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第六回蝦夷地調査…室蘭から箱館帰着

安政五年の夏、キミタニシパ(山歩きの旦那=松浦武四郎)は門別の奥から貫気別に入り、岩知志方面に抜けそこから沙流川の本流を下る経路を探査、地名・人名・続柄・年齢などコタンの状況を詳しく調べました。ホロサル(振内)でアイヌの人達の立派な居住まいに驚き、「世ばなれし 保路さる山の 奥えみし 都の呼ぶりいつならひけん」と歌に詠みました。

六月には、蝦夷奥地の調査の帰路に浜厚真からトンニカ(富里)のエカシュムのチセ(家)に二泊しました。「えみしらも 志らぬ深山に 分けいれは ふみまようへき道たにもなし」と詠みました。そこのトンニカコタンは土地高く肥沃で、アイヌの人たちがみな畑を耕して住んでいました。武四郎が泊った夜のことでした。2頭の犬がしきりに鼻を鳴らしながらやってきたのです。エカシュムはそれを見て弓を持ち走っていきシカ2頭を捕まえて戻ってきました。聞けばこれは畑を荒らしにくるシカとのこと。犬たちは吠えるとシカが逃げてしまうと考えたのか、鼻を鳴らして知らせそれにピンときたエカシュムがシカを捕まえに走ったというわけだったのです。武四郎は「実によく仕込まれた犬だ」と感心しました。その地では厚真犬と呼ばれていました。

八月十一日(陽暦9月17日)に武四郎ニシパは惣小使リキシノを召し連れてヌフルベツ(登別)温泉に行く途中、「カモイワッカ」という冷水噴出、其の底白砂を噴出すぐに一筋の流れになる。名義・神の水義也、古くから神の水にて喉の渇きを潤しました。温泉につかり疲れを慰してホロベツに着くと法台小僧に逢い此者は伊勢朝熊岳の僧なり、武四郎が生まれた伊勢国の朝熊岳金剛證寺の僧に偶然に出逢いました。

八月十二日、武四郎はモロラノ(崎守町)に入り、室蘭の命名の理由として「会所元へ何れより行っても、小さき坂を下るゆえに此名有るにて御座候」と此地の坂路の印象を挙げている。このチイサキ坂ヲ下ル「モ・ルエラニ」のアイヌ語の発音を室蘭という名に採用したのでした。当時の交通路は、伊達方面から崎守町仙海寺の坂(モ・ルエラニ)を下り、崎守町からペケレオタ(陣屋町)を通り、ここから山に入り、知利別を経由して鷲別に抜けましたが7つの山を越えなければならず「七段坂」と呼ばれる嶮しい山道でした。

外国船の日本近海出没が頻繁になり、幕府は北辺警備のため室蘭に出張陣屋を建てることになり安政二年南部藩に箱館から幌別までの警備を命じ、勘定奉行の新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)が構築計画を担当しました。この陣屋には、常時350人ほどの兵や村夫で警備に当っていました。

室蘭で一夜を明かした探険家武四郎は翌朝早く起きて、地球岬をはじめトッカリショ、マスイチ、イタンキの浜を歩き内浦湾を望みながら有珠に向かいました。

八月二十日八雲由追の稲荷神社に今年1月25日、武四郎は大明神に六回目の調査の成功を詣で、いつも此社に捧げものをして道中の安全を祈って通る、この度も無事戻ってこれた事を報告しました。そして翌日箱館奉行に出向き堀織部正に帰館の報告をしました。

武四郎は最後の蝦夷地踏破を終えました。安政五年(1858)十月箱館を出発、翌年の正月は江戸で迎えました。

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第六回蝦夷地調査…千歳・札幌越え

勇払から舟で勇払沼、美々川を遡り、美々に上陸して2里ほど経路をたどり千歳に到着。それからまた舟で千歳川を下り、石狩に至った。水路に頼る道であった。アイヌの丸木舟を雇入れ、堅雪の季節になると、千歳から勇払沼まで舟を引っ張って越すこともあった。これが勇払会所から千歳を越えて石狩場所への通路であった。

安政四年(1857)になって、箱館奉行の強い要請により、石狩場所請負人の安部屋伝次郎が銭函・星置から島松までを、また勇払場所請負人の山田文右衛門が島松から千歳までを、すべて請負人の私費により開削しました。道幅4m.程度の草木を刈っただけの粗末なものであったが、これによって勇払の太平洋側と日本海側銭函が陸路で通ずるようになった。これが「札幌越新道」と呼ばれました。

松浦武四郎、飯田豊之助が選定したこの道路は、北辺の急を告げるために往復する役人、漁場を渡り歩く猟師らによって、次第に踏み固められていきました。

安政五年の夏、幕府御雇山川地理取調役松浦武四郎一行は、小樽から札幌に廻り千歳を経て、勇払方面を探査…野地を過ぎていくと、左右の蘆原(あしはら)の中からウグイ・アメマスなどが跳ね上がり、時々馬が驚いてしまうので、とても困りました。セタニウンベツという小川があり、向かい側にベンケナイ、バンケナイがあり、左側に小山がある。ウエンナイという川があり、このところに炭焼小屋がある。向かい側のヲハニケウに夷人のチセ(家)が三軒ある。さらに下ったイリモヲツナイという小川は、ネズミのいる沢という意味だ。この辺は樺木が多い。また姫リンドウ・姫釣鐘人参・姫石楠花も多い。此処のすべての生き物は、背丈が低くとても可愛らしいものがあるが、これは地勢によるものであろう。その後、バンケイリモヲツという川があり、西側にはタツニウシという川があって、この上流にチライウシト(丹冶)という沼があり、周囲は一里ほどである。カヲナイ川は、ここに鶴を捕る仕掛けを置くところから名付けられた。フツタトシは、笹が多いから名付けられた。ここで沼(ウトナイ湖)に至りました。

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第六回蝦夷地調査…湧別川

安政五年五月二十三日(陽暦7月3日)、箱館奉行山川地理取調役松浦武四郎(41才)一行は地元のアイヌの案内で、湧別河口から丸木舟で遡上しました。遠軽まで上がり、ホンニケウルルの山々が迫り来るところに着くと、突然アイヌの案内人がスッパケタ(浜アイヌと山アイヌの境界)でこれより先はアイノプリで入れないというので、仕方なく此山を見て下り今夜はイタラ川口(学田)に止宿しました。

湧別川流域はピシウンクル(浜の衆)、キムウンクル(山の衆)の二つの勢力圏に分かれ、場所請負人の勢力がモンヘツ地方にも及ぶや、アイヌへの強制労働や不平等交易、過酷な扱い、婦女子への不倫などが行われ、ユウベツアイヌにとって受難の歴史が始まりました。こうした非道な仕打ちによって一族が衰亡することを憂いた乙名サケテカンは、一族と共に上川(当麻)へ避難しその本拠地を故郷にちなんでキムンクシベツと名付け、故地である丸瀬布地方と自由に往来していました。当時の上川地方はまだ和人の勢力圏外にあり、平和な社会が営まれていたのでした。此話を聞いたシサム武四郎は酋長サケテカンの民族を思う配慮に感服しました。

案内人のピシウンクル(浜衆)は「他族の領域には無断で立ち入らない」というアイノプリ(不文律)を守り、武四郎一行は遠軽から引き返したのでした。それからオホーツク海沿岸を紋別、枝幸、浜頓別クッチャロ湖、猿払そして宗谷に到達しました。

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第六回蝦夷地調査…常呂川遡行

安政五年(1858)五月十三日(陽暦6月23日)幕府山川地理取調役松浦武四郎(41才)は、常呂の知り合いのアイヌのレイシヤクに案内を頼もうと思いました。ところがレイシヤクはこの春に病死してしまっていました。それで途方にくれていますと、レイシヤクの甥という男が、案内役を勤めると言って来ました。亡くなる前に、レイシヤクが松浦ニシパ(旦那)という人が来たら、必ず案内して、山々のことをのこらず話してやってくれ、と言っていたというのです。そこで彼を案内人として雇いました。常呂の河口のアイヌの家は10戸のうち7戸から働き盛りの1-2名が宗谷場所や利尻に強制的に連れて行かれていました。

五月十四日、地もとのアイヌ三人(アヘセトル・イコツハ・サケハナ)を案内に常呂川を丸木舟で遡り始めました。武四郎一行はクトイチャンナイで一泊しました。ここはサケの産卵場所で簗をしかけて漁をするところでした。トツハイシャニ老人が出迎えて彼のチセ(家)に招き入れてくれました。ここのコタンは3戸18人の集落ですが宗谷や利尻の漁場へトツハイシャニ家から4人、ノテヒヒウケ家全員、コシコロ家から2人が強制的に働きに連れて行かれて実際に8人しかおらず、老人が武四郎にいうには「子を産み育てて、子供がようやく水を汲んで薪を拾えるようになると、漁場へ取られる。老いて稼ぎが出来なくなると山に返される」この老人の憂痛と吐露するのも無理はないと武四郎は心痛な思いで聞きました。

五月十五日、早朝米、タバコそして従者が獲った鱒を老人に分け与えて出発しました。ヌツケシ(端野)を経て夕方ノヤサンオマナイの一軒目のキムンショカ(42才)を訪れました。ここは妻はホソエンカル、同居の女性ケロ、倅エコロハト、子供2人の計6人で暮していました。今は家主とケロは宗谷へ行って3年ほど帰らず、倅も利尻へ去年の春より取られ、家には妻と子供2人しかいませんでした。何も食い物がないので、ようやく山のものや雑魚を毎日少しずつ獲って生活しているということでした。此処にも米一升を与え粥を煮て、皆で食べました。

五月十六日、翌朝更に川を上って常呂川と無加川とに分かれる辺りベテウコヒ(北見中ノ島)を経て、クツタルベシベ(訓子府日の出)まで到って此処で野宿しました。

五月十七日、快晴に恵まれ武四郎一行はクツタルベシベからムッカに戻り、此処で昼食を取りノヤサンオマナイで一休みして、ヌツケシ(端野)で一泊しました。

五月十八日、ヌンケシからチユウシ(忠志)で浜から乗ってきた舟と乗り換え、このコタンで小使エコラツセに暇を出し住民たちに残った米ニ升と烟草五把を分配しました。此処の住人で常呂の河口から終始案内をしてくれたサケハナには、別に米一升を与えて別れました。武四郎はアヘセトル、イコツハと舟で出発し、くる時に世話になったトツハイシャニ老人の家にも米一升と烟草・針等を配ったところが、トンコリ(五弦琴)を持ち出し贈ると言われたのを辞退して、また来るといって手を挙げて舟に乗り込み別れました。常呂河口の番屋に帰ってくるとそこに番人孫三郎もおり、モンヘツの詰合から米と味噌が、アハシリからも米・烟草等が届いていました。湧別河口の小使も武四郎を迎にきていました。最後まで案内役を務めてくれたアヘセトルとイコツハには夫々烟草三把、手拭、針等を与え、大儀であったとねぎらいの言葉をかけました。

翌五月十九日、早朝トコロを出発してサロマ湖の奥地を踏査してオホーツク海岸にでて湧別の河口を目指しました。

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第六回蝦夷地調査…釧路・厚岸・シレトコ

4月15日、クスリ酋長メンカクシの案内で阿寒・摩周・屈斜路湖の探勝を終えて武四郎は釧路会所に戻ってきました。そこで自前のお金でアイヌに治療を施す桑田立斎(越後新発田藩)一門の美挙を聞き知っていた武四郎が、その弟子で様似・釧路を担当していた井上元長に偶然会いました。昨秋、痘瘡(天然痘)がしばしば流行し逸早く感染病患を防ぐために種痘の御世話有らせられる彼らに感涙を催した武四郎シサムでありました。

4月19日、武四郎シサムは厚岸に着き国泰寺で旅の身支度を解きました。ここはロシアの南下、異教の侵入を防ぐためとアイヌの人々の同化政策のため、有珠の善光寺、様似の等樹院を蝦夷三官寺と呼び、享保4年(1804)に徳川幕府によって建てられました。境内には近藤重蔵が北方から持てきた色丹松があり、この地が千島列島への前線基地でありました。国泰寺の隣には寛政3年(1791)に最上徳内が建てた厚岸神社がバラサン岬に行く途中にありました。

4月25日、根室、納沙布岬を経て、4月28日に走古丹、ニシベツ川(本別海)と渡り野付の人馬継立・日常雑貨・宿泊も出来る通行屋の支配人加賀屋伝蔵のもてなしを受けました。野付の通行屋は国後島、択捉島への要津として標津・目梨・根室・厚岸への交通の拠点でした。

案内のメナシアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、知床半島の沿岸を調査しながら羅臼を経て5月4日、マッカウスあたりで海が荒れだしたので上陸し、洞窟で野宿しました。この岩にはイワスゲ・ハマナズナ・イワサクラソウなど紅白の花が美しく咲いていました。その夜更けにヒグマが出てきて、自分たちが捨てた魚の骨などをバリバリと喰う音が「いと物寂しくぞ覚えけり」なかなか眠りにつけませんでした。戯れに「仮寝する 窟におふる 石小菅 葦し菖蒲と見てこそはねめ」と歌を詠みました。5月5日に岬のシレトココタンに宿泊し、クナシリ、エトロフの山々を見て歌を作りました。「ながむれば 手に取る斗 見えにけり 衣ぬぎ捨て飛びわたらばや」5月6日には斜里側へと探査を続けウトロで「山にふし 海に浮寝の うき旅も 馴れば馴れて心やすけれ」と歌を詠んでの旅でした。

翌日は湯沸湖へ向かいフレトイ(浜小清水)にアイヌ家主四軒、アオシュマナイに三軒、ヤンベツ河口に二軒程アイヌの人々が生活しているのを調査しました。

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第六回蝦夷地調査…阿寒・摩周・屈斜路湖

安政五年3月23日、幕府御雇松浦武四郎(41才)は案内役のクスリ酋長メンカクシとコタンアイヌの人たちとクスリ(釧路)会所を出立。大楽毛を経て、阿寒湖に着きました。阿寒川の流れが水音を立てるところ辺りの山の中で、あわびこけ、赤い色のカタクリの花、蝦夷スミレなどが咲いており、エゾエンゴサクやトリカブトの葉のような形のものがありました。阿寒川の滝見で「いつまでも ながめは尽きじ あかね山 妹背の中に 落つる滝津瀬」と歌を詠ませていただきました。

阿寒湖畔では、亀の甲に似た赤い石があり此処から熱い湯が沸騰して出ていて谷川の水と合流し、湖畔の小さな池に入っている。武四郎はこの池の湯がちょうどいい湯加減で今までの疲れが忽ち取れたような気持ちになりました。

4月1日、津別から弁慶岩を通り、ビホロ(美幌)のアシリコタンに至り家主シュイベリキンのチセ(家)で一夜を過しました。家主の古老エカシは、自分が子供の頃、最上ニシパ(徳内)、近藤ニシパ(重蔵)等には、度々逢い最上ニシパはシャリ(斜里)に越年したるが、其の節は度々行って逢って此山の事を話し、間宮ニシパ(林蔵)はクスリ(釧路)の山々を歩行給ふ時には附いて歩行、また大塚惣太郎様は我が家にて滞留も致され候等審らかに語りぬ、武四郎は大いに益を得て一夜を面白く過しました。

4月6日、山は嶮しくなりカバノキの原野に出ると摩周岳東側の湖岸に降り立ち小さな砂浜にでました。そこには大きな入り口と奥行きも5丈もある洞窟がありました。この洞窟はアイヌの人たちは「神の宿るいわや」として奉り、猟の時の休息に使っていました。武四郎たちも此処で宿泊する事にしました。

翌日には屈斜路湖に着き、岩の間から湧き出る温泉に鮮烈な印象を受け湖岸に遊ぶ一羽の水迄鶏(アカショウビン)を見つけ、その風影を歌に詠みました。「久寿里の 湖岸のいで湯 あつからん 水迄鶏の水乞てなく」屈斜路湖畔を探勝して、「汐ならぬ 久寿里の湖に 舟うけて 身も若がえる ここちこそすれ」温泉に浴して、和歌を詠んで釧路に戻りました。

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第六回蝦夷地調査…狩勝峠越え十勝

安政五(戊午)年旧暦3月4日、幕府御雇松浦武四郎(41才)一行が蝦夷地内陸部の山川地理調査を目的として、石狩からチクベツ(旭川)を経て美瑛川筋を上がってきて武四郎ニシパが手で掬って水を飲もうとすると、アイヌの人たちが「ピイエ、ピイエ」と叫んで飲んではいけないと言う。「ピイエ」とは脂ぎったという意味で十勝川に噴く硫黄が混ざっているということでした。

上富良野を通って十勝に向かう途中、十勝岳が爆発を起し天をも焦がす凄さに、案内役の近文コタン酋長クーチンコロは、地に伏して神に祈りを捧げました。フウラヌイ「川巾弐間計」の川を越えて日の出辺りのレリケウシナイという小川の縁で一泊しました。

「惣て此処巾は三、四里、東西凡十里も有るべきと思ふ平野にして、一カ国の広狭丈夫に有処にて…実に一大良域と云べき地味なり」と武四郎は賞賛し富良野盆地をアイヌ語でフーラヌイと記している。

みち案内のアイヌの人たちと残雪の狩勝峠を越え、ハンノキ、ヤナギ、シラカバが生い茂り、鳥や虫の鳴き声が絶え間なく聞こえる新得町の佐幌川上流にたどり着きました。「川巾七ー八間、川底平盤の一枚岩、急流なり左岸は崖の如く直立して、行動困難なるために右岸に渡り、椴(トド)の木の多い処で宿泊しました。そこで一同一椀ずつ飯を食い、食後アイヌ弓矢で狐(キツネ)を一匹得て来たので、屠(ほふ)りて一同食べたのだが、夜になって宿所の辺りで暫しば狐が鳴くので土人共も心地悪気でありました。

翌日武四郎一行は、ニトマフ(清水町人舞)のアラユクエカシのチセ(家)で宿泊し、地元のアイヌの人々と宴会を愉しみました。以前旅の道中で知り合った当家の二男と再会、彼が一族に「武四郎は樺太の北方まで行ったことがあるムサシ」と紹介、武四郎が樺太のことを詳しく話すと、長老エカシらは大いに喜び、クマの焼肉やシカの腸、サケの燻製などの料理でもてなしてくれました。

ニトマフの次に、武四郎一行は僅かニ里程しか離れていないピバウシ(同町下佐幌平和)で泊りました。アイヌの盗人を捕まえるため、武四郎に同行していた役人飯田豊之助がピバウシのエカシから犯人を雇っている事を聞かされたためでした。

同年夏再びビロウ(広尾)より十勝に入り、音更川河口付近を歩き鈴蘭の高台に立った武四郎は「追々第一の繁昌の地となるべくと思われる」と云い、「このあたり 馬の車のみつぎもの 御蔵をたてて積ままほしけれ」と歌に詠みました。

十勝川や狩勝峠は十勝アイヌと空知・上川地域を結び、十勝地域は日高アイヌと釧路・厚岸・国後を結ぶ重要な交通要所だった。十勝川の太平洋岸の河口豊頃町大津がサケの漁場として賑わいをみせ発祥の地といわれ、ここが十勝内陸開発の拠点と武四郎は湊の整備を箱館奉行に進言しました。

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第六回蝦夷地調査…中山峠越え石狩河口

安政五年(1858)1月29日(陽暦3月14日)、山川地理取調役御雇松浦武四郎(41才)は、アイヌの案内役をお供に虻田・札幌間の山道を開くための調査に、昨年訪れた虻田より積雪中の野山の堅雪に踏み入りました。二里ほどで洞爺湖につきました。湖中には四つの島があり、冬でも凍らない。アイヌの人たちは「神の水」(カムイワッカ)と呼んでいる。有珠山の頂上からは、絶えず噴煙をあげている。また後ろを振り向くと羊蹄山の大きな峯が白くそそり立っているが、この山は富士山のような姿をしている。

洞爺湖から一行は、留寿都から喜茂別川に沿って中山峠の嶮しい踏み分け道を登りました。少しの間雲が切れて四方を展望すると、真北にムイネ山、西北に石狩の原野が果ても無く広がっている。一直線に下り凍結した川のほとりにでました。やがて豊平川の本流に沿って下ると川の中に煙の上がっているのを見ました。近づくと温泉(定山渓)が吹き出ていました。辺りは雪も氷も無いので、此処に泊ることにして温泉に入ると、冷え切った体の疲れも一度に消えていく思いでありました。

翌日、両岸に巨大な岸壁が続くところを通過すると雑木林の広い原野に出て、川の向こう左岸には藻岩山を見ながら真駒内を経て豊平川の渡舟場に着きました。

そして武四郎一行は琴似を過ぎ、発寒川畔の石狩十三場所ハッシャムで知り合いのアイヌのチセ(家)、アイクシテのところで泊りました。

翌日武四郎ニシパは、ここから東北の方角に真直ぐ原野を横切って石狩へ出ようかとアイクシテに相談すると「この頃ずっとお天気が良い日が続いたから、野地の氷が溶け出して危険でしょう。浜伝えに行かれた方が安心です」というので、西北の方を目指し銭函に出て大浜の砂浜を冷たい東風に吹き付けられながら石狩へ歩き続けました。

石狩場所は村山伝次郎の請負を廃止して、箱館奉行の直捌制となり、漁場元小屋を本陣として石狩会所と改め調役荒井金助が詰めていました。役所に到着の届けを出して一安心。武四郎ニシパはこの道中で、道案内などしてくれたアイヌの人たちや知り合いの石狩アイヌの人たちを集めて再会とその労をねぎらい楽しい酒宴を催しました。

安政五年2月24日(陽暦4月7日)、地理取調役御用武四郎一行は、石狩川河口を出航、「案内土人」四人、米ニ斗五升、味噌一貫目、塩五合を用意し、鍋・刃物を携えて二隻の丸木舟で大河に遡り入りしました。二日後には、ツイシカリ(豊平川合流口)に着き、以前に世話になった乙名(村長)ルビヤンケの家に泊りました。

2月27日に対雁を発ち、石狩大河に入る。川幅百余間(約200m.)氷片が流れてくる。しばし過ぎて右の方にエベツブト(江別河口)を上り夕張川との合流点順調に過ぎ、川幅が狭まり神居古潭の景勝地を北に渡って、のびやかに原野を拡げた石狩の野に入る。イジャン(深川市一巳地区)の北西端に到達した。これから山を越え十勝川から太平洋岸に出る道を探査する予定であった。

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第五回蝦夷地調査…尻別川

安政四年五月六日~七日、山川地理取調役松浦武四郎(40才)は尻別川シリ・ベツ(山の川)の水源の場所を確かめるため、四人のアイヌ案内人とともに丸木舟で磯谷から川を遡りシャマッケウッカ(大谷)まで着たけれど、雪解け水の激流と嶮しい峡谷で如何しても先に進むことが出来ず諦めて引き戻りました。先に石狩川、天塩川の探査を済ませて帰路再び挑戦する事にしました。

川口の磯谷は船着もよく、早くに開けたが「文化年間の三壮士(近藤重蔵・最上徳内・間宮林蔵)も終に水源を極めることを能わず」と先達の思いを武四郎も味わった。

尻別川は支笏湖の西山の裏から発し、羊蹄山を廻り後志の中央峡谷を横流れして日本海に入る、この大河は海辺が、生活の中心だった江戸時代には和人にとって前人未到の深山は熊の棲む所でしかなかった。

石狩川、天塩川の探査を終えて夕張やショコツ場所廻り千歳川番屋にて「里遠き しこつの湖に 筏より 棹さしゆけば 魚のより来る」と歌を詠みました。七月二十六日、今度は反対側の東海岸の虻田から四人のアイヌを雇って、洞爺湖、留寿都、喜茂別を経て、ルサン(留産)まで行き、ここで丸木舟を作って、二人のアイヌに川の両岸から曳き舟させて川を上り、尻別川の水源まで行き着くことができました。尽きることのない森林と激しい流れに、一同、心細くなり、ただ山霊に無事を祈るしかなかった。

八月九日、帰路ソウスケ(宗助川)倶知安は、サケ・マスの宝庫として名が知られていたが、岩内の乙名セベンケイが、棹をとり武四郎ニシパは丸木舟に乗って渡った。「あやうしと 尻別川の白波を 命をかけてけふわたりけり」と詩にしました。雄大な蝦夷富士、後方羊蹄山を拝みながら激流の尻別川探査行でした。この日は岩内の酋長セベンケイの漁小屋に泊りました。

明け方に出発、ニセケシヨマ(ニセコ)では岩は岸だけでなく、川の中にも岩があり危険で、荷物を全部岸に揚げ、空舟にして陸から舟を操作しながら下り、難航であった。ここではアイヌたちは、木幣=イナウを捧げて山の神に祈ってから通る習慣であった。そして私たちは日暮れまで歩き続けて、川の崖の洞穴に野宿しました。

朝の食事は、昨日獲ったかわうその肉を生のまま詰め込み、余りの肉も昼の食料に持って出発しました。風は穏やかに肌をすり抜けて、今しがた降りしきった雨も爽やかに、晴れ上がり雨雲の去ったかなたの山々の峯も、緑がひとしお深く目に沁みます。山々は赤陽に映え蝉しぐれはひときわ繁く、木洩れ日を避けながら山道をたどると、いずこともなく湧き出ずる水のせせらぎの音が、そよ風を受けた木の葉のそよぐ音と相重なって、しばし歩を止め時の流れも忘れて心ゆくままに自然の美しさに浸るのでした。

武四郎は磁石を取り出し、北に大きな高い山があってその麓を通過している。それらが何という山なのかアイヌたちもよく判別できない。(ニセコの山々だろう)羊蹄山からはもう大分遠くなっていることは確かである。西の方から流れて来る少し大きな川に出遭った。アイヌたちは「是は確かにマッカリベツ(真狩川)だ」と言う。そして下ると昆布いう所、昔からアイヌが丸木舟を作る場所になっていて、舟が出来上がるとその舟で川を下って海岸の磯谷に出るので、アイヌなら誰でもよく知っている所なので、武四郎も此処まで来て一安心しました。今まで和人が一度も足を踏み入れたことのない所を今私が踏破したと思うと愉快この上もない気持ちになった。

川を下って目名まで、この春不本意ながらも引き返した地点である。夕方、磯谷に着き、川の渡し場まで来ると渡し守が武四郎を覚えていて「よくぞ御無事で…」と喜んでくれて手作りの濁酒を振舞ってくれました。お返しに武四郎たちは、山中で獲った鹿の肉を提供する事にしました。

寿都に着くと、会所に調役役の岡田錠次郎を訪問し、先日来アイヌ達から頼まれた件について善処方をお願いした。尻別川河口で禁じられている網で鮭を獲ってしまう為、その上流を漁場にしている岩内、虻田、有珠のアイヌが鮭が獲れなくて困っているという。その事情を説明したところ、調査役は早速承諾されて、今後そういうことのないように取締りを厳しくする事を約束して頂いた。そこで武四郎はアイヌたちに、その旨を伝え又、この度の踏査には大変に協力して呉れたので、その手当として米、酒、漆器類などをそれぞれに分けてやってその労をねぎらてやりました。アイヌたちは喜んで、武四郎ニシパに何度も礼を述べて山の方に帰って行きました。

そして会所で武四郎は、長谷川儀三郎より磯谷の請負人桝屋栄五郎と岩内の請負人仙北屋仁左衛門の出願で雷電道路が開削され、また栄五郎の父定右衛門が私費で黒松内山道の黒松内から歌棄までを開削して、その功により一代苗名を称することが許され一生のうち二人扶持を箱館奉行から推薦され幕府より給せられることを知りました。

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第五回蝦夷地調査…天塩川

テッシ・オ・ペツ(梁・多い・川)天塩川は、道北地方の内陸部を貫いているため、東のオホーツク海、西の日本海、南の石狩川水系に昔からアイヌの人々が利用していた道があり当時は交通の要所でした。今回の松浦武四郎の踏査もこうした交通路の調査が目的でした。天塩には運上屋(商いの場)や備米蔵、馬屋(馬25頭)、弁天社などが建っていました。そこには常時下役人と同心、足軽が詰めていました。

安政四年六月八日(旧暦)、山川取調役武四郎(40才)は堀奉行より革靴、解毒丸など薬品等頂戴し、米、味噌、こうじ、煙草などの食料と縄、むしろ、ござ、蚊帳、鍋などの野宿用具を調達しました。丸木舟には、武四郎ニシパが乗る舟と荷物用の2雙で各々二人ずつアイヌの人が乗り込みました。案内人のアイヌの人は、武四郎ニシパの舟に士別出身のアエリテンカとトセツが乗り、荷物用の舟には名寄川筋のエコレフとトキコサンが乗りました。いずれも川筋の地理に明るい天塩川上流のアイヌを連れて天塩川を丸木舟で出発しました。

6月9日、ポロ・ヌプ(大きな・野原)幌延の原野の中を大きく蛇行する川を、風を友達に遡っていきます。マスやウグイ、川貝なども採って食料とし、河原での野宿は、蚊や虻に悩まされ食事中は火をたいて凌ぎましたが、小便も出来ないぐらい難渋の有様でした。

6月10日、11日、ポン・ピラ(小さい・崖)中川には三日目の野宿をしたが相変わらず蚊や虻、ブユが多いが、油紙と蚊張を持参したので大いに助かりました。瀬を越え、淵をめぐりながら川を上る一行の舟に、群れをなして近づく魚影がありました。武四郎にとっては石狩川で対面しているチョウザメでした。深い淵に多くいて舟に頭をあげて近寄ってくる様には薄気味悪い感じでした。

6月12日、オ・ト・イネ・ブ(川尻を歩く・泥んこ・川)音威子府天塩山地の山々に囲まれたトンベツホ(頓別坊)では、トキノチというアイヌのチセ(家)に泊りました。そこではアイヌの人々が捕まえた熊と武四郎ニシパがあげた酒とで、熊送りを行いました。(イヨマンテという祭礼です)特に、熊の皮と骨肉をチセ(家)の窓から出入りさせたりする独特な風習を目の当りにし、武四郎ニシパは驚き感動しました。天塩川探査の帰途中、オニサッペ(筬島の鬼刺川付近)で、故事に詳しい長老エカシのアエトモにアイヌの人々が、男を「カイナー」、女は「カイチー」と呼んでいる理由を尋ねました。アエトモは「カイ」とは「ここの国で生まれた者」の意味で、ナーとチーは尊称でアイヌの人々の古い呼び方であると教えて貰いました。この事が後の明治2年、武四郎が提案した幾つかの道名案の一つ「北加伊道」をもとに「北海道」の名称が決められたのでした。

6月13日・14日、ピウカ(石原)のオクルマトマナイ(美深町小車)の貧者エカシテカニ(家内12人)のチセ(家)に一泊した。チセの屋根はところどころ破れ、その破れ目にはふきの葉がのせられていた。家の中に入ると武四郎の足元にはノミが跳びまわっている。その家の子供たちは、柳の皮をはぎ、それを敷物にと持ってくる。家の母はウバユリの団子を朴(ほお)の葉椀に入れ差し出してくれました。その礼にと粥を炊いてふるまうと、エカシテカニは「もし天塩に外国の船が来たならば、この毒矢を持って戦うつもりでいる」と喜び勇ましくこぶしを振り上げて言うのでした。夜になると五弦琴(トンコリ)の音色が家に響きわたり、武四郎はその音色に魅了され、もう一曲と所望しました。それから武四郎は「私が今年で、40才になるのに、妻も子供もいない」と言うと、とても驚き「心もとないことでしょう」と嘆いてくれた。少し間をおいて、「何処に住んでいるのですか」と尋ねてきたので「私は江戸といって、松前から30日以上かからないといけない所に住んでいる」と言うとエカシテカニは、また驚いて「ああ、それは残念だ」と言う。「もしニ、三日でいける所だったら、あなたはこの辺のシサム(和人)と違って、心の良い人なので、私の子供をあなたに預けたものを、あまり遠い所なので、残念ですが、預けることはできません。」と私に妻子のないことを心から嘆いてくれたのは、まことに嬉しいことでした。忘れえぬ触れ合いを此処で経験しました。翌日にはベンケニウブ(仁宇布川と天塩川の合流点付近)のコロイカ、トウリの家に泊めてもらい、アイヌの女性から織物の様々な色に染める方法を教えて貰いました。

6月15日~18日、ナイ・オロ・ブト(川・の所・口)名寄智東に二箇所のシュボロ(大きな滝)という急流があり、アイヌの人々がお祈りをして通過します。このあたりのチセ(家)は蚊やヤブを防ぐ目的で囲炉裏の煙を家の中にこもらせるため、窓を小さくした構造となっていました。吸血虫に悩まされつづけたせいか、その建て方に甚く感心しました。川ではマス漁の梁(やな)がしかけられ、山には仕掛け弓によるシカ猟の時期でした。テシオアイヌの男の人は木のキセルを使っており、女性からは苦労して作った織物を和人との交易では安く取り上げられる実情を武四郎ニシパは聞かされました。

6月16日、17日、パンケ・ノカナン(下の・小さい・川)下川町チノミ(上名寄)の酋長の家を拠点に名寄川を踏査しました。酋長の家には和人と交易して入手した器や武具があり、オオウバユリの団子などでもてなしを受けました。名寄川の奥では、サンル川の合流点で舟を置き、川の中を歩いて踏査し、上流のことを案内のアイヌの人から聞き取り、サンル川を上がり、雄武に至る峠に達しました。

6月18日、フレ・ペツ(赤い・川)風連町ハチャシナイ(初茶志内)山上流のユウベウンヌに大きな淵を通り士別に向かった。

6月19日、20日、シ・ペツ(大きな・川)士別市では武四郎は、リイチャニ(北町)の屋根の腐れていた無人のニシハコロの家に宿泊しました。20日サッテクベツのルヒサンケの家に泊り、また帰りにも泊り武四郎ニシパが来ているとコタンのアリエテンカ、トセツ、ルヒサンケの皆が集り、賑やかに酒宴をしました。21日パンケヌカナン(金川)、カアナイ(上士別)、間宮林蔵が来たと言う伝えられているナイタイベ(内大部)を通り、トナイタイベ(東内大部)まで行き一泊しました。翌日ナイタイベから舟で急流をずぶ濡れになりながらサッテクベツまで下ってきました。

ケネニ・ペツ(ハンノキ・その川口)剣淵町、武四郎は6月20日、支流の剣淵川に入り、途中で急流のため舟を降り川岸をつたわって犬牛別川との合流点まで行き、その先のことをアイヌの人々から聞き取りしました。それによると、犬牛別川の上流にはタンネベツ、最上徳内が来たというシュルクタウシベツなどの地があり、その源から石狩川筋の雨竜川へ行けると聞き出し記録しました。交通路として利用した川には「ルペシベ」(山越えで向こう側へ下りる道)の地名が付けられる事が多いのでした。

天塩川のほとりには、北の大河をはぐくみ山々に抱かれ古い風俗を残しながら自然と共生する人々が豊に暮していた旅も終わり6月30日に無事天塩に戻ってきました。

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第五回蝦夷地調査…雄冬山道開削

寛政・文化年代の道路開鑿は主として東蝦夷地の海岸沿(礼文華・襟裳岬・黄金海岸等)に限られていたが、安政以降は西蝦夷地にもその力を注ぐようになった。箱館奉行は当時、資力・労力ともに豊富であった場所請負人に命じて道路の開鑿を積極的に行わせ、さらに篤志家にも道路の開鑿を奨励したので、この時代西蝦夷地方にも道路が開削されたのです。これはロシアの南下に対する蝦夷地の警護と鰊景気の商業上の必要性もあったからです。

「場所請負人其他篤志家は何れも蝦夷開拓の趣旨を奉じ、私費を投じて道路を開鑿したれば、箱館奉行は之を幕府に上申し幕府より褒賞を賜りたり」…いずれも箱館奉行による半ば強制的な奉仕作業で蝦夷地の道路が開削されました。

「阿冬(増毛)山道」の開削は、伊達林右衛門智信の普請で行われた。この山道は「阿冬は浜益増毛間の難所たり、殊に阿冬は西蝦夷地三嶮岬(モッタ岬・神威岬・阿冬岬)の一つにして従来掻送船の沈没すること少なからず、人々恐怖を抱きたる所なりしが、安政四年浜益、増毛両場所請負人伊達林右衛門が自費を以って、阿冬山道を開削した。浜益より増毛に至る道程は九里余であった。

以前道路の開削調査に当った箱館奉行堀織部は、浜益、増毛間を山道とする計画を立て幕府に建言書を提出していた。そこで幕府は山道開鑿をハママシケ場所とマシケ場所両場所を請負している伊達林右衛門に命じました。そして浜益幌より切り始め増毛ポンナイ浜まで、その里程は約九里として安政四年五月十八日から工事を始める事になったのでした。

松浦武四郎の記録によれば、ハママシケ場所方面は五月十六日、十七日頃に取り掛かり、人夫四十人程を使って、僅か五十六日間で工事を終えている。一方マシケ場所方面は五月下旬から始まりハママシケ側に負けないようにと工事を急いだ。山道開削は七月時点でほぼ完成しているとしている。

この道路開削によって西蝦夷も石狩、厚田、浜益を通って増毛まで陸行が可能となりました。

武四郎は「オフイ岬は蝦夷地第一の嶮岬にして、往昔より九里八十間(約35km)の間、波浪強敷故、九月中旬より通船難く、是が為如何なる非常の事たりともその注進を滞る事有て、只山狩猟の土人のみ山脈を知りて通行する由」と記している。

そして雄冬山の頂上に、祠を奉って箱館奉行堀織部正自筆の扁額を納めました。これは「笹子屋」(人夫小屋)是をまた茶屋にすべしと談じ置き、傍らに於布居(おふい)の社というを建て、金比羅神を祭る神社を建てて浜益の湊から船で天塩に向かいました。

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第五回蝦夷地調査…石狩川

安政四年松浦武四郎(40才)は、箱館奉行村垣淡路守から蝦夷地一円の山川地理等を取調べ、新道切開き場所の見込みを報告するようにとの辞令を受けました。4月29日(陽暦5月20日)に箱館を出立し、石狩川、天塩川、そして尻別川の源流を探査といった道央・道北地方を検分する予定で石狩に向かいました。

5月14日探査の途次、岩内から余市に至る新道開削の検分しながら稲穂峠を越えて、七曲り、然別、オサルナイを経て余市に向かったが、先ず新道の出来栄えを歌にして詠みました。「岩を切 木を伐草を 苅そけて みちたいらけし 山のかけとも」

5月17日(陽暦6月8日)、石狩川の河口にある場所請負人村山伝兵衛の石狩運上屋に着いた武四郎は、翌日支配人能登屋円吉に石狩川上流、上川方面の調査のため、土地に詳しいアイヌの案内人を四人ほど世話して欲しいと申し入れた。前年の旅では、甚左衛門という番人を案内役という名目で監視役に付けられ迷惑したので、今回は番人役は不要と予め断っておいた。

武四郎としては、昨年同行して上川近辺の山の様子をよく知っているうえ、シャモ語もできるイワンハカル(40才位)を当てにしていたのに、今回は都合がつかないと断られた。同人は一日早く夕張へ追い上げられていました。イワンハカルが支配人や番人の目の届かないところで知られてはまずい事を、武四郎に話すのではないかと心配したのでしょう。

19日早朝、4人のアイヌ(セツカウシ・トミハセ・ニホンウデ・アイランケ)と共に荷を積んだ丸木舟で出発しようとしたところ、番人小弥太という者を案内にと差し向けてきました。探られたくない腹を持つ地元場所の支配人は、武四郎を地理取調べだけでなく自分たちに都合の悪い余計なことをする目障りな出張のお役人と思い監視をつけたのでした。

5月20日(陽暦6月11日)暁方ツイシカりの番屋を出発、樹木や熊笹の生い茂る川筋を丸木舟で漕ぎのぼる。第二夜は美唄川合流点付近のニイルルオマナイでの止宿である。翌朝水面に枝を垂れる柳が風に吹かれ雨かと疑うほどの下露が落ちてきて、川面に水煙が立ち上り、あたり一面靄で幽玄な世界であった。鹿が親や子を呼ぶ鳴声があちらこちらから聞こえるなかを出発しました。

5月21日、カバト川(浦臼付近)三軒屋に上陸し晩生内近辺を踏査してその折、樺戸連山の眺望を手控えに記録して一泊しました。対雁からここまでが下カバトで、文化七年人別では百二人安政三年人別では三十一人、十軒となっているが他所同様に、すでに一軒もなく「有丈浜え下げ有」である。ここからウリウプト(雨竜)までの上カバトも文化七年三百七十二人、安政三年百三十四人とあるが実際にはトック(新十津川町)に三軒オシラリカ(尾白利加)に一軒だけ、上下カバト合わせて三十四軒あるあずの家がやっと四軒しかない。武四郎はここでも人別帳記載の人名一々に当って詳しく調査している。

上カバトと下カバトの境…カバト川は江戸時代に松前藩が設けた石狩13場所(商場)の内の上カバト場所と下カバト場所の境界となっていた川です。

5月22日トック(新十津川町)着、トック(徳富)川の合流点である。同行の案内人の一人セツカウシは、ここの乙名であり、彼のチセ(家)が泊りの宿である。「日数経て 突区の里に 来て見れば ここもかはらぬ 芦ふきの宿」と詠いました。隣は小使トミハセ(37才)の家、妻ヤエノマツと子供三人が住んでいました。

トミハセは父母を敬慕し、二人が五、六年前に死んでからというものは、朝な夕なにさめざめと涙をこぼし、父母の霊に何事かを語りかけていた。石狩の運上屋へ雇いに行かされているときも朝な夕な山の方へ向かって何か言っているので、仲間のアイヌが「何を言うのか?」と聞いてみた。すると彼は、今日は寒かった、今日は暖かだった、何の仕事をした、どこえ行った、今帰ったと一々親へ告げているのだと答えた。その話を聞いた武四郎は其の心栄えに感心しました。

セツカウシもトミハセも前年の旅のさいに案内役を務めてくれた旧知の仲であった。今回石狩の浜で会ったとき、トミハセはチタラベ(横模様の入った草ござ)一枚を去年のお手当てのお礼ですと持ってきてくれた。武四郎シサムは、その篤実さに感銘して、今度の山行きの案内をたのみ土産に酒二升をあげたいが、ここでよいか、それとも山に持っていてそこで渡すほうがいいかと聞くと「山で下さい」という。その理由を尋ねると、山でもらったら親の墓所へ供えると答えました。

トックに着いて、約束どおりお酒二升を渡すと、すぐにそれを親の墓所に持って行ってやや暫らくその酒を手向けまた自分で飲んでいと嬉しげに拝礼して帰ってきた。そのイチャバル(先祖供養)の後、隣人たちを招いてのこりの酒を振る舞い、このお酒は武四郎ニシパから貰ったのだという訳を「意図も意図も叮嚀に申し聞かせ」酔うほどにシノッチャ(自即興の唄)をして悦びあった。

この酒宴の折に、武四郎がこのあたりは土地も肥えているようなのに、なぜ畑を作らないのかと尋ねると「運上屋から畑作はきびしく禁じられています」という返事。しかし、このたびの御処置(再直轄)では畑を作り和人語も使えというお達しではないか、かさねて問うと、一同大笑いして、ニシパ、松前領のときでも親に孝行せよとか、軽物(鷲の羽、毛皮、熊の胆など藩の専売品)を精を出して取るようにとの申し渡しがありました。しかし、その軽物を取りに行こうとすれば、番人は行かなくてもよいという。(軽物は請負人の利益にならない)、病人や年寄は浜から山へ帰してしまって、雇いが出来ない者などを大切にして飲み食いさせることはないといいます。病人が出たら早々に知らせよというので、病人があるというと、センプリやイボタを煎じ唐辛子を茶に仕立てて飲めといいます。お上の御趣旨というのは嘘ばかりです。と心を開いて武四郎ニシパに真相を教えてくれました。

5月25日早朝イジャン(深川市広里)から丸木舟で石狩川を上り始めた。右は山で、左は平地である。シヘヌカルシ、ホンヌ、ホロナイ等を過ぎるとナイタイベ(内大部)である。川の流れがだんだん速くなってきて丸木舟を漕ぐのが大変である。ヤソシハラ、オツカヤマナイを過ぎると、両側に険しい山で、川の中には所々に大きな岩があり、水は渦を巻きながら大きな音を立てて流れている。ハラムイからは綱で丸木舟を引きながら400m.程進んで、シキウシバに着いた。この辺りをカムイコタン(神居古潭、旭川市境界付近)と呼ばれている景観優美な難所なのです。

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第四回蝦夷地調査…向山隊長の客死

安政三年(1856)5月20日早朝に宗谷を出航、その日に昼には樺太シリマオカに着き、ポロナイスク、シスカ(敷香)八軒の人家。

宿であるハスランケの家に着くと家の入り口に青草を敷いて迎えてくれた。ハー(黒百合)など植物の根を煮て、小娘たちが甲斐甲斐しく魚を手料理してご馳走してくれました。待ち合わせも僅かになっているが米・酒・針などを遣わす。するとこのタライカの人たちは、ニシバ、ニシバと親しみ踊りを興じて、ここまで尋ねて来た武四郎を慰めてくれるのであった。

タライカ人此処までにてオロッコ人と交易する。獺(かわうそ)・狐(きつね)・貂(てん)の三種は尤も貴し。タライカ、スメレンケ、コルテキ、山靼人等の交易の過不足を償ふには青玉を用ゆ、其の遣い方本邦の銭の如し。クシュンコタン(久春古丹)は運上屋、蔵倉、弁天社等美建なり。地名クシュンは浪無静なる、コタン処実に好湊。長崎の平戸で見掛けた千石船も荷をこんもり積んでここで停泊していた。

樺太の土着の人々は、和人(シサム)であれ、旦那(ニシパ)であれ、同族異族の誰某であれ、彼らには分け隔てをする、また媚び諂う気持ちはない。彼らは大樂かに自然人であった。

タナンコタンでの詠 「ひと棹を さしてもがなと 言いはかぬ 異国人の守にまかせて」

異族の区々の住まいあいと、他人を扶け、命を託して誘導して呉れる人間というものが、この大地に多数いる。世界という広大の地上に数多の人々が居て、各々それぞれに日々を生きているのだと、此処まで来て身に沁みて感じ入る武四郎であった。

7月19日宗谷に帰って来た一行は、看病の甲斐もなく客死した向山源太夫隊長を懇ろに弔って、8月16日宗谷を出発し、隊長の遺骨を抱いて旅を続ける事にしました。

オホーツクの海岸を調べ歩き、網走から知床半島の付け根を、山越えシベツ(標津)に出、根室に行き東蝦夷地の太平洋岸を浜中ー厚岸ー仙鳳趾ー白糠ーオホッナイ(大津湊)-ビロー(広尾)-シャマニ(様似)-と踏みそしてモロラン(室蘭)を経て、10月13日に箱館に戻ってきました。

箱館に帰着した武四郎は、其の報告を箱館奉行に提出すべく直ちに日誌の清書に取り掛かったが、11月に病床に臥し、12月には辞世を布団の下に敷き置くほどになってしまた。年が明けやっと快復し尊敬するこの旅の巡見責任者で客死された向山隊長との「扈従日誌」を箱館奉行に提出することができました。

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第四回蝦夷地調査…蝦夷西海岸

安政三年(1856)3月29日箱館を立った箱館奉行組頭向山源太夫隊は、日本海(西海岸)沿いに松前藩からの請取の手付と新道開発のための探査をしながら樺太に向かった。

御雇として同行した松浦武四郎(39才)は再航の時(弘化三年)通った道筋なので、途中ときどき隊から離れ、川を遡行し、山越えをして新道開削の見込みに当りました。その土地、その土地でアイヌの人に道案内を頼んだりしたが、道なき道を踏み分け大変に難渋しました。

フトロではホンアキやイタキシベ、ヤタナイではシイヘシ、シマコマキではホリペといふうに足達者なアイヌの人々が案内してくれた。彼らは武四郎ニシパに自分たちの使っている地名・川名・山名やその意味、土地の伝説などを細かく話してくれた。その最後はアイヌの置かれている境遇、過酷な労働や人口の激減について語るのが常であった。道すがら運上屋、番屋の支配人、番人のアイヌに対する遣り方を聞きて、ひたすらに袖を湿したり…「こころせよ えみしも同じ 人にして この国民の数ならぬかは」

奸商の酷使によって人口が激減したというのである。武四郎はその話に袖を濡らしただけではない。事実を調査し、また上司にも報告をして、善処を要望している。調査の結果「文政五年改、三十一軒、百二十八人、男六十八人。安政元年改、十一軒、三十四人、男二十五人、女九人」ということがわかった。松前藩統治下でアイヌがいかに過酷な労働環境に従事させられていたかを物語っている。

武四郎ニシパのことを聞きつけたアイヌの人たちがスッツまで追っかけて来て、口々に訴えたのである。「シマコマキ土人共直訴に附申上書」という報告書をかいている。それによればシマコマキからスッツの領分に入ったところで、シマコマキのアサリンカ、リクニンリキ他二名が走ってきて熊笹の葉などを敷き詰めて自分たちの着ていた陣羽織を脱いで敷いてこの上に座ってくれと言う。彼らの訴えは場所請負商人によって酷使されたため、若い者も死ぬことが多く、また独身の女性も少ないので自分たちの子孫は絶えてしまうかも知れない。何とか子供たちがふえるようにしてもらえないか。

今まで同じことを支配人や通辞に訴えたこともあったが、かえって憎まれて荒縄で縛られて梁に吊るし上げられて痛めつけられたこともある、というのである。武四郎は彼らから聞いた話を詳細に紹介したあと「右の次第に御座候間、其の大略並びに彼ら悲嘆の趣は何卒御再考の上、土人共立ち行き候様、御処置の程、偏に願ひ上げ奉り候」と結んでいる。

松浦武四郎ニシパがアイヌの人々に愛され慕われているのは、彼がこのように温かい人道的精神の持ち主であったからでした。

積丹半島のフルウ(神恵内)では「しばらくの 晴間も見えて ふるうの海 里の名しるく 五月雨なり」と和歌を詠み通り過ぎました。

エナオ峠というオショロ(忍路)とタカシマ(高島)の場所境界なるよし…5月5日踏査、陸路オタルナイに着き向山隊長が忍路から船行してきて合隊しました。オタルナイの旅席に石井某という者が武四郎を訪ねてくれた。石井潭香はこの時は松前藩に仕えていたが、以前浪人中に崎陽(きよう=長崎)に行き学んでいた。「清朝風を慕ひ好事の人」であった。また文化年間に渡来したカピタン・ヒルケンが「五十年之後は必ずロシアの事有るべし」と云ったと長崎遊学で聞いた話を武四郎に伝えている。

小樽から銭函を経て蝦夷の大河石狩川河口の石狩運上屋に着きました。旅の準備を整え丸木船二艘にトックのアイヌ、トミハセ他数名の案内人と分乗して5月7日に石狩川を遡り、9日ピパイ(美唄)、10日ウムシナイ(浦臼内)、11日トック(新十津川橋本)を経て、石狩川から雨竜川に入り12日ウリウフトオモシロナイ(雨竜面白内)に泊り、楡の皮でシトケリ(わらじ)とシケニ(荷物を運ぶもの)を作り、皆で酒を飲んで寝ました。翌13日恵岱別を経て北竜の石油沢から信砂越え日本海岸の川口に出て15日ルルモッペ(留萌)で「えその海 氷もとけて なかりけり かすみのおくにも 春や志るらん」と歌を詠ませていただきました。そして日本海岸を北上して5月19日、幕府御雇係松浦武四郎と共に向山隊長一行が北蝦夷(樺太)に渡るため宗谷に到着しました。

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ニートから幕府御雇入れ

当時、幕府内には蝦夷地開拓をめぐって、水戸藩主徳川斉昭の急進論と目付堀織部正や勘定吟味役村垣範正らの現実論とがあった。斉昭の意見は、ロシアの南下政策に対抗するために、樺太・エトロフ・クナシリの三箇所の警備を第一として、ここを拠点に開拓を進めていくというものであった。これに対して堀・村垣の意見は、箱館の警備も十分でないのに、奥蝦夷地ばかりを開拓していては多額の費用がかかるのではないかというものだった。

嘉永七年(1854)2月、幕府は蝦夷地の事情を知るために堀織部正と村垣範正に現地を巡見させ復命書が提出されました。

安政二年(1855)幕府は、蝦夷地再直轄の方針を固め太平洋岸は木古内、日本海岸は乙部村を境界線として松前藩に、その以北の全島は直轄として箱館奉行を置き同年4月より警備を東北五藩…津軽・南部・秋田・仙台・会津に担当させました。

箱館奉行として堀織部正・竹内下野守を松前藩から蝦夷地請取のため、西蝦夷地には組頭向山源太夫が、東蝦夷地には河津三郎太郎が遣わされました。

安政ニ年歳末に松浦武四郎(38才)は、「御雇入被申付、箱館表へ被差遣候」の沙汰を受けました。蝦夷地行の辞令である。明けて三年の元旦、今年は生きたる心地になりて麻の裃に正装して、堀織部正に年詞を言上致しました。2月に出立せよと申渡を受け、諸方から餞別を頂戴し、水戸老公、藤堂侯、土井侯から殊の外親切を得ました。

これまで私費で隠密のような旅を続けていた武四郎に、遂に晴れて幕府雇いの身分と応分の手当を得ての公務出張の道が開けたのでした。

翌三年2月6日初午の日に武四郎は江戸を出立。3月5日津軽を出航、4回目の蝦夷地に渡海しました。そして箱館奉行所に出頭し、向山源太夫一行の巡見の準備を命じられました。

3月25日に堀織部正が江戸から函館に着きました。『西海岸新道見立』を建白しておいたところ、西蝦夷地新道を『見立て切り立て候様』懇ろに御沙汰を受けました。そして武四郎と向山隊は、29日(陽暦5月3日)に西廻にて西蝦夷地・樺太へ請渡しに出立しました。

幕府の御用は道路開鑿そのため、山川地理を取調べ、「蝦夷地開き方」を蝦夷地・樺太に踏査経験のある武四郎に命じたのでした。はっきりとした目的意識と任務を持って…手控と呼ばれる野帳に、動きながら素早く多くのことを書き込みできるか重要だった。つぶさな記録、大量の日誌、武四郎はメモ魔だったのだろう。

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開国と松前藩の刺客

安政元年(1854)ペリーがサスケハナ号に旗乗し、軍艦7隻を率いて江戸湾に入り、開国と国交条約を要求、ついに3月31日(陰暦3月3日)日米和親条約を調印次いで下田で交渉がなり下田・箱館が開港となりました。

3月上旬、松浦武四郎(37才)は樺太島の境界で幕府に上申していました。文化五年(1808)間宮林蔵らが満江(アムール)川筋まで踏査、帰途北緯48度白主場所より北130里モロコタンという所に境界標を建てた。この境界標の北には山丹人の風俗をするオロッコ人が住まう。彼らは満州族の古着を着、満語を交えて話す、蝦夷語を話す者は少ない。これから南はすべて蝦夷人同様にして襟は左前(オロッコは右前)蝦夷言葉であって満語を用いない、こうした風俗の違いによって境界を定べきと申し上げました。

5月4日、宇和島候に喚ばれた武四郎は下田の様子を調べ、6月には米艦の浦賀再来の様子を龍土邸(宇和島藩の江戸屋敷)に報告しました。

10月22日にロシア使節プチャーチンが下田に来航、この時は津の藤堂藩の求めで松本十郎兵衛がたって武四郎を推挙して従行、藩士松本は目付として露艦との対応に勤めていた。

プチャーチンは国交、通商を求める特命を持って幕府当局者勘定奉行兼海防掛川路聖顕(かわじ としあきら)と日ロ和親条約について交渉、12月21日、日露修好通商条約が調印された。この条約で日ロの国境を択捉島とウルップ島の間に定め、樺太は次の条約が結ばれる迄は従来通り両国人雑居のままとなりました。

此時、海嘯(津波)にて其船破損せり、異船災に阿い候節人々悦び聲を上げ候事は誠に神国の神国たる處に御座候、或人曰く異船一度来て、将軍様の御他界。二度来て京都の御炎上、上野の大地震は10月2日安政江戸大震。

この津波がプチャーチンの乗るディアナ号を損壊し沈没した。西伊豆の戸田で代船を建造、西洋型船の本格的造船の初めてであった。鎖国中であり外洋を航行する造船はご法度の時代。プチャーチン提督は未知である造船をよく仕上げた戸田の船大工の人たちに感謝して船名に地名の「ヘダ」とつけました。

この頃、武四郎は蝦夷日誌のほか弘化四年(1847)に執筆した松前藩の内情を暴いた『秘めおくべし』で松前藩の稚政を鋭く批判したため、同藩に敵視された。幕府の目附に武四郎を中傷・讒訴して罪に落とそうとし、或いは徳川斉昭が武四郎を登用しようとすると邪魔を入れたりした。遂には松前藩草間党の刺客が身辺を窺っていると心配する友人もあり、安政元年11月、武四郎は小石川の水戸藩邸近くの或る長屋に潜んだ。それは長屋とは言え、実は馬小屋で馬を繋ぐ四本柱の中だけを借り、三枚の畳も五寸ばかりづつ端を切って敷き込み、それに机と本棚を置き、食事には火鉢一つにて土鍋に土瓶ばかり、茶碗、箸等は机の引き出しに入れ置くという惨めな状態であった。

藤田東湖も武四郎の身を案じて、この馬小屋を訪れた。その東湖も翌安政2年10月「安政の大地震」のため震死し、有力な理解者を失った。

この頃になると蝦夷地北辺、東辺には異国船が接近するようになり、松前藩のような弱藩に蝦夷地を委ねていては国の将来は危うくするということで、幕府は蝦夷地を再直轄することにしました。

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黒船来航…風雲急!鎖国体制

嘉永六年(1853)6月4日、松浦武四郎(36才)は日本橋下を早走る船に目が留まった。亜米利加ペリー東インド艦隊司令長官の来国を注進する早船であった。

ペリー艦隊は浦賀沖に軍艦4隻を率いてフリゲート艦ミシシッピーを旗艦としてフィルモア第13代大統領の国書を持って開国を求めにきました。

その時、日本国中「太平の眠りをさます丈気仙(蒸気船)、たった四杯で夜も寝れず」という大騒ぎになった。…当時丈気仙とは江戸の飲み屋で庶民に人気あったお茶のダシガラに焼酎を注いだ飲み物でした。武四郎は御殿場(品川台場)警固の員数に入るよう宇和島藩に頼まれました。

その頃、吉田寅次郎(松蔭)24才と渋木松太郎23才が下田港で伝馬船で軍艦にゆき密出国を企てますがペリーより役人に通知され召捕られ江戸表に送られ「御用留」吟味となりました。

幕府は水戸藩主徳川斉昭を防海参与に任命、藤田東湖も海岸防禦御用掛の肩書きで斉昭の側近で復帰しました。

7月にはロシアの使節プチャーチン海軍中尉が軍艦4隻を率いて長崎に入港、国書を長崎奉行に渡して、日ロ国境問題の解決と通商を求めにきました。

この年10月、13代将軍となった徳川家定に対する将軍宣下(天皇が征夷大将軍に任じる言葉を下す儀式)に際し、国防に関する沙汰書が下されるよう朝廷に請願する計画が藤田東湖、藤森大雅(海防備論)、鷲津毅堂(小説家永井荷風はその孫)によって、密かに企てられた。武四郎は鷲津より密使として上洛を頼まれ、三人が書いた文書と、その企てを知った吉田松蔭の国防の急務を論じた一書などを携えて、9月江戸を出発しました。

東海道では佐幕開国派の志士たちに、顔を知られているので甲州街道を歩き京都に入った武四郎は、多くの協力者(梅田雲浜、梁川星巌、頼三樹三郎等)に助けられて、将軍宣下伝達の勅使として江戸に下る予定の武家伝奏(武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役)三条実万(さねつむ)、坊城俊明(としあきら)をはじめ枢要の地位の公卿に働き掛け、請願聴許の内報を得て、11月中旬江戸に帰ってきました。

ところがこの時、武四郎は水戸斉昭公に依頼され、夷敵退治の錦の御旗下賜を願いに上洛との噂が立った。桜任蔵はこの噂を信じて漸く将軍家と和解し、幕政に参与した斉昭公と幕府の関係を再び悪化させると激怒し、武四郎を江戸帰着の前に取り押え幕府に引渡すと待ち受けた。このことを知った加藤木賞三は武四郎の身を案じて、桜任蔵を藤田東湖のもとに連れて行き、真相を聞かせ斉昭公は全然関係ないことを説明しました。

その年12月下旬、江戸に着いた両勅使は、将軍宣下の後、老中阿部伊勢守らに対して、ペリー提出の国書の要求は「神州の一大事であるから、いよいよ衆心堅固に、国辱後禍のこれなきよう」にとの主旨の沙汰書を授けた。これに対して老中阿部は、将軍以下叡慮を案じられるよう努力しているが、何分にも十分の防備が整っていないことを率直に述べ、なお国防について天皇の思し召しがあれば、遠慮なく仰せ付けられたいと、朝幕の意思疎通を更に一層はかることを約束した。

このように松浦武四郎は、尊攘志士のような役割を果たしたが、後になって、安政大獄により彼の親交を結んだ頼三樹三郎や吉田松陰等が刑死したことを想起し、若し自分が蝦夷地探検に身命を打ち込んでいなかったら無事ではすまなかったであろうと述懐している。

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蝦夷大概図、蝦夷日誌を献上

嘉永元年(1848)武四郎(31才)、加藤木賞三、葉山静夫らと申し合わせ、僅かづつの金を積み立てて、水戸で窮乏中の藤田東湖に送り始めました。

この頃に、「烈公(斉昭)よりいと有り難き仰せごとを賜わりたり」と感激している。水戸藩主斉昭公は北辺についての情報入手に熱心で藩士の碩学豊田天巧に「北島志」を編集させている。

賞三と武四郎の交友関係は、双方の知己である桜任蔵、林鶴梁らによって結ばれたものである。

一介の処世の士に過ぎない武四郎の北辺踏破は、諸国遍歴によって鍛えた体力、多芸多才の教養(篆刻は一家を成し、和歌は佐々木信綱の父、絵画は石井柏亭の父に学び、骨董の鑑定も素人離れであった)に加えるに魅力ある人柄と社交性などによって、行く先々で得た知己、友人の協力があってこそ、漸く可能となった。

武四郎(33才)で、南北朝時代の吉野朝歌人の衰微を憂い難きの歌集『新葉和歌集』を復刻自費出版し、翌年にはアヘン戦争の折に死んだ愛国者陳化成とその遺骸を葦の中に隠した劉国標を偲ぶ漢詩を集めたもので、清国が西欧列強に敗北した悲しみとともに日本の沿岸警備の警告書『表忠崇義集』を出版しました。

武四郎が『蝦夷大概図』を上梓したり、初航、再航、三航の『蝦夷日誌』を執筆して諸侯に献上したりして、世の中に蝦夷事情を明るみに出したことは、秘密主義の松前藩をいたく刺激した。一介の庶民が「蝦夷通」として名をあげ地図まで作ったことが「生意気で面白くない」と地図をまったく認めませんでした。江戸の学者からも「身分も学問もない者が蝦夷地のことをとやかく書き著すなど、分をわきまえぬものだ」という声があった。武四郎は全て自分の目で確かめた情報であることに自信を持ち「これを多くの人に伝えていかねば、明日の日本はない」と信念を持って筆を取り続けました。

蝦夷日誌には、多くの書物、文書から引用されているし、武四郎がその足と目で集めた情報が満載され先に歩いた者が次に歩く者のために案内を買って出る次に歩く者のために、という思いは道路状況に対する不満となる。道を開いたならば、こんなに日時を費やしたり難儀なこともないのに、折角アイヌの人々が通っていたのに拓殖政策のない松前藩は通行を禁止してしまう。

昔の蝦夷地の地域間交通は、もっぱら海岸を歩き難所を小舟で渡るのが主で、内陸には獣道程度しかなく、馬の移入も和人居住地を除き禁じられ、きわめて不便でした。こうした情勢に変化が生じる寛政年間、千島にロシア船が出没した十九世紀初頭幕臣の近藤重蔵、最上徳内や測量の伊能忠敬、間宮林蔵等盛んに道路開削、改修して馬が通れる程度に草木を打ち払い意識的に道路をつくた。ナポレオン大帝の隆盛でロシアの脅威が薄れ幕府直轄から、一時松前藩領に戻るととたんに道路は荒れる一方となっていることに武四郎は義憤を感じていました。

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三航…クナシリ・エトロフ島の探査

嘉永二年(1849)二月32才の松浦武四郎は江戸を立ち、第3回目の北辺探査の旅に出発しました。目的地はロシアと境を接する要地と考えた国後、択捉の両島でした。

閏4月18日(陽暦6月8日)にクナシリ場所の請負人柏屋喜兵衛の持ち船長者丸に水夫として乗り込み東蝦夷地沿岸の浦々を沖走りして国後島、択捉島に渡り各地を踏査し、6月15日(陽暦8月5日)箱館に無事戻ることが出来ました。

国後は寛政元年(1789)5月、場所請負制度による過酷な扱いを耐えかねた先住民アイヌが蜂起し、和人多数を殺害する事件のあった島である。武四郎はこのクナシリ・メナシのアイヌの反乱を詳しく当時の事情を調査している。

五十年ほど前に先達の探検家幕臣近藤重蔵が寛政10年(1798)、高田屋嘉兵衛の持ち船で大日本恵登呂府より帰り厚岸会所での一条を引く・・・「長崎御用之俵物(煎海鼠、干鮑、昆布等)蝦夷地特産品の産出を強要している松前藩士や場所支配人、番人等がアイヌを搾取」と記録を査読、流石に鳶目菟耳な武四郎である。この頃にはアイヌ語も日常困らぬ程度に身に付いていました。

場所請負制度は、米が収穫できない蝦夷地の松前藩では、藩士に「商い場」のアイヌとの交易権を与え、それを扶持としていた。藩士は場所の交易を商人にまかせて、その請負料を取りました。請負人は漁業を主としまた近江商人が多く、アイヌを酷使し搾取のし放題というのが現実であった。

請負人柏屋(近江出身)は徳川幕府大老井伊家の御用商人で蝦夷地交易では「又十」の旗印をなびかせて、ソウヤ、エサシ、モンベツ、トコロ、アバシリ、シャリの六場所の請負人になり、漁場の水揚げ額が莫大であり松前一の豪商であった。斜里のアイヌは国後方面へ、紋別のアイヌは宗谷利尻等へ強制出稼ぎをさせて、過酷な労働で民族の荒廃を窮迫させていた。

武四郎は国後から択捉には、島の役人が見廻りに往来する船の賄い方となって渡りました。国後、択捉の旅により北辺の地、蝦夷全州の踏破しました。これで江戸時代の「蝦夷通」の基盤ができたのです。

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再航…(2)百印百詩の雅会

樺太探査から戻ると、頼三樹三郎(22才)が全国巡遊の途次江差に立ち寄り斎藤家に寄宿していた武四郎(29才)を訪ねてきました。一見旧知の如くたちまち意気投合、親しさを覚え、路銀を使い果たしていた三樹三郎のために「一日百印百詩の会」を催すことにしました。

弘化三年(1846)10月14日((陰暦=最も日の短い冬至の前日)斎藤鴎洲の一族が経営する料亭、雲石楼で雅会を催すことになった。武四郎、三樹三郎の両人も、お世話をかけている伯交(鴎洲)に感謝をこめての開会となった。この催しには多くの文人が集まりました。見物人の中から「題」が出されると、その「題」をもとに、三樹三郎が詩を詠んで紙に書き、武四郎が題名を鉄筆を使って石に彫ってハンコを作り、その紙に押印する即興芸でしたがそれを百回行うという途方もなく大変な作業でした。しかし二人は夜明けから日没までの間、多くの人が見守る中その百印と百詩を完成させました。

三樹三郎は「常軌を逸する行動であろうが、天のある限り伝え残るであろう」と述べ、武四郎もまた「一時の遊戯三昧に至ると雖も然も亦韻事(みやびやかな遊び)なりき」と、当事者の両人とも誇らしげであった。

弘化四年(1847)の正月、松浦武四郎は江差で迎え雪の中を松前に赴き、津出身の松前藩士山田三川のところに止宿。三月は箱館に出、請負商人の家に寄宿しながら、エトロフへアメリカ人数名が漂着した一件を調べたりしている。五月津軽に渡り、日本海側を歩き新潟に行き佐渡に渡って九月まで全島を巡りました。

秋は越後から上州へ、足尾から日光へまわって十一月中旬に江戸へ帰ってきました。

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