがって我々は両親、目上の者、目下の者、一般社会、等々に負う義理ということを言うのである。これらの場合において義理は義務である。何となれば義務とは「正義の道理」が我々になすことを要求し、かつ命令するところ以外の何ものでもないではないか、「正義の道理」は我々の絶対命令であるべきではないか」

「義理を果たすこと」「義理を返すこと」は結果的に本意であり、愉快、嬉しいことなのである。それはまさしく”情誼”の一つなのである。西欧の「合理主義」から考えれば、「不本意ながらすること」=「不愉快なこと」という単純な式が成り立つのかも知れないが、日本人の心としては、そのような「合理主義」を排することが合理なのである。

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2章…武士道の淵源

武士道という言葉からすぐ連想されるのが『葉隠』であり、「武士道と云は死ぬ事と見付けたり」佐賀藩の山本常朝の「語録」であるが、この言葉によって現代日本人の多くが、武士道を”死に急ぎの哲学”と誤解したのである。武士が”死に急”いでは失格なのである。武士の第一の義務は、その国(藩、領土)を守り、主君に忠節を尽くすことだから、武士は最後の最後まで生き延びなければならないのである。死に急いでは、その義務を果たせない。「武士たる者、悟りを開き、いつ死んでも悔いることのないよう、立派に生きろ」という”立派の生”のあり方を説いているのであろう。

「厳密なる意味においての道徳的教義に関しては、孔子の教訓は武士道の最も豊富なる淵源であった。君臣・父子・夫婦・長幼ならびに朋友間における五倫の道は、経書が中国から輸入される以前からわが民族的本能の認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない。政治道徳に関する彼の教訓の性質は、平静仁慈にしてかつ処世の智慧に富み、治者階級たる武士には特に善く適合した。孔子の貴族的保守的なる言は、武士たる政治家の要求に善く適応したのである」

「君臣の義・父子の親・夫婦の別・兄弟の長幼の序・朋友の信」また孔子、孟子の儒学は、人が常に守るべき五つの道徳、つまり「五常(仁・義・礼・智・信)」も説いており「五倫」「五常」は武士道の骨格になっている。孔孟の儒教思想は江戸時代に朱子学として武士階級に多大の影響を与えた。そして儒教の教えが、”武士道の最も豊富なる淵源”であった。

武士とは”武力をもって公的に奉仕する武者”であり、合戦を”職業”とする兵であった。江戸時代は戦国時代と異なり、太平(泰平)の時代であった。明暦二年(1656)山鹿素行は”士(さむらい)”の本分について「農・工・商は天下の三つの宝である。士が農・工・商の働きもないのに、これら三民の長としていられるのはなぜか。それはほかでもない、みずからの身を修め心を正しくし、すすんでは国を治め天下を平和に保つからである」武士は庶民の範である。支配階級である武士は、三民の模範となるべく、正義を貫き私欲に走らず、自分の言葉、約束は命懸けで守り、不正や名誉のためには死をもってあがなうことが義務づけられたのである。そのために武士に求められた徳目は「忠誠・犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛」ということになる。

「孔子を知的に知っているに過ぎざる者をば、「論語読みの論語知らず」と嘲る俚諺がある。典型的なる一人の武士「西郷南洲」は、文学の物識をば書物の蟲と呼んだ。また或る人は「三浦梅園」は学問を臭き菜に喩え、「学問は臭き菜のようなり、能く能く臭みを去らざれば用いがたし。少し書を読めば少し学者臭し、余計書読めば余計学者臭し、こまりものなり」

武士道は知識それ自体を目的として求むべきではなく、叡智獲得の手段として求むべきであるとなした。それ故に、この目的にまで到達せざる者は、注文に応じて詩歌名句を吐きだす便利な機械に過ぎざるものとみなされた。かくして知識は人生における実践躬行と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明において最大の説明者を見いだした。彼は知行合一を繰り返して倦むところを知らなかったのである」

武士道に直接的な影響を及ぼしたのは、江戸時代中期に浸透した王陽明(1472-1528)の思想(陽明学)の「知行合一説」であった。それは「知」は「行」のもとであり、「行」は「知」の発現である、とする実践の哲学である。武士道はこの「知行合一」を重視するものであり、頭でっかちな「知識人」は疎んじられた。

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1章…道徳体系としての武士道

「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。

それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。

ヨーロッパにおいてこれと姉妹たる騎士道(シヴァリー)が死して顧みられざりし時、ひとりバーグ(英国の政治家、文学者・1790年著作「フランス革命についての省察」の中の「騎士道的社会の破壊」)は、その棺の上にかの周知の感動すべき讃辞を発した。いま彼バークの国語(英語)をもってこの問題についての考察を述べることは、私の愉快とするところである」

武士道の姉妹たる騎士道は中世ヨーロッパでキリスト教の影響を受けながら発達した騎士特有の気風を示すものである。そして、主としてフランス、ドイツ、イギルスの三国で十二世紀以降、騎士道物語が栄えるのであるが、それも十五世紀半ばには衰退してしまっていた。

セルバンテス(1547-1616)が十七世紀初頭に発表した小説「ドン・キホーテ」(才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ)は聖書に次ぐ、ベストセラーといわれるほど世界的に読まれ”古典的小説”である。

騎士道の第一の条件は”女性崇拝”にある。騎士は常に”想い姫”を胸中に抱きその理想の高貴の女性に対して命をも惜しまない”勇気”を持っていることが必要なのである。

だから、かのドン・キホーテは「まず、何代か前の古鎧をさがしだして、これを掃除したり、兜に厚紙で面をとりつけたりした後、飼い置きの痩馬にロシナンテという立派な名をつける。それから、自分も騎士らしく、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにしたものの、最後に、全身全霊を捧ぐべき想い姫が入要なことに気付いて、思案のあげく余り遠くないエル・トボーソという村に、アルドンサ・ロレンソなる小綺麗な百姓娘がいたことを思いだし、これを我が想い姫ときめて、ことわりもなく名をドニャ・ドゥルシネーァ・デル・トボーソと変えてしまうのであります。女性に対する態度に関する限り日本の武士道に”女の影”がさすことは全くない。それどころか「女に心を動かす」など「武士の風上にもおけぬこと」なのであります。

「ヨーロッパと日本の封建制及び騎士道の歴史的なる比較論は興味あることではあるが、詳細にわたりてこれに立ち入ることは本書の目的ではない。私の試みはむしろ第一に我が武士道の起源および淵源、第二にその特性および教訓、第三にその民衆に及ぼしたる感化、第四にその感化の継続性、永久性を述べるにある」

「武士道は上述のごとく道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない。精々、口伝により、もしくは数人の有名なる武士、もしくは学者の筆によって伝えられたる僅かな格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが多い。不言不文であるだけ、実行によって一層力強き効力を認められているのである。それは、いかに有能なりといえども一人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なりといえども一人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である」

武士は大なる名誉と大なる特権と、それらに伴大なる責任を持つ”特権階級”であった。大切なことは、彼らが”大きな特権”と同時に”大いなる責任”を持っていたことである。これが”身分に伴う義務”つまり”Noblesse Oblige”(ノーブレス・オブリージ)というものである。武士は特権階級であるが故に”行動の共通規準”新渡戸稲造の言葉で「戦闘におけるフェア・プレイ!」が必要であったし、そのことが武士道の確立につながったのである。

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「武士道」はなぜ書かれたか、

メリー夫人が日本の風習や思想についてしばしば新渡戸稲造に質問したことも動機になったようです。療養中、気分が良いとき、新渡戸が口述するのを、友人でもあり秘書であったアンナ・ハーツホーンが書き取ったものが、後に世界的名著となる”BUSHIDO”の原型であった。

序文には「約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過したが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れ得ない。

当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見出したのである。

この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによるのである。

私はド・ラヴレー氏並びに私の妻に満足なる答えを与えようと試みた。しかし封建制度および武士道を解することなくば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし巻物であることを知った。」新渡戸稲造が『武士道』を執筆するきっかけになった有名な逸話が述べられています。

欧米人の”常識”からすれば、人間としての矜持、道徳を育むのが宗教・宗教教育である。立派な日本人を知る彼らが「日本には宗教教育がない」と聞けば、驚くのも当然であろう。日本人に道徳、正邪善悪の観念を形成させているのが武士道であることに、新渡戸稲造は気付いたのであった。

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新渡戸稲造と武士道

武士道は…桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。(中略)封建制度の子たる武士道の光は、その母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。「矢内原忠雄訳」

明治32年(1899)37歳の新渡戸稲造が書いた英文の「武士道…日本の魂」(Bushido, the Soul of Japan)1900年世界的なベストセラーとなった。セオドア・ルーズベルト大統領が日露戦争の仲介を決心したきっかけにもなりました。

仏教の慈悲心、神道の忍耐心、儒教の道徳心、この3つが日本の魂の源であるという分析は、もともと外国人を対象とした本でしたが、時空を経て今日の日本人にも感じ入る内容ではないか。仏教からは、運命への信頼・静かな服従・禁欲的平静さ・死への親近感を学び、神道からは主君への忠誠・祖先への崇敬・孝心を学び、儒教からは君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の五つの倫理的関係を学んだと説明する。

西洋における騎士道を例にとって、武士道を人間集団に共通するひとつのエースト(道徳的な慣習)として説明している。新渡戸稲造は世界各国の文化や歴史などを熟知した上で、日本人の精神としての「武士道」というものを人類史の中の大きな流れの中で捉え直し、そこから西洋人にも十分に理解できる普遍的な思考法として定義付けていることになる。その後、英語で書かれたこの著は日本語はもちろん、ドイツ語、フランス語、ロシア語などに翻訳され、世界の人々に日本人の精神の高潔なることを大いに広めることになったのでした。(一時的な不幸な時代を除けば…)

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新渡戸稲造と地方(じかた)学

明治25年(1892)新渡戸稲造(30才)は、「札幌沿革史」農学校の学芸会誌に「地方学」を寄稿。永田方正(農学校、北鳴学校嘱託教師)道庁官吏「北海道蝦夷語地名解」。高畑宜一「小樽港史」。以上の方々が札幌史学会の発起人で、第二条には「広ク史学ヲ研究スルニアリト雖モ特ニ北海道ノ歴史・地理ヲ究ムヲ以テ目的トス」と記載されています。

自然環境の中での人間の立場はどこにあるのか、その中で人間は自然にどう働きかけられるのか西欧の郷土論を日本に紹介したのは、「地理学」の初期の学者たち、なかでも当時の人々に啓蒙的な役割をはたしていた内村鑑三でした。内村鑑三は明治27年(1894)に『地人論』を著し、リッターの考えを引きながら「郷土と政治は、地理学を出発点にして語られなければならない」と説きました。この考え方は、同じ札幌農学校の新渡戸稲造、柳田国男らに影響をあたえました。ドイツ留学の経験もある新渡戸は、早くからドイツにおける「郷土保護(Heimat Kunst)」の考え方に共鳴し、都市化の波に揺れる当時の農村が個性をもって自立するためには郷土保護の考え方が必要だと述べていました。

地方(じかた)学【Ruriology(ルリオロジー)】…Ruris(田舎)とLogos(学問)の造語、農業本論の地方研究、柳田国男と郷土会(地方・民家・村落形態・地割・俚歌童謡の調査研究)「一村一郷の事を細密に学術的に研究して行かば国家社会の事は自然と分かる道理である。」明治40年の第二回報徳例会の講演で「地方の研究」について自らの考えを述べることになります。

明治30年(1897)35才新渡戸稲造は、農学校を退官し群馬県伊香保で静養中に出版した『農業本論』で、農民の風俗・人情まで踏み込んだ農村の全体性、また近代化の進行にともない農村の対極に位置付けられる都市、この都市をも包含した一地域が、稲造が総合学としての地方学の基本単位で思考せられるのです。

新渡戸の先輩農学校総長一期生の佐藤昌介は寄宿舎時代の稲造を「読書家で神学上の懐疑に陥り憂鬱な人間となり、その時解決を得が為何か慰藉を得ようとして益々読書に耽ったのであります。我々はその時君の陰気な不活発な状態に陥ったのに対し君を叫んで「モンク」と綽名しました。また君自身も卒業後何年となく手紙に必ず「モンク」と自著したものであります。」と後年語っておられます。

昭和六年(1931)六月、第二期卒50周年祝賀会が札幌で同期の生存者、新渡戸稲造・宮部金吾・町村金彌・南鷹次郎、一期生佐藤昌介出席で行われました。この時稲造は「年経ても 変らぬものは 友垣の 昔を偲ぶ 情なりけり」と和歌を詠みました。

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深い人類愛に満ちた、遠友夜学校

新渡戸稲造が故国に帰ってきたのは、1891(明治24年)2月9日のことで明治17年22才で日本を離れてアメリカ、ドイツ留学から7年振りの帰札であり年齢も29歳となり萬里子夫人(メリー・P・エルキントン)を同伴しての帰国でした。

萬里子夫人の実家エルキントン家は、米国のフィラデルフイア市に住む開拓当時からの旧家でフレンド(Friend)派に属する熱心な清教徒でありました。頗る慈善心に富み、世話好きで、困っている人々を助けるのが道楽みたいな、愛の実践者でありました。

孤児院から引き取られ14歳から家族の一人として育てられていた女性がエルキントン家に仕え60余歳を以って没しました。その人の遺産の一部1000ドルが姉妹同様に育った萬里子夫人に贈られてきました。

当時札幌の豊平河畔の貧民部落に、独立基督教会の有志が経営していた日曜学校がありました。付近の児童らを集めて神の道を教える傍ら、一種のセッツルメント的事業でした。教会は創立当時の教頭ウィリアム・S・クラーク博士の導きによって、キリスト教の洗礼を受けた農学校の卒業生を中心としてつくられました。

稲造と萬里子夫人は、贈られてきた遺産1000ドルでこの学校を買い取り、稲造の夢であった夜学校を経営、1894(明治27年)1月から自らも得意の修身講話をしました。「学問より実行」とリンカーンの「すべての人に慈愛をもって」を根本に、他人への思いやりをもって実行できる人づくりを行い、論語の『朋有り遠方より来る、亦楽しからずや』の語をとり、遠友夜学校と名付けられ新渡戸教授が札幌を去った後も、その友、その教え子によって永く受け継がれ北海道最初のボランティア(社会事業)の一つとして、昭和19年国家総動員の名に於いて閉校を命ぜられるまで50年にわたって、家庭の事情などで、勉強がしたくても学校に行けなかった青少年たちに、男女の別なく無料で受講し許し多くの人材を世に送りました。

新渡戸教授・萬里子夫人は終身この学校の校長としてこの事業を支持し、また最後までその中心になった者は、その教え子でありその精神を受け継いだ人達でありました。

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