蝦夷日誌の執筆と出版
万延元年(1860)幕府御雇を辞した松浦武四郎(43才)は、前年「東西蝦夷地山川地理取調地図」28冊を完成。「蝦夷漫画」刊行、「戌午蝦夷山川地理取調日誌」62巻を完成。「後方羊蹄日誌」を刊行している。日誌や地理に止まらず、場所請負制の弊害とアイヌ民族に対する過酷な取り扱いを暴露し、北辺防備とアイヌ救済の急を訴えた松浦武四郎の著述のうち「近世蝦夷人物誌」と「蝦夷山川地理地理取調日誌」等幕府によって都合の悪いものは出版不許可となりました。
そこで今年は世人に知らせるべく、普及本蝦夷文筆「多気志郎蔵版」の名を刻む板が増えました。多気は生まれ故郷の三重の多気地方から取りました。「樺太日誌」「北蝦夷余誌」「石狩日誌」「夕張日誌」「納沙布日誌」「十勝日誌」等次々と出版しました。
弘化2年(1845)武四郎(28才)から安政5年(1858)武四郎(41才)まで14年間に亘り蝦夷地に六回冒険探査に赴きました。当初は御国の北門を杞憂し北辺を探検せしむとの志を抱き憂国の一念禁じ難く、松前藩の警戒が厳しい蝦夷地を「我が手で開拓し」そして「土人に撫育する」思いを抱いて蝦夷地・樺太・国後・択捉とあっちこっちアイヌの人々の案内で歩きました。
鮭をカムイからの贈り物としていただく皮も衣、沓にと作り、一部とも余さず捨て去りはしない。森の草花・樹木の役立ても然りで、自然の恵みに敬虔に感謝をする。だから自分たちが生きるのに必要な量を超して獲る、越して伐ることはしない。然るに明年も先々孫の代になっても、鮭は川海に戻ってきてくれる。巨大な蕗の葉茎が狩猟山駈けの夜露を凌がせてくれる。山に木があればこそ鯡が群来てくる(ニシン山に登る様子)、原始を保つ蝦夷、そこに分け入るには先住者アイノの案内と助けがなければ、直ちに死の危うさがありました。アイノが先に立ち、手を取ってくれました。野宿となって短時に仮小屋を作り、魚を得、鹿肉を得、草木の茎根を得、毒のものを教えてくれました。この地に生きてきたアイノが居なければ、武四郎シサム己れ一つの命も覚束なかったと思います。カラフト・クナシリ・蝦夷アイノの人々に助けられたとつくづく思います。アイノに共感、厚情し、収奪され続ける少数民族に同情、文字を持たないアイノに変わり記録者として武四郎シサムは蝦夷を書付、矢立に精を出しました。
文久元年(1861)44才「天塩日誌」稿なる。文久3年(1863)46才「久摺日誌」「知床日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」の刊行を始める。元治元年(1864)47才「鴨 頼先生一日百詩」出版。蝦夷・樺太・千島の俯瞰描を扇子に刷り、土人風俗の団扇、箱館道中双六、蝦夷物産双六、蝦夷土産道中寿五六、厚司織り風の熨斗状袋などを作って蝦夷趣味を世間に伝えようとしました。この年水戸の加藤木賞三の三男の一雄氏が養嗣子となりました。
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