札幌農学校第二期生
新渡戸稲造の祖父新渡戸伝(つとう)は、今から150年前青森県十和田市の三本木原を開拓した人物で、不毛の地を穀物地帯に変え、地元の人から恩人といわれていました。その三本木で米がとれ始めたことを記念して、1862年(文久2年)に生まれた孫に「稲造」と名付けました。
新渡戸は幼い頃から、教育熱心な母喜勢によって、読み書きのほかに英語を学んでいました。英語を学ぶことは、未知の世界が広がっていくことが魅力で、どの学問よりも興味をもちました。
明治初期の文明開化の頃、東京で洋服屋を開業していた亡父十次郎の弟太田時敏が、祖父新渡戸伝(つとう)に時勢の変化を説き、孫たちの東京遊学をすすめていました。新渡戸稲造もすでに盛岡で藩の教習所で英語や洋式の太鼓を習ていました。稲造は9才の時、次兄道郎とともに太田伯父さんを頼り、時敏の養子となり、太田稲造と改名し、東京にて英国人の教える築地の英語塾に通いました。翌年には旧南部藩主が経営する京橋の英語中心の共慣義塾の寄宿舎に入りました。当時の風潮は旧武家社会の人々も儒学や国学の教育は衰微し、実学的な洋学とくに英語が重んじられていました。
1877(明治10年)創建まもない人口2700人の札幌に新渡戸稲造(16才)内村鑑三(17才)宮部金吾(18才)が札幌農学校第二期生として東京からきました。
明治10年8月28日、東京、芝の開拓使御用宿・植木屋を出発、札幌農学校入学のため海路、開拓使御用船、玄武丸に乗船し品川沖を発って、一路札幌に向かいました。三日後函館港に入り、回船問屋、谷太郎吉方に止宿すること二日、9月1日午前八時小樽へ、翌朝十一時小樽港に着きさらに陸路馬車にて札幌に向かい、9月2日夕方に札幌農学校に無事到着しました。稲造はどんなにか一期生達が歓迎してくれることかとの期待に反し、夜は静まり返っていました。既に一期生達はクラーク博士の熱心なキリスト教に感化され、この夜も祈祷会の最中でありました。
1869(明治2年)から8年の間、鉄道が敷かれ、銀行が創設され、学制が布かれ、徴兵制度が布かれ、陰暦は太陽暦に変わり、国家財政の統一、法律の制定等々、我が国は重大な改革の時代であたっが、なお、新国家の生みの苦しみは続いていました。新渡戸稲造が札幌農学校入学を決意したとき、養父太田時敏は西南戦争が勃発、隊長として南下中であり、長兄七郎は100名程の隊員を募って官軍に加わり、稲造一人だけ平和な職を求めて北へ向かう…彼の将来を暗示するような門出でありました。
自作の俳句 「北国も いとはず開く 稲の花」
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