トップページ | 2007年4月 »

再航…(1)北蝦夷カラフト探査

弘化三年(1846)29才の武四郎は、年が明けた1月2日(陽暦1月28日)再び蝦夷地に旅立つた。水戸を通ってまた会沢様を訪ね、水戸藩改革派のリーダー藤田東湖様にも会いたかったが幕府の忌憚に触れ藩主斉昭様と共に謹慎中でありかなわなかった。

江差に到着すると、前年に知り合った斎藤家の斡旋で松前藩お抱え医、西川春庵がカラフト勤務を命じられて出発する「その供の者、名は雲平で法被姿の草履取り」として樺太に渡る機会を得た。樺太勤務の役人たちと連れ立って4月10日に江差を出発した。

日本海岸沿いに約一ヶ月かかって北端の宗谷に、この時案内役のアイヌの人たちと次第に親しくなりアイヌ語の習得に励んだ。宗谷の港に着いたのは5月17日、そこで一週間、風待ちをしました。

風を得て出航するが濃霧や波が荒く船酔い等難儀しながら、5月25日(陽暦6月18日)に樺太シラヌシ(自主)の運上屋たどり着き空腹を充たし体を伸ばして久しぶりの寝具で眠りにつきました。一行は更に樺太南部(マーヌイ、クシュンコタン)を巡察し、彼らと共に東西両海岸を踏破した。シラヌシに近いウエンチシ(遠知志)でアザラシの大群を見て驚き、山丹人との交易の様子なども見聞できた。

シラヌシから宗谷へ帰ったのは、7月16日(陽暦9月16日)であった。ここから武四郎は別行動をとり、アイヌの案内人一人を連れてオホーツク海沿いに枝幸,紋別を経て知床のルシャで投宿した。アイヌのチセ(家)で泊めて貰ったときは、夜中にも炉に火を消さず眠る武四郎を守って熊がよく出るからと寝ずに炉辺に火を焚いて守護してくれた。

昨年9月に建てた知床の標柱に藤田東湖作「玉鉾の みちのく超えて 見るほしき 蝦夷が島の雪のあけぼの」の一首を書き添えました。そして宗谷に戻り利尻、礼文島に渡り探査しました。

宗谷に戻り日本海岸を陸行し、石狩川を丹念に調べ丸木舟で千歳川を遡行ユウフツを経て9月上旬(陽暦10月上旬)江差に帰ってきました。

五ヶ月の探査行で武四郎は、商い場や運上屋、漁場そして内陸部の地形、アイヌ民族の生活、人柄、習慣、労働形態等など絵や文字にして詳細に記録しました。アイヌと同じ火で煮炊きし、同じものを食べ寒い時には一枚の熊の毛皮に共にくるまって寝ました。アイヌの人たちに好感をもって迎えられるようになりました。「人が人を知らずして、何で人の道をまっとうできましょう」武四郎は見事に実践に移したのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

初航…松前藩は八釜しい

弘化二年(1845)28才の武四郎は、春3月蝦夷が島に渡海したく津軽半島の港鰺ヶ沢に到達していた。江差の商人の斎藤佐八郎の手船に乗せて貰って津軽海峡の荒い波を超えて蝦夷にわたる。船の中では大波が来た時に備え、船乗りたちはみな海草で作ったみのを頭から被り、腰紐で互いを結んでいました。大波が押し寄せてくるたびに「船玉大明神,お頼み申す」と祈るのであった。

商人の佐八郎は土地では嫌われ者で通っていたのであるが、その倅の作左衛門が文人で旅の途次にある墨客を歓迎し親切にも宿まで厄介になりました。

武四郎は初めに西蝦夷地を調べようとセタナイ(瀬棚)の山岳霊場、太田神社に航海の安全と霊神の加護を祈願し久遠に入り奇岩が立ち並ぶ北海の奇観に驚きました。

セタナイの関所で余所者扱いで追い返されてそれより奥には入れませんでした。そこで武四郎は江差の人別帳に自分の籍を入れ、箱館の請負人白鳥新十郎や関所役人の猿田幾右衛門らと知り合いになり、和賀屋孫兵衛の手代として東蝦夷地に入り込むことができました。新十郎は京都で知り合いに成った白鳥雄三の父であった。彼らは関を通る手立てを取ってくれただけでなく、馬や宿の便宜まではかってくれました。

武四郎は手控(野帳)と矢立と羅鍼(針)に小さな行李と鍋それだけを両の肩に振り分けて歩いた。道すがら当別のカジカ,木古内のハマナス,吉岡のガノジ,大野のカハタビ、砂原のシンタラ、鷲ノ木の陣羽織等の名産名物を至る所で精力盛んに試みている。ヤムクシナイ(山越内)には、アイヌの馬乗りの巧みなこと、幣を家に立て天地の神に祭っていることなど尊きこと少なくないと野帳に筆を滑らしている。

クンヌイ(国縫)、アプタ(虻田)、ウス(有珠)、モロラン(室蘭)、ヌフリベツ(登別)の温泉を訪ねている。シラオイ(白老)ユウフツ(勇払)を経て日高路を海岸に沿ってサル(沙流)、シブチャリ(新日高)、ウラカワ(浦河)、シャマニ(様似)、エリモ岬を歩きトカプ(十勝)へ、そこからクスリ(釧路)を経てシレトコ(知床)まで行き「勢州一志郡雲津松浦武四郎」と大書きした標柱を建てました。

帰路、ネモロ(根室)へ寄りノシャフ(納沙布)岬に立ち、アッケシ(厚岸)会所に寄り箱館にもどたのが10月であった。

ひと月ほど松前に留まって様々な人々と交わる一方、城下を調査し、この時知り合いになった山田三川は、津の出身で当時松前藩に仕えていた。藩の内情を引き出すのに大変助けになった。

十一月、武四郎は手控や旅行中に得た地誌の類を詰め込んで笈を背負って江戸へ、帰途水戸に立ち寄り会沢正志斎を訪ねました。会沢は、水戸藩の尊皇攘夷論を体系づけた「新論」の著者で弘道館の初代総裁を勤めた。武四郎は、単に碩学の誉れ高い会沢の謦咳に接するだけでなく、蝦夷地に関心を持つ徳川御三家の水戸藩から若し何等かの庇護が得られれば、御国のため心強く有難いと密かに思っていたのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

蝦夷を目指し津軽へ

天保十四年(1843)26才の秋、10年ぶりで武四郎は伊勢の実家へ戻った。母の死の知らせがきっかけに、長崎で津川文作翁(蝶園)という博識の町人から紅夷(ロシア人)やアメリカの捕鯨船の南下によって北方に侵略の危機が迫っている話を聞いて蝦夷への旅を決意したのであった。

弘化元年(1844)2月、父母の法要を済ませ、還俗して伊勢神宮に参拝して蝦夷地を目指し出立しました。京都、大阪に立ち寄って北陸路を通り日本海を見ながら北前船の寄港地を巡って蝦夷地の情報収集しながら津軽を目指し歩きました。

9月12日、蝦夷地松前への渡海を目的に津軽半島の日本海に面した港町鰺ヶ沢に着いた。弘前藩随一の港である。ここから松前へ18里、江差へは26里と聞くが、江戸表にて蘭学に長じながら入牢を科せられた高野長英の小伝馬牢脱獄があって渡海の者に吟味甚だ厳しく思いが叶わなかった。

竜飛岬から湾内の海岸を歩いて下北半島へ向かい恐山を経て尻矢岬(尻屋崎)に達しさらに太平洋岸を南下して仙台藩領唐仁村で、来春蝦夷への入島すべき渡航の準備をしながら越年した。

武四郎は道中「伊勢の国、大神官様の在る処の者成るが、日本国中の高山を廻らんがため」旅をしていると「修行者」であること「伊勢出身」であることを看板にして歩いていた。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

長崎平戸で運命の出会い

当時の長崎は世界に開かれた唯一の日本の窓であり、情報基地であった。武四郎は「唐、天竺」に渡る手立てはないものかと機会を窺ていたのである。「唐人邸」「阿蘭陀館(出島)」の模様も調べながら、祭りのおくんち、蛇踊りにも好奇心を寄せていました。

23才の武四郎は、田助浦の天桂寺で住職として、また隣の宝曲寺の寺務も兼ねていました。船宿や遊女屋がある田助の湊近辺には北前船と呼ばれる弁財型の千石船が蝦夷地から西廻航路(日本海ルート)で田助浦に出入りする船が多かった。

平戸藩主松浦氏は、蝦夷の松前藩とも親交があり松前藩家老蛎崎波響の描いた夷尊列像やアイヌ民具等蒐めていました。北海道はその昔、「蝦夷(えぞ・えみし)」と呼ばれていました。「蝦夷」という漢字は、アイヌ民族がエビ(蝦)のようにヒゲが長く、夷(未開の異民族)だったことからあてられました。

昆布、鮑、海鼠の俵物は薩摩に運び琉球王朝そして清国と交易して薩摩藩は大きな富を得ていた。俵物を運ぶ千石船も田助浦に入り風待ち、避難港として碇をおろしていた。高台の寺から僧文桂(武四郎)は其の様子を目に焼き付けていました。

平戸島の千光寺に移り天保十三年九月、25才の武四郎は壱岐に渡り対馬沖に出漁する烏賊釣船に乗せて貰い対州に朝鮮半島が望まれる。異なる国に行って見たいという痛切な思いが疼いたが、国禁に杭うべくもなくむなしく夕日に浮かぶ朝鮮の山々を眺めて平戸島に戻りました。

天保十四年(1843)26才文桂武四郎は、長崎に行き清客蘭人と交わり異国の事情に精通している津川文作翁(蝶園)に会い「紅夷赤狄」が沿海を乗廻し測量しに上陸し云々・・・「北門の杞憂」を説かれ北に御国の人の入っている蝦夷の島がある。足掛かりはついてはいるというけれど未知未開の地らしい・・・180度の方向転換北が武四郎を必要としている。北方探検家武四郎の誕生である。文作翁に蝦夷を探検し北辺の様子を書信で送る約束をして長崎をあとに実家のある伊勢へ旅立ちました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

長崎で大患い平戸で住職暮らし

全国行脚も五年目となった天保九(1838)年、21才の武四郎は長崎で疫病に罹り高熱に苦しむが、土地の人々の温かい看病で一命を取りとめ、これが機縁となって本格的な仏道修行で般若心経を毎日読経する生活に入る。

九州での武四郎は、宝曲寺、天桂寺、千光寺と諸寺を転々としている。寺を根城に九州各地を歩き回っている。「九州之内薩摩領の外は深山幽谷、道ある処は深く入り海浜孤島も船通ふ処は到らざるなければ神社仏閣詣拝さざるはなし」と述べている。薩摩藩内は幕末のことで余所者に対する詮議が厳しくわずか三日で出国を余儀なくされた。

日向国高千穂の庄では、庄内十八里四方、谷間や山腹に一、二軒住居をなし、隣家といっても三、四町もあるような僻地である。祖母嶽に登りたく武四郎は、五ヶ所村の神主を訪ねて登山道の様子を聞いたところ「とんでもない、余り険し過ぎて土地の者でも春秋の祭日以外は登ることがない、やめなされ」という。それを無理に頼み込むと、神主が自ら山刀を脇挟み、火縄銃を用意して案内にたってくれた。岩角に胸突かれ、木の根にとりつき満身汗になって人の諌めも聞かず足を踏み入れたのは若気の誤りであった。身の恙無いことこそ幸せであると冒険談をする武四郎であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

諸国遍歴の旅

故郷に戻った武四郎に、父親は「農民は農民らしく身分相応に生きろ」と諭しました。それに対して武四郎は熱い思いを吐き出しました。「毎日食べるご飯や着る物、住む家はすべて庶民の手で作られたものです。庶民の力なくしてどうしてこの世が回りましょうか。私は庶民の子として、これから諸国の動きを知りたいのです。旅には生きた学問があります。人が人を知らずして、なんで人の道をまっとう出来ましょうか」思いかけず大人になっている息子に対して父親は「旅に出るといってもまだ17歳の若者、3ヶ月もすれば戻ってくるだろう」と旅立ちを許しました。しかし再び故郷の地を踏んだのはそれから10年後のことであり、両親に会うことは2度となかったのでした。

旅に出ることを許された武四郎は、京へ上がり本草・博物家の山本亡羊の私塾「山本読書室」に山野に自生する植物や小動物、昆虫など自然について学習しました。同塾には、大分の賀来飛霞も学んでいました。武四郎は仁科白谷(詩書に善く儒学者)等の数名の著名な学者、文人、画家を歴訪している。当時の知識青年が見聞を広める手段であった。門前払いもあったろうが、当って砕けろ精神で当代一流の人々を訪ね歩いて修行していた。

江戸では水野忠邦の屋敷で奉公したが、そこをしくじって「法体」になり文桂と名乗るお坊さんになりました。

武四郎は「我今より諸国遍歴せんとす。何を以って其の資を得べきや。画家たらんとするもその技拙なり、俳諧師が可なるも世に文盲多し、未だ糊口を充たす足らず、若しくは篆刻家たらんと、諸国を訪ねしも容易に師を得る能わず是を於いて発奮し自ら一本の鉄筆と一冊の印譜とを懐に飄然として浪華の街に下る」と述べている。

旅人にとって関所ほど厄介なものはない。御用のないものは通させぬ、厳しい関所にも抜け道があり、信仰のためのお坊さんは全国共通の通行手形みたいなものであった。お坊さんになった武四郎は、憑かれたように旅から旅えと関東の成田山、秩父の巡礼、四国八十八ヶ所、金毘羅山、京都奈良鎌倉の神社仏閣など遊歴を好んで山川を跋渉していかなる険もいとわず、不毛の地に入るときは日に二合の米を食して、生草生果の類、生魚、干魚等を多分に食し一日も病にさわり候こともなく、一帖の薬を服する事もなし身命堅剛であった。四年間畿内、東海道、東山道、山陽道、西海道、南海道を歩き登り降りしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

竹四郎行方知らず

竹四郎は津幡の平松楽斎塾に三年間の修学に努めました。16才いになった竹四郎は元服後幼名から武四郎なり天保4年1月16日退塾しました。そして江戸に下り大冒険の準備と情報収集をしてその後2~3年かけて全国を遊歴しようとする思いがありました。

安濃津の八丁長野屋(下宿先)で身の回りの整理をして柳行李に詰め、飛脚に頼んで親元に着払いで送りました。出奔といっても何もかも放りぱなしにする無責任さはない、実直律儀さは終生変わらぬ彼の性格ではあるが、若さゆえの無鉄砲な家出を敢行しました。

須川村から伊勢街道四日市の日永追分東海道を江戸へ102里、410キロほどもありました。小柄な武四郎(身長150cm.)は健脚の持ち主で、山二つの峠越えをわずか13日間で歩きました。

江戸に着いた武四郎は頼るべきところを親戚筋で幼友達周助の叔父さん、藤堂藩江戸屋敷に勤めていた中嶋磯五郎さんの家を訪ねました。突然のことで驚いた磯五郎さんでしたがしばらく預かる気になり、国許の兄中嶋半兵衛さんと連絡を取る際には武四郎は母へ内々このことをお話し下さいと頼んでいる。

江戸では、楽斎塾の末席で声の聞いたことのある山口遇所を訪ね篆刻の修業をしていました。

武四郎が「行方知れず」になって兄佐七は隠居した父に代わって武四郎探しの任に当り、連れ戻しに使いの金蔵を江戸へ向かわせた。金蔵も到着され、武四郎は3月2日に出立することになりましたが金蔵には文を持たせ先に帰し武四郎は一人中山道を回りで信州善光寺を参詣し、戸隠山に登って帰郷している。その時以来「木曾の山水、東海道の風景、目に在る故遊歴の志ざし止まず」と病みつきになたのである。

四日市に着くと幼友達の中嶋周助に「いま津の部田にいる、内々の話があるので夜になったら提灯をもって雲出川の常夜灯まで来て欲しい…」伝言。津まで帰ってきながら実家の敷居が跨げにくい武四郎、周助を誘い出して、父や兄の機嫌を探り周囲を気にしながら、夜が更けてから家に入ることにしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誕生と幼年期

北海道の名付け親、松浦武四郎は1818(文政元年・戊寅2月6日)伊勢国一志郡雲津の川南須川村(現在の三雲町小野江)に裕福な庄屋の紀州領郷士松浦桂介時春の四男として生まれました。父親は干支にちなみ寅と関わりの深い「竹」に四男の「四」をつけ「竹四郎」と名付けました。

松浦家は肥前平戸の藩主松浦家につらなり伊勢に移住して三雲町を流れる雲出川の上流、多気の城主北畠家に仕えて土着しました。

三重県の中央部を横断するように雲出川が流れ、旧参宮街道と交わるあたりに小野江があります。

雲出川は下流に豊かな水量と沃土をもたらし、穀倉地帯を作り上げている。土手や河原は竹四郎の幼児の格好な遊びや冒険の思い出の場であった。竹四郎がのちに雅号に多気志楼や雲津などを用いるのは、故郷への憧れと親しみからであろう。

7才にして村の真学寺で禅僧来応和尚に読み書きそろばんを手習いし、幼少の頃から「名所図会」という江戸時代の観光ガイドブック等好んで読んでいました。

松坂の国学者本居宣長や伊勢神道に造詣が深い文人の父親の影響を受け10才にして下記の歌を吟作している。

  『昨日から 日も定まりて 帰る雁』

13才の春、阿波国に端を発した文政のお陰参りが、大流行、自宅前の参宮街道(四日市の日永で東海道とわかれて伊勢神宮まで続く)を賑わせた。全国津々浦々さまざまな国訛りの旅人たちが目の前を往来し、竹四郎は「この街道は諸国につながっているのだ」と思いました。この年父親は2度も参宮に連れて行ってくれました。

この年の冬、津藩の平松楽斎の塾に入門し、3年ほど勉学に励み各地の地理誌や林子平の三国通覧等読み経世の志を起し諸国遍歴を抱くようになった。

楽斎先生は、10代藩主藤堂高兌(ふじどうたかわさ)に仕えた。小姓頭、槍奉行、郡奉行を務め、天保の飢饉には、民生家として手腕を発揮し、「救荒雑記」「食草便覧」を著し、飢えに苦しむ人々の救済にあたった。先生の塾には、猪飼敬所(いがいけいしょ)や梁川星巌(やながわせいがん)、足代弘訓(あじろひろのり)、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)といった当代一流の学者の逗留することが多く、竹四郎も聴講の席に座っていました。

そして、平松塾を訪れる高名な学者たちに大きな影響を受け学問を深めるには、諸国を巡り見聞を広めることが必要と感じるようになった。竹四郎は退塾し16才で家出までして江戸への初めての旅をします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2007年4月 »