天保六(1835)年、間宮林蔵(56歳)は、浜田藩領で椰子の実を眼にしたことがきっかけで蒐集した情報を、一刻も早く大坂町奉行矢部駿河守定謙につたえたかった。浜田藩の米蔵は大坂にあり、町奉行の管轄下にある。薩摩の抜け荷となんらかの関係があるかも知れないが、かれには浜田藩内独自の行為に思えた。四国の隠密調査も終り、室戸ノ鼻をまわって甲ノ浦についた。甲ノ浦は阿波国に近く、参勤交代をはじめ大坂へ赴く重要な港であった。林蔵は、大坂へむかう船に乗った。
林蔵は、大坂町奉行矢部駿河守に浜田藩のことを報告して江戸へもどったのは、五月中旬であった。かれは老中大久保忠真の下屋敷におもむいた。林藏は、隠密の旅の報告をした。海防については、捕鯨船の立ちまわらぬ日本海沿岸には異国船騒ぎがないことをつたえた。かれが、浜田藩領内に抜け荷の気配があることを伝えると、老中大久保はすでに知っていた。林藏がその情報を教えた大坂町奉行矢部定謙は、ただちに急飛脚で老中大久保に報せ、許可を得て隠密多数を浜田藩領内に放ったという。
天保六年十一月二十八日、川路聖謨(としあきら)が、林藏の直接の上司にあたる勘定吟味役に就任した。川路は、徒士の子として江戸に生まれ、小普請組川路三左衛門の養子になった。その後、神社奉行吟味物調役に進み、但馬国出石藩仙石氏のお家騒動の取調べにあたり、その処置がきわめて当を得たものとして高く評価された。老中大久保忠真は、三十六歳の川路が非凡な人物であることを認め、大抜擢をして吟味役に昇進させたのである。
川路は、海防関係を担当し、それには林藏の力を借りなければならなかった。かれは、初めて会った林藏が容易ならざる人物であることを見抜いた。川路は、視野の広い男で、西洋事情に深い関心と知識をもつ多くのすぐれた人物と親しく交っていた。伊豆韮山の代官江川英竜(太郎左衛門)、水戸藩士藤田東湖、大坂町奉行矢部駿河守定謙、三河国田原藩の江戸詰年寄役(家老)末席で、西洋の知識を積極的に吸収していた渡辺崋山らであった。
川路は、蝦夷地についての知識と異国の情景に豊かな知識をもつ林藏を深く敬愛して「先生」と呼び、林藏も二十歳近く年下である川路の識見を評価し、たちまち親密な間柄になった。自然に、川路を介して江川英竜、渡辺崋山らとの間に交わりもでき、江川や渡辺は林藏の話に耳をかたむけ、海防その他について熱っぽく意見を交し合った。川路は、林藏の死後、日記に、「われに奇を好むの癖あり、奇人を好む也。林藏・渡辺崋山の類也」として、奇人ーーー非凡な人と高く評価し、林藏が先見の明があったことを讃え、「間宮林蔵がいひしことなど実に思いあたるなり。林藏の非凡なることは、予も夙(つと)に之を知りたり。」と、追憶している。
天保七(1836)年、林藏は五十七歳になった。髪は白く、額には皺がきざまれていた。その頃、大坂町奉行矢部駿河守定謙から浜田藩領の情報がつぎつぎに江戸へ送られてくるようになった。矢部が前年の五月に浜田藩領内に潜入させた隠密たちは、林藏が指摘してように驚くべき抜け荷をおこなっていることを探知した。矢部定謙は、捕り方役人を派し、浜田で廻船問屋を営む会津屋八右衛門と船乗りの十助、半右衛門、新兵衛、さらに浜田藩士大谷作兵衛、三沢五郎右衛門、村井荻右衛門の七名を捕え、大坂に押送した。また、大坂の商人淡路屋善兵衛も召捕った。かれらは、投獄され、町奉行所で矢部定謙のきびしい吟味をうけた。その結果、かれらの自供によって抜け荷の全容があきらかになった。
会津屋八右衛門は船を仕立てて竹島に渡り、大量の竹材と海産物を持ち帰った。さらに藩の勘定方橋本三兵衛と相談し、江戸、大坂で日本刀を買い集め、それを輸出品として朝鮮人、中国人とも貿易をはじめ、さらに台湾、安南、呂宋まで渡航し、珍奇な産物を運び入れた。これによって八右衛門は莫大な利益を得、藩にも多額な運上金が差出された。林藏が浜田藩領で眼にした椰子の実は、南洋方面に行った八右衛門の船が持ち帰ったもので、航海を終えてもどてきった船乗りたちの顔が黒かったのは、南の海を乗り回していたからであった。
その結果、十二月二十三日、会津屋八右衛門と勘定方橋本三兵衛は死罪を申渡されて鈴ヶ森で首をはねられ、二十一名の者たちがそれぞれ役儀取上押込、押込、永牢、追放などの刑に処せられた。また、松平康任は永蟄居を命じられ、奥州棚倉にお国替えになって家督を継いでいた松平下野守康爵も叱責をうけた。この事件を重大視した幕府は、全国諸藩に対し、「異国渡海之儀ハ重キ御制禁ニ候」として、再び竹島事件のような違法をおかさぬようにという触書を、高札所にかかげることを命じた。竹島事件は、林藏の探索によって発覚し、かれの隠密としての鋭い勘と業績が高く評価された。
しかし、林藏の表情は暗かった.長い間、眼をかけてくれていた筆頭老中の小田原藩主大久保忠真が、天保八年三月息をひきとった。林藏の悲嘆は、激しかった。かれは、水戸藩の藤田東湖に、「小田原侯(大久保忠真)、逝く。我輩また力を致すべきやうなし」と、告げた。
『間宮 林藏』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋
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