15章…武士道の感化
武士は全民族の善き理想となった。「花は桜木、人は武士」と、里謡に歌われる。武士階級はは商業に従事することを禁ぜられたから、直接には商業を助けなかった。しかしながらいかなる人間活動の路も、いかなる思想の道も、或る程度においては武士道より刺激を受けざるはなかった。知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった。
武士道はその最初発生したる社会階級より多様の道を通りて流下し、大衆の間に酵母として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。武士道は最初は選良(エリート)の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。しかして平民は武士の道徳的高さまでは達しえなかったけれども、「大和魂」は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った。もし宗教なるものは、マシュー・アーノルドの定義したるごとく「情緒によって感動されたる道徳」に過ぎずとせば、武士道に勝りて宗教の列に加わるべき資格ある倫理体系は稀である。
本居宣長が『敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花』と詠じた時、彼は我が国民の無言の言をば表現したのである。しかり、桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性の表章であった。特に歌人が用いたる「朝日に匂う山桜花」という語に注意せよ。
大和魂は柔弱なる培養植物ではなくして、自然的という意味において野性の産である。それは我が国の土地に固有である。その偶然的なる性質については他の国土の花とこれを等しくするかも知れぬが、その本質においてはあくまで我が風土に固有なる自然的発生である。しかしながら桜はその国産たることが、吾人の愛好を要求する唯一の理由ではない。その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。
薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない。薔薇は桜の単純さを欠いている。さらにまた、薔薇が甘美の下に刺を隠せること、その生命に執着すること強靭にして、時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽つるを選び、あたかも死を嫌い恐るるがごとくであること、その華美なる色彩、濃厚なる香気…すべてこれらは桜と著しく異なる特質である。我が桜花はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くして人を飽かしめない。
しからばかく美しく散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の香気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型(タイプ)であるのか。日本の魂はかくも脆く消えやすきものであるか。…
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