第六回蝦夷地調査…室蘭から箱館帰着
安政五年の夏、キミタニシパ(山歩きの旦那=松浦武四郎)は門別の奥から貫気別に入り、岩知志方面に抜けそこから沙流川の本流を下る経路を探査、地名・人名・続柄・年齢などコタンの状況を詳しく調べました。ホロサル(振内)でアイヌの人達の立派な居住まいに驚き、「世ばなれし 保路さる山の 奥えみし 都の呼ぶりいつならひけん」と歌に詠みました。
六月には、蝦夷奥地の調査の帰路に浜厚真からトンニカ(富里)のエカシュムのチセ(家)に二泊しました。「えみしらも 志らぬ深山に 分けいれは ふみまようへき道たにもなし」と詠みました。そこのトンニカコタンは土地高く肥沃で、アイヌの人たちがみな畑を耕して住んでいました。武四郎が泊った夜のことでした。2頭の犬がしきりに鼻を鳴らしながらやってきたのです。エカシュムはそれを見て弓を持ち走っていきシカ2頭を捕まえて戻ってきました。聞けばこれは畑を荒らしにくるシカとのこと。犬たちは吠えるとシカが逃げてしまうと考えたのか、鼻を鳴らして知らせそれにピンときたエカシュムがシカを捕まえに走ったというわけだったのです。武四郎は「実によく仕込まれた犬だ」と感心しました。その地では厚真犬と呼ばれていました。
八月十一日(陽暦9月17日)に武四郎ニシパは惣小使リキシノを召し連れてヌフルベツ(登別)温泉に行く途中、「カモイワッカ」という冷水噴出、其の底白砂を噴出すぐに一筋の流れになる。名義・神の水義也、古くから神の水にて喉の渇きを潤しました。温泉につかり疲れを慰してホロベツに着くと法台小僧に逢い此者は伊勢朝熊岳の僧なり、武四郎が生まれた伊勢国の朝熊岳金剛證寺の僧に偶然に出逢いました。
八月十二日、武四郎はモロラノ(崎守町)に入り、室蘭の命名の理由として「会所元へ何れより行っても、小さき坂を下るゆえに此名有るにて御座候」と此地の坂路の印象を挙げている。このチイサキ坂ヲ下ル「モ・ルエラニ」のアイヌ語の発音を室蘭という名に採用したのでした。当時の交通路は、伊達方面から崎守町仙海寺の坂(モ・ルエラニ)を下り、崎守町からペケレオタ(陣屋町)を通り、ここから山に入り、知利別を経由して鷲別に抜けましたが7つの山を越えなければならず「七段坂」と呼ばれる嶮しい山道でした。
外国船の日本近海出没が頻繁になり、幕府は北辺警備のため室蘭に出張陣屋を建てることになり安政二年南部藩に箱館から幌別までの警備を命じ、勘定奉行の新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)が構築計画を担当しました。この陣屋には、常時350人ほどの兵や村夫で警備に当っていました。
室蘭で一夜を明かした探険家武四郎は翌朝早く起きて、地球岬をはじめトッカリショ、マスイチ、イタンキの浜を歩き内浦湾を望みながら有珠に向かいました。
八月二十日八雲由追の稲荷神社に今年1月25日、武四郎は大明神に六回目の調査の成功を詣で、いつも此社に捧げものをして道中の安全を祈って通る、この度も無事戻ってこれた事を報告しました。そして翌日箱館奉行に出向き堀織部正に帰館の報告をしました。
武四郎は最後の蝦夷地踏破を終えました。安政五年(1858)十月箱館を出発、翌年の正月は江戸で迎えました。
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