再航…(1)北蝦夷カラフト探査
弘化三年(1846)29才の武四郎は、年が明けた1月2日(陽暦1月28日)再び蝦夷地に旅立つた。水戸を通ってまた会沢様を訪ね、水戸藩改革派のリーダー藤田東湖様にも会いたかったが幕府の忌憚に触れ藩主斉昭様と共に謹慎中でありかなわなかった。
江差に到着すると、前年に知り合った斎藤家の斡旋で松前藩お抱え医、西川春庵がカラフト勤務を命じられて出発する「その供の者、名は雲平で法被姿の草履取り」として樺太に渡る機会を得た。樺太勤務の役人たちと連れ立って4月10日に江差を出発した。
日本海岸沿いに約一ヶ月かかって北端の宗谷に、この時案内役のアイヌの人たちと次第に親しくなりアイヌ語の習得に励んだ。宗谷の港に着いたのは5月17日、そこで一週間、風待ちをしました。
風を得て出航するが濃霧や波が荒く船酔い等難儀しながら、5月25日(陽暦6月18日)に樺太シラヌシ(自主)の運上屋たどり着き空腹を充たし体を伸ばして久しぶりの寝具で眠りにつきました。一行は更に樺太南部(マーヌイ、クシュンコタン)を巡察し、彼らと共に東西両海岸を踏破した。シラヌシに近いウエンチシ(遠知志)でアザラシの大群を見て驚き、山丹人との交易の様子なども見聞できた。
シラヌシから宗谷へ帰ったのは、7月16日(陽暦9月16日)であった。ここから武四郎は別行動をとり、アイヌの案内人一人を連れてオホーツク海沿いに枝幸,紋別を経て知床のルシャで投宿した。アイヌのチセ(家)で泊めて貰ったときは、夜中にも炉に火を消さず眠る武四郎を守って熊がよく出るからと寝ずに炉辺に火を焚いて守護してくれた。
昨年9月に建てた知床の標柱に藤田東湖作「玉鉾の みちのく超えて 見るほしき 蝦夷が島の雪のあけぼの」の一首を書き添えました。そして宗谷に戻り利尻、礼文島に渡り探査しました。
宗谷に戻り日本海岸を陸行し、石狩川を丹念に調べ丸木舟で千歳川を遡行ユウフツを経て9月上旬(陽暦10月上旬)江差に帰ってきました。
五ヶ月の探査行で武四郎は、商い場や運上屋、漁場そして内陸部の地形、アイヌ民族の生活、人柄、習慣、労働形態等など絵や文字にして詳細に記録しました。アイヌと同じ火で煮炊きし、同じものを食べ寒い時には一枚の熊の毛皮に共にくるまって寝ました。アイヌの人たちに好感をもって迎えられるようになりました。「人が人を知らずして、何で人の道をまっとうできましょう」武四郎は見事に実践に移したのでした。
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