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札幌農学校第二期生

新渡戸稲造の祖父新渡戸伝(つとう)は、今から150年前青森県十和田市の三本木原を開拓した人物で、不毛の地を穀物地帯に変え、地元の人から恩人といわれていました。その三本木で米がとれ始めたことを記念して、1862年(文久2年)に生まれた孫に「稲造」と名付けました。

新渡戸は幼い頃から、教育熱心な母喜勢によって、読み書きのほかに英語を学んでいました。英語を学ぶことは、未知の世界が広がっていくことが魅力で、どの学問よりも興味をもちました。

明治初期の文明開化の頃、東京で洋服屋を開業していた亡父十次郎の弟太田時敏が、祖父新渡戸伝(つとう)に時勢の変化を説き、孫たちの東京遊学をすすめていました。新渡戸稲造もすでに盛岡で藩の教習所で英語や洋式の太鼓を習ていました。稲造は9才の時、次兄道郎とともに太田伯父さんを頼り、時敏の養子となり、太田稲造と改名し、東京にて英国人の教える築地の英語塾に通いました。翌年には旧南部藩主が経営する京橋の英語中心の共慣義塾の寄宿舎に入りました。当時の風潮は旧武家社会の人々も儒学や国学の教育は衰微し、実学的な洋学とくに英語が重んじられていました。

1877(明治10年)創建まもない人口2700人の札幌に新渡戸稲造(16才)内村鑑三(17才)宮部金吾(18才)が札幌農学校第二期生として東京からきました。

明治10年8月28日、東京、芝の開拓使御用宿・植木屋を出発、札幌農学校入学のため海路、開拓使御用船、玄武丸に乗船し品川沖を発って、一路札幌に向かいました。三日後函館港に入り、回船問屋、谷太郎吉方に止宿すること二日、9月1日午前八時小樽へ、翌朝十一時小樽港に着きさらに陸路馬車にて札幌に向かい、9月2日夕方に札幌農学校に無事到着しました。稲造はどんなにか一期生達が歓迎してくれることかとの期待に反し、夜は静まり返っていました。既に一期生達はクラーク博士の熱心なキリスト教に感化され、この夜も祈祷会の最中でありました。

1869(明治2年)から8年の間、鉄道が敷かれ、銀行が創設され、学制が布かれ、徴兵制度が布かれ、陰暦は太陽暦に変わり、国家財政の統一、法律の制定等々、我が国は重大な改革の時代であたっが、なお、新国家の生みの苦しみは続いていました。新渡戸稲造が札幌農学校入学を決意したとき、養父太田時敏は西南戦争が勃発、隊長として南下中であり、長兄七郎は100名程の隊員を募って官軍に加わり、稲造一人だけ平和な職を求めて北へ向かう…彼の将来を暗示するような門出でありました。

自作の俳句 「北国も いとはず開く 稲の花」

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新渡戸稲造年譜

1862(文久 2年)0才   9月1日盛岡・鷹匠小路に父十次郎、母勢喜の三男(幼名稲之助)として誕生。

1867(慶応 3年)5才   12月14日父十次郎死去(享年48歳)

1871(明治 4年)9才   8月伯父太田時敏を頼り、次兄道郎と共に上京。築地英学校に入学、祖父伝9月27日に死去(享年79歳)、太田時敏の養子となり、太田稲造と改名。

1873(明治 6年)11才 東京外国語学校(大学予備校)に入学。

1875(明治 8年)13才 東京英語学校に入学。

1877(明治10年)15才 札幌農学校に第二期生として入学。

1880(明治13年)18才 7月17日母勢喜死去(享年56歳)

1882(明治15年)20才 札幌農学校を卒業、農商務省御用掛勧業課勤務となり11月予科教授となる。

1883(明治16年)21才 東京大学選科生となる、面接試験のとき「太平洋の架け橋となりたい」と答える。

1884(明治17年)22才 東京大学退校して米国ジョンズ・ホプキンズ大学(JHU)に入学。

1887(明治20年)25才  ドイツ、ボン大学で農政、農業経済学を研究。翌年ベルリン大学に転校。

1889(明治22年)27才  ドイツ、ハレ大学に転校、長兄七郎46歳で死去。新渡戸姓に復帰。JHUよりバチュラー・オブ・アーツ(名誉文学士号)を授与される。

1891(明治24年)29才  メリー・エルキントンと結婚、日本に帰国し札幌農学校教授、長男遠益誕生(八日後に死去)

1894(明治27年)32才  札幌に遠友夜学校を設立。

1897(明治30年)35才  農学校を退官し群馬県伊香保で静養中『農業本論』を出版。

1898(明治31年)36才  カルフォルニア州モントレーに渡り療養生活。

1899(明治32年)37才  日本最初の農学博士の称号を先輩佐藤昌介らと共に得る。

1900(明治33年)38才  英文『武士道』初版出版、ヨーロッパ視察、パリ万国博覧会の審査委員を務める。

1901(明治34年)39才  台湾総督府民生部殖産局長心得に就任、翌年臨時糖務局長。

1903(明治36年)41才  京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。

1906(明治39年)44才  法学博士の学位を得る、第一高等学校長に就任(東京帝国大学農学部教授兼任)

1909(明治42年)47才  実業之日本社編集顧問。

1911(明治44年)49才  第一回日米交換教授としてアメリカへ出発

1917(大正 6年)55才  拓殖大学第二代学監に就任。

1918(大正 7年)56才  東京女子大学学長に就任。

1919(大正 8年)57才  国際連盟事務次長に就任。

1921(大正10年)59才  バルト海のオーランド島帰属問題を解決。

1926(大正15年)64才  国際連盟事務次長を退任、3月帰国、貴族院議員に勅選される。

1928(昭和 3年)66才  女子経済専門学校(東京文化短期大学)初代校長に就任。

1929(昭和 4年)67才  大阪毎日新聞、東京日日新聞顧問に就任、太平洋問題調査会理事長に就任。京都にて第三回太平洋会議開催、議長を務める。

1931(昭和 6年)69才  1月産業組合中央会岩手支部会長に選出される、5月支部創立25周年盛岡を訪れる。上海にて開催の第四回太平洋会議へ出席。 

1932(昭和 7年)70才  2月松山事件起こる、7月渡米してアメリカ国内で100回以上の講演をし、日米両国の平和維持のため努力する。ハーブァホード大学より名誉博士の学位を授与される。

1933(昭和 8年)71才  岩手県産業組合青年連盟通常総会並びに同総裁推戴式に出席のため盛岡を訪れる、カナダ・バンフにて開催の第五回太平洋会議に出席、10月15日ビクトリア市にて客死(享年71歳)…合掌。

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大台ケ原と一畳敷書斎

政府の北海道開拓政策に反対し、開拓使を辞めた松浦武四郎は再び諸国を歩き始めました。骨董収集に熱中したり、全国の天満宮に鏡を奉納したり、滋賀県の三井寺に蝦夷地調査で使った鍋を収めた塚を作るなど多彩な活動を行いました。

そして明治十八年(1885)武四郎(68才)から70才までの間、毎年大台ケ原の調査に乗り出しました。大台ケ原は三重県と奈良県の県境にあり、標高1600m.を越す高い山が連なる「近畿の尾根」と言われるところです。晩年の遊歴を通し武四郎は、まるで北海道の大地を思わせる広大な大台ケ原を終焉の地と定めるほど大台ケ原を愛しました。そしてその様子を『乙酉掌記(いつゆしょうき)』『丙戌前記(へいじゅつぜんき)』『丁亥前記(ていがいぜんき)』という三冊の本にまとめ出版しました。武四郎は大台ケ原探査の目的は、未開の地大台ケ原の様子を皆の衆に明らかにすることにありました。

武四郎は晩年、長年培った人脈を通じて全国の神社仏閣から取り寄せた歴史的建造物の古材で作った畳一枚の小さな書斎、それが「一畳敷」でした。明治十九年(1886)神田五軒町の自宅の庭に張り出す格好で増築、日焼けした古色溢れた寺院の古材を柱に神社の板切れを床の間板へと使用しました。古材の入手先は、北海道からではなく、奈良春日大社・駿府久能山稲荷社・厳島神社・伊勢神宮・出雲大社・宇治平等院・西京東山東福寺仏殿ほか多数の神社仏閣の由緒ある古材でした。寄進地は武四郎が晩年多く旅した西日本地方に集中していました。木片の古くは奈良時代に遡り鎌倉・江戸時代初期のものが多く寄進され、生涯の大半を旅の空にと暮した武四郎にとって、大邸宅に住むことは虚しく「一畳敷」は隠棲の場であるとともに終焉の場でもありました。

晩年、古銭蒐集や考古学にも関心を寄せ、この日向の一隅で古銭を広げ、書をめくってすごし柱の一本、壁板の一枚に目をやっては各地に住まいする旧友のことを思い出していました。

この一畳敷を建てた際、各部材の由来を記述した明治二十年の『木片勧進』という本に武四郎はこれを後世に残すために建てたのではなく、今まで全国各地を歩き様々な人々と交流してきたが、その思い出として建てたものであり、自分が亡くなったら、この一畳敷書斎の古色蒼然とした木材で亡骸を焼き、遺骨は大台ケ原に埋めて欲しいと遺言していました。

しかし、武四郎の死後松浦家では非常に貴重な建築物であることから、一畳敷を保存することを決め紀州徳川家の施設である南葵文庫へと移築しました。その後いくたびかの変遷を経て現在国際基督教大学の敷地内にあり、国の登録文化財となっています。

『一畳敷』の完成から一年余り過ぎた明治二十一年(1888)2月10日武四郎はその生涯を閉じました。享年71歳でした。合掌。岡倉天心、二葉亭四迷ら歴史上の著名人が眠る東京都豊島区にある染井霊園。その一角に武四郎が眠る松浦家の墓があります。趣味に生き数々のコレクションに囲まれた晩年の生き方とは対照的に武四郎の墓は草木に囲まれ、ひっそりと佇み墓碑銘には全国をくまなく旅し、青年期の武四郎を象徴する『北海居士』の文字がしっかりと刻まれています。

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北海道人樹下午睡図

江戸から明治期の画家、河鍋暁斎に描かせた「武四郎涅槃図」、この絵の中心に描かれているのは、釈迦ではなく穏やかに表情で横たわる松浦武四郎。北海道の調査に生涯をささげ「北海道人」とも号した武四郎が、大好きな絵やモノたちに囲まれて、樹の下で昼寝をするかのように自らの死を迎える姿から、其の名を「北海道人樹下午睡図」とも呼ばれてきました。

涅槃図は横たわる釈迦の周りを弟子や動物たちが泣きながら取り囲み、空から仏母が遣って来るという釈迦の入滅(亡くなること)様子の臨終の場面を描いたものです。インドから広がり、中国、朝鮮を経て日本に入り、奈良時代以降多くの涅槃図が作られました。江戸期に入ると一般家庭にも普及するようになり、市川団十郎ら当時の有名人が亡くなった後、慕う人々が涅槃図を作ることはあったというが武四郎は生前の明治十四年(1881)、本人が64才で製作開始から完成まで約5年間を要しました。

松の樹下で午睡(昼寝)をしているように横たわる武四郎の足元で泣き伏しているのは妻、周りで嘆き悲しむ身近な人々や武四郎自身が収集した思い出の絵や仏像など数多くの品々や動植物、空には浮世絵から抜け出した美女が描かれており、武四郎の夢の涅槃図でありました。

武四郎涅槃図を描いた河鍋暁斎は、絵画の一大流派、狩野派に師事し伝統的な手法を体得しただけでなく、浮世絵や戯画など対象を誇張した絵画にも才能を発揮していました。また反骨の絵師であり投獄されたり奇矯をもって知られていました。世相批判の戯画・狂画・妖怪画が有名であるが、伝統画にも卓越した技量を持っていました。天保二年(1831)の生まれで武四郎より13才下であるが、二人は余程気が合って、武四郎の明治以降の著作の挿絵は河鍋暁斎のものが一番多く載りました。

武四郎と暁斎の親交の深さは、武四郎の刊行本に暁斎が多くの挿絵を寄せていることや、暁斎の絵日記に武四郎をたびたび登場することからも窺える。親しくした者でなければ分からないような品々(束帯天神像や観音像など信仰心を窺わせる絵)が何点も描かれているところから暁斎が武四郎の邸を訪れ、「武四郎涅槃図」の元軸「北海道人樹下午睡図」は、明治十四年(1881)から明治十九年(1886)の間、約五年の歳月をかけて完成しました。

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江戸の風流人と天神信仰

明治六年(1873)松浦武四郎(56才)は、東京の神田五軒町(神田明神の周辺)の敷地六百坪に新築の家を建て、著書の自費出版のほか、骨董の周旋・売買を行い、また自邸の一部では北海道の現地から取り寄せた鰊・鮭・昆布の商いもしていました。

しかし遊歴の心を失わず、武四郎は明治七年頃から再び旅に出て、京都、近畿方面を歩き途次、草津の温泉に泊りました。「頗る繁華の地」「日本無双と云うも評言うならず」草津の秋の風景美に惹かれ、其の時の心境を歌に詠みました。「谷ごし昨日 美置し紅葉に 今日の朝戸出いそがれにけり」…雪国の蝦夷地を何回も探検した経験もある武四郎がこの草津を「土地頗る風烈しく夜寒し」と思ったと紀行文に記述し、谷沢川上流にある高野長英「毒水の碑」を再建しました。

明治十二年には、妻を同伴伊勢・京都・吉野を訪れ、明治十六年(1883)66才の時には、遠く九州まで足を伸ばしました。

旅に出ないときは、文化の中心である東京に住んでいました。河鍋暁斎・鈴木鴛湖(がこ)・富岡鉄斎らの画家を初め書家や高僧らとの交流を深め、文化社会に精通していきました。こうした交流を通じて武四郎は書画や骨董品を集めていきました。

武四郎は外出時には必ず団扇(うちわ)を持ち歩いて、有名人にはサインのおねだりをしていました。市川団十郎や勝海舟ら武四郎の友人・知人の手による書画、詩歌が書かれた「渋団扇帖」はそのよい見本でした。当時の生活文化では交流の深い人に絵を描いて貰ったり、詩歌を詠んで貰ったりするのは日常的な行為でありました。

松浦武四郎は明治維新後に天神信仰を深め、西日本に所在する二十五の天満宮を選んで聖跡と定めて、鏡と共に石碑を奉納しました。武四郎は学問の神様として有名な菅原道真公を信仰する「天神信仰」に熱心で、京都の北野、大阪、大宰府の各天満宮には直径約1m、重さ約120kg.の巨大な銅鏡を作り奉納していきました。また道真公が京都から大宰府へと左遷された際にゆかりの深い25ヶ所の天満宮を聖跡二十五霊社と定め、各天満宮へは直径約30cm.の銅鏡と天満宮の名を刻んだ石標を奉納していきました。そして学校制度が整えられていく中で、学問の神様を紹介するための双六まで作りました。双六は京都を出発して福岡の大宰府まで行き京都へ戻ってくる内容になっており遊びながら菅原道真公の事績を知る事が出来るようになっておりました。.

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北海道開拓の守護神

蝦夷地の開拓が本格化するのは、明治二年(1869)7月に箱館府が開拓使になってからでした。開拓史になったとき松浦武四郎(52才)は開拓大主典ついで開拓判官となりました。明治二年創立当時の開拓長官の年棒は七百石、次官は五百石、判官は三百四十石であったから相当の高給取りでもありました。武四郎は現地に赴かず在京での職務に就いておりました。東京詰めの重要性について「開拓使事業報告」には「開拓草創ノ際官省稟議ニ渉ル物多ク且ツ器具糧食其他日用一切ノ物品概ネ皆給ヲ東京ニ仰ザルハナク…加ルニ開拓長官文武ノ要職ヲ兼常ニ東京ニ在リ因テ其指令等弁理伝達ノ所トス」と記しています。当初は現地よりも重要な指令所的な役割を果たして現地組ではなく、政策立案にあたる在京の行政官でありました。だが明治三年(1870)3月「官に仕えることは、まことに窮屈」性格にあわないと武四郎(53才)はさっさと役所を依願退職してしまいました。

明治二年(1869)1月に薩長土肥の有力4藩により版籍奉還が行われ、国家の体制が大きく変わろうとしているとき、北の大地蝦夷地も明治二年7月箱館府が開拓使に代わり、8月には北方探検家で開拓判官松浦武四郎らの建言によって蝦夷地を北海道と改称されました。

新設の開拓使初代長官に肥前鍋島藩主鍋島直正が任ぜられましたが、これは鍋島藩が早くから外国との接点である長崎警備を任されていて国防への意識が高く、直正は藩財政を倹約して北海道の警護へも早くから着目し研究を怠らなかったからでした。しかし彼は9月の北海道赴任はならず、代わって二代目長官となった東久世通禧(みちとみ)が鍋島藩士・島義勇らを伴って9月3日、明治天皇に拝謁を賜りました。これに先立ち9月1日東京の神祇官においって北海道開拓の守護神として大国魂神(おおくにたまのかみ)大那牟遅神(おおなむちのかみ)少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱を祀るための北海道鎮座神祭が執り行われ、これが北海道神宮(札幌神社)へ神々がまつられる初めての神事でありました。

東久世長官は島判官らを従え開拓三神を奉じ、9月20日英船テールス号にて品川を発ち同25日函館に到着しました。長官は函館に留まり、島判官らは御霊代(三神)を奉じて10月1日函館を出発、長万部・磯谷と陸路を歩み、岩内から海上を更に余市・小樽を通って12日に銭函に到着しました。師走に入ると創成川沿いに建てられた札幌第一番役宅に御霊代(みたましろ)を仮安置しました。この1ヵ月前には早山清太郎(篠路開拓者)が島判官に円山の地を社地とすることを上申し、三方山に囲まれ一面が開けて清らかな豊平川の流れが巡っているところとして決定しました。

翌明治三年2月、島判官は東京へ召還されましたが明治四年5月14日「札幌神社」と社名が決定し、同9月14日円山の地に社殿が完成、開拓判官岩村俊通が祭主となって遷座祭(せんざさい)が執り行われました。

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開拓判官依願免官

明治二年五月に政府より松浦武四郎は蝦夷地開拓御用掛を仰せ付けられた時に次の三条を申し上げました。第一に松前藩を転封する事。第二に好商に場所を請負せることを廃止する事。第三に諸藩に分割(支配させる)の事。この建言に対して、二と三は採用できるが、第一は何分にも出来かねるとの事、このご意向を承って、御用掛を勤めることをお断り申しました。ところが島義勇判官が当分を是非にと申されたものですから官をお受けしたのですが、「何分烏合の官員、区々の論にて十分の見込も相立難く故」なお更に上司に辞官願を到しましたが、何の沙汰もありませぬ。松前藩政こそがアイノに圧制の諸悪の根源、蝦夷地から追い払い、何処かに転じさせなければ北辺の大島の現在も未来も無い、民も危うい赤夷南進の防禦も危うい。この積年の危惧と考えが用いられない、そのことが不本意。従って官にあり禄を喰むことを自分に許す訳にはいかぬ…武四郎は、誰とでもすぐ仲良くなれる社交性を持っているが同時に一本気な正義感の持ち主であった。特定の商人と結託したり、役所特有の派閥を作ったりするのが特に嫌いだった。

明治三年三月、松浦武四郎(53才)は突然役所に長文の辞表を出しました。開拓使初代の長官は鍋島直正であったが、すぐに東久世道禧にかわった。東久世長官は商人の資金力に依拠した開拓政策を採り、露骨に松浦武四郎判官や島義勇判官(のち佐賀の乱で斬刑に処せられた)を忌避することが目立ちました。箱館表(奉行所)から東京に来る用状をすべて秘匿する、情報を与えないのでした。「精勤仕居候も詮無き儀と在候」武四郎は、場所請負制度の復活につながったり、商人の特権を認めたりする政策をとることが許せなかった。2月29日辞官の嘆願書を岩村権判官(副長官)を通じて差し出しました。

「依然と官途に罷在候儀、何分義難忍候間、早々願之通、御免職被仰付様、奉願上候。 恐煌謹言。  三月十五日 松浦開拓判官。

さて一昨日のことと聞きます。帯刀した二人が東久世長官宅を出て、木挽町(歌舞伎座の辺り)の酒店で箱館町人様の二人と待ち合わせて、大酒宴となった由。その座に侍った芸者共が「最早松浦も急(きっと)に片付」と聞き、懇意の者から密かに知らせてくれました。彼女らは暗殺と心配してのことだろうが、座の話は松浦武四郎を罷免することと存知、辞官願の通りといたし下さるなら本望と安堵いたしました。

明治三年(1870)三月、武四郎は辞職願いは聞き入れられ、同時に「先年来、北海殊方(ちがった場所)の地へ跋渉、山川の形勢を探り土地の物産を索め、著述多きに居り、奇特の事に候方、今開拓に付いては補益少なからず、よってその功を賞せられ終身15人扶持を下腸候事」との辞令を賜りました。

新政府が任官そして翌年依願免官。在官10ヶ月。後年「馬角久斎」の号をつかいました。開拓使を辞した武四郎は、その後各種蝦夷日誌の出版、骨董収集、霊場巡り、大台ケ原登山、富士登山など悠々自適の趣味人としての日々を送っており、北海道を訪れることはありませんでした。

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開拓判官と道名之儀につき意見書

北海道を開放した明治政府は「蝦夷地は皇国の北門」との認識のもとに箱館府(明治2年9月、箱館は凾館となる)にかえて、明治2年7月太政官直属で各省と同格の「開拓使」を置き、初代長官には名君の誉れ高かった元佐賀藩主鍋島閑叟が6月6日から8月16日、短期間ながら就任しました。開拓次官には元箱館府総督清水谷公考、次官に次ぐ開拓判官には蝦夷通の松浦武四郎の外に、札幌建設の先覚者島義勇、後の初代北海道長官岩村通俊等が任ぜられました。開拓使方は、最初芝の増上寺に役所を置き、箱館にその支所を設けました。

明治二年(1869)6月8日、松浦武四郎(52才)は、蝦夷地開拓御用掛の辞令を受け、7月25日開拓使という役所の開拓大主典・開拓判官に任命されて、9日目には開拓長官鍋島直正に「道名之儀につき意見書」という蝦夷の名称改正の候補名を提出しました。この時蝦夷地に代わる新しい名称として、六つの候補を挙げました。日高を見る道「日高道」、海の北「海北道」、海の島「海島道」、新井白石の『蝦夷志』に、蝦夷は東北大海中にあるという古典の典拠で「東北道」、西行や顕輔、清輔等の和歌も引き合いに「千島道」、そして北に加える、にんべんの伊で「北加伊道」でした。この中で採用されたのは「北加伊道」でした。これは武四郎が安政4年天塩川探査の折エカシのアエトモに「アイヌ民族は、自分たちの国をカイと呼び、また互いをカイノーと呼び合っていた」と聞いたことがきっかけでした。明治2年(1869)8月15日に太政官布告第734「蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」により、政府が「北加伊道」を「東海道」などに倣い「北海道」と決めました。

「道名之儀につき意見書」を提出する前、武四郎は幕府の箱館奉行所の依頼で各地のアイヌ語の地名を訳し、和風の名称を考えた事がありました。しかし新しい和風地名に漢字を当てたこの試みは現地ではさっぱり意味が通じないとわかり、失敗に終わりました。アイヌ民族が伝える地名は、地形や過去の伝説、歴史それにその土地の生産物などに関係していたからでした。武四郎も次第にアイヌ語の地名はその土地の国土と知り、地理の上でも貴重な文化遺産であることに気付きました。例えば「江差」をアイヌ民族は「エサウシ」と言いました。これは「山が海岸まで出ている所」という意味。こうしたことから、地名はアイヌ民族の発音をふまえて漢字を当てるのが一番良いと判断しました。

十一箇国86郡の国郡設定もほぼ提案通り採用され、同8月15日に公布されました。北海道国郡検討図の元図となった「東西蝦夷地山川地理取調図」は26枚の切り図と余白部分の24枚の計50枚を張り合わせて一組とした縦2,4m.横3,6m.の大地図になりました。「首」と「尾」の2枚には調査に協力してくれたアイヌの人名や蝦夷地の大きさ、踏査道順などを記載しました。検討図では元図の上に赤線で国界、茶線で郡界、黒線で開削予定の道路、紫線で国境の腹案を記入、付箋で分領支配の状況を示しました。

同年7月22日から9月19日までの分領支配の割り付け図という境界設定の多くは、尾根筋や河川など自然環境に基づいてはいるがアイヌ民族の活動領域に配慮して区域割をしました。北海道の管轄は開拓使だけでは負担が大きいとの判断で分領支配ということで、明治2年新政府は全国から希望の藩や志士らを募りました。海岸線の要所に薩長土肥など中核藩を配置したが、この支配体制はうまくいかず、僅か2年で頓挫しました。

この年武四郎は北海道名・国名・郡名の撰定の仕事で、政府より9月19日に従五位の位を戴き、御手当金として金百円を賜りました。また「蝦夷志」及び「蝦夷国郡全図」を刊行しました。

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新政府から御雇のお誘い

慶応三年(1867)12月9日、十五代将軍慶喜は京都において大政を奉還しました。この年の年末の世情を松浦武四郎(50才)は「芝居町打ちこわし」「夜播新へ強盗押入り」「妻恋坂火事」「会桑両藩の入京を禁ず」「庄内兵江戸を囲む」「渋谷へ浪士集る」等々、大晦日には「世間実に騒々しくなり」と記して今年の日誌も終わりました。

翌慶応四年(九月に明治と改元)、御一新となると、既に51才の武四郎に、4月4日夜下谷山下の寓居に速刻登城せよとの書附が飛脚で届きました。維新政府から京都に召し出され蝦夷通の松浦武四郎は、4月28日に太政官の令で徴士・箱館府判事を命ぜられました。

幕府の蝦夷地御雇を辞してから、市井にあること9年再び官途に就いた武四郎は、多くの著書及び地図を政府に献納しました。これに対し政府は5月「蝦夷地方の儀につき多年苦心、自著の書物並びに図等献上致し、かつ大政更新の折柄、奔走尽力候段(嘉永六年の京都における活躍)神妙の至りと思し召され候。是により金壱萬五千疋これ賜り候事」と賞され拝領いたしました。

明治元年10月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の蝦夷占領から翌2年5月の全面降伏に至る間、明治政府の箱館府は機能を停止されてしまいました。このため武四郎は8月23日東京都知事附属を命ぜられ、江戸が東京に変わりその転換に伴う仕事をしていたが、明治2年2月に辞職してしまいました。6月には月給返納願を提出し、この願には開拓意見書を添え、また先立って蝦夷地新道開通の件を献策していました。

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蝦夷日誌の執筆と出版

万延元年(1860)幕府御雇を辞した松浦武四郎(43才)は、前年「東西蝦夷地山川地理取調地図」28冊を完成。「蝦夷漫画」刊行、「戌午蝦夷山川地理取調日誌」62巻を完成。「後方羊蹄日誌」を刊行している。日誌や地理に止まらず、場所請負制の弊害とアイヌ民族に対する過酷な取り扱いを暴露し、北辺防備とアイヌ救済の急を訴えた松浦武四郎の著述のうち「近世蝦夷人物誌」と「蝦夷山川地理地理取調日誌」等幕府によって都合の悪いものは出版不許可となりました。

そこで今年は世人に知らせるべく、普及本蝦夷文筆「多気志郎蔵版」の名を刻む板が増えました。多気は生まれ故郷の三重の多気地方から取りました。「樺太日誌」「北蝦夷余誌」「石狩日誌」「夕張日誌」「納沙布日誌」「十勝日誌」等次々と出版しました。

弘化2年(1845)武四郎(28才)から安政5年(1858)武四郎(41才)まで14年間に亘り蝦夷地に六回冒険探査に赴きました。当初は御国の北門を杞憂し北辺を探検せしむとの志を抱き憂国の一念禁じ難く、松前藩の警戒が厳しい蝦夷地を「我が手で開拓し」そして「土人に撫育する」思いを抱いて蝦夷地・樺太・国後・択捉とあっちこっちアイヌの人々の案内で歩きました。

鮭をカムイからの贈り物としていただく皮も衣、沓にと作り、一部とも余さず捨て去りはしない。森の草花・樹木の役立ても然りで、自然の恵みに敬虔に感謝をする。だから自分たちが生きるのに必要な量を超して獲る、越して伐ることはしない。然るに明年も先々孫の代になっても、鮭は川海に戻ってきてくれる。巨大な蕗の葉茎が狩猟山駈けの夜露を凌がせてくれる。山に木があればこそ鯡が群来てくる(ニシン山に登る様子)、原始を保つ蝦夷、そこに分け入るには先住者アイノの案内と助けがなければ、直ちに死の危うさがありました。アイノが先に立ち、手を取ってくれました。野宿となって短時に仮小屋を作り、魚を得、鹿肉を得、草木の茎根を得、毒のものを教えてくれました。この地に生きてきたアイノが居なければ、武四郎シサム己れ一つの命も覚束なかったと思います。カラフト・クナシリ・蝦夷アイノの人々に助けられたとつくづく思います。アイノに共感、厚情し、収奪され続ける少数民族に同情、文字を持たないアイノに変わり記録者として武四郎シサムは蝦夷を書付、矢立に精を出しました。

文久元年(1861)44才「天塩日誌」稿なる。文久3年(1863)46才「久摺日誌」「知床日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」の刊行を始める。元治元年(1864)47才「鴨 頼先生一日百詩」出版。蝦夷・樺太・千島の俯瞰描を扇子に刷り、土人風俗の団扇、箱館道中双六、蝦夷物産双六、蝦夷土産道中寿五六、厚司織り風の熨斗状袋などを作って蝦夷趣味を世間に伝えようとしました。この年水戸の加藤木賞三の三男の一雄氏が養嗣子となりました。

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安政六年…安政の大獄

年末、御雇御免の松浦武四郎は自由人であり、窮屈な役人生活には馴染まなく、その上に時の大老井伊直弼が蝦夷地幕府直轄の方針を転換し、東北諸藩による分割経営、彦根藩御用商人に対する利権供与など、アイヌ無視の開拓、同化政策に固執する遣り方に我慢ならず、幕政が井伊掃部守派に牛耳られ、かって交際のあった志士たちが獄につながれ死罪になるにいたって、幕府に愛想が尽きまた身の危険も感じたのでした。激動の幕末を一市井人として、北辺踏破によって得た数々の蝦夷記録・日誌の整理と世に紹介する執筆生活を送り、著書が次々と出版し世人の注目するところとなりました。

安政五年(1858)7月幕府から水戸藩徳川斉昭は急度慎み、藩主慶篤が登城禁止の処罰を受けたが、8月8日には勅命(戌午の密勅)が水戸藩に下された。その内容は、米国はじめ英・露・蘭との修好通商条約調印を批判し、水戸・尾張両藩主らの処分の影響を心配し、幕府は徳川御三家以下諸大名と群議して、国内治平、公武合体、内を整えて外国の侮りを受けぬ方策をたてるようにというのであった。この勅命は、幕府にも下されたが、水戸藩に対しては、徳川御三家はじめ列藩にも伝達するようにとの添書がついていました。

朝廷から、政治的な勅命が幕府抜きに、直接藩に下される事は、前例がない。幕府は水戸藩に勅命返納を命じたが、藩内の改革派特にその激派は、飽く迄もこれに反対した。他方京都では勅命降下に反対した親幕府の関白九篠尚忠が辞任に追い込まれた。しかも以上のような事態には、広く深く公卿・尊攘志士等が関わっている事を知った井伊大老は幕府の危機と考え、安政五年(1858)9月頃より翌六年年末にかけて、安政の大獄を強行しました。

連座した者は、公卿・大名・志士など合わせて百余名に及び、過酷な井伊大老の裁断により福井藩士橋本左内・長州藩士吉田松陰・儒者頼三樹三郎らが死罪となり、小浜藩士梅田雲浜が獄死しました。攘夷の詔勅を水戸藩に下す運動に大いに働き幕府から「悪謀の四天王」(梁川星巌・梅田雲浜・池内大学・頼三樹三郎)として特に睨まれていました。

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安政六年…結婚・御雇御免願

安政六年(1859)松浦武四郎(42才)は、28才から六回の蝦夷地調査を繰り返す中で、アイヌ語を習得し寝食を共にすることでアイヌと兄弟のような付き合いになっていました。「アイヌの目線」を大切にした武四郎は幕府雇いでありながら、仲間であるアイノの窮状から目をそむける事はできませんでした。北の大地に固有の文化を築いた無睾の民アイヌは場所請負人の横暴により、民族文化存亡の危機に瀕している。御開発は明日に延ばしてでも何卒いま死なんとしているアイノの命をお救いになり民族文化をお守り下さい。と時の為政者に懇願訴えていました。

四月二十二日、手控や日誌類を整理して、山川地理取調出来に付き箱館奉行堀君へ見せ候、上梓之儀被仰候。五月十日付で開刻願を出し、石狩川口図から出版し始めました。七月には木村嘉平や永楽屋、表紙屋幸蔵といった出版業者と連絡を取りあいました。

それまでは伊能忠敬(1745-1818)、その門弟間宮林蔵(1780-1844)らの測量により海岸線はほぼ正確になっていたが、内陸部の状況を詳しく図示したのは、東西蝦夷山川地理取調図で木版刷りで出版されました。

「蝦夷地名奈留辺志」が上梓されたのは、前年の末に「近世蝦夷人物誌」と共に上梓願を出したのですが「人物誌」の方は却下され、こちらだけが認められ刷り上げたうちの百部を幕府に献上し、九月になって銀三枚を手当てとして戴きました。

この年九月武四郎は、家庭を持つ心境になり、晩婚ながら箱館奉行所で知り合った「福田とう」と結婚、後に娘二人を授かりました。

その年末、武四郎は病気を理由に、御雇御免願を二の丸御所に差し出し認められました。

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