最上徳内の略歴(後期)

寛政四年(1792年)、最上徳内(38歳)は樺太調査を命じられ、5度目の蝦夷上陸した。カラフトの地理的調査や、和人やロシア人の居住状況を調査し、鎖国の国法に接する松前藩のロシア、清国との密貿易や、アイヌへの弾圧も察知する。10月には松前へ戻るが、この年に、伊勢の船頭大黒屋光太夫ら日本人漂流民一行の返還のため、ロシア使節のアダム・ラクスマンが根室へ来航し、滞在を延期して越冬し、翌年には江戸へ戻る。

寛政五年(1793年)徳内(39歳)は、河川を通行する川船に対して課税する深川の川船役所への出仕を命じられる。徳内は関東地方の河川を調査して水系地図を作成し、効率化に務める。のちに山林御用に命じられる。

寛政十年(1798年)、老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し、徳内(44歳)は7度目の蝦夷上陸となる。幕臣の近藤重蔵の配下として、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請。このときに見分隊の総裁松平忠明と意見が衝突し、免職される。江戸へ戻った徳内は忠明の失策を意見書として提出、忠明に対して辞表を提出するが、忠明はこれを受け取らず公職のままとなる。

文化元年(1804年)徳内(50歳)は、山林御用を務め、この間に著述活動も行う。文化二年(1805年)徳内(51歳)は目付遠山金四郎景晋(かげみち)のもとで8度目の蝦夷上陸をした。

文政六年(1823年)に長崎出島へ来日したドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトは文政九年(1826年)オランダ商館長一行の将軍謁見に同行し江戸へ参府する。最上徳内(72歳)はシーボルトを訪問し、何度か会見して意見交換する。学術や北方事情などを話題に対談し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えてほか、アイヌ語辞典の編纂をはじめ日本研究に熱心なシーボルトに協力する。文政十一年(1828年)にシーボルトが帰国する際に国禁の日本地図を持ち出しが発覚し、シーボルト事件に至るが、徳内は追求を免れている。晩年は江戸の浅草に住み、天保七年九月五日(1836年10月14日)に死去。享年82歳。…合掌

著書に『蝦夷草紙』、アイヌの生活を記した『渡島筆記』、アイヌ語集『蝦夷方言藻汐草』など。

墓所は東京都文京区の蓮光寺。

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最上徳内の略歴(前記)

最上徳内は宝暦四年(1754年)、出羽国楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の農家の子として生まれ、江戸時代中後期の探検家。天保七年九月五日(1836年10月14日)に江戸の浅草に住み、享年82歳にてこの世を去る。

幼い頃は家業を手伝い、たばこの行商などをしつつ独学で学ぶ。父が死去し、天明元年(1781年)には徳内(27歳)江戸へ上京。奉公しつつ学び、1784年徳内(30歳)は本多利明の音羽塾に入門し、天文や測量、海外事情にも明るい師の利明の経済論などを学ぶ。長崎への算術修行も行っている。

この頃幕府ではロシアの北方進出や、蝦夷地交易などを目的に老中の田沼意次らが蝦夷地開発を企画し、北方探索が行われていた。天明五年(1785年)には師の利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内(31歳)を代役に推薦し、山口鉄五郎隊に人夫として属する。蝦夷地では青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索し、地理やアイヌの生活や風俗などを調査する。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されて国後島へも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌天明六年(1786年)には単身で再び国後島へ渡り、択捉島、得撫島(ウルップ)へも渡る。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触し、ロシア人のエトロフ在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞讃される一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒される。

同1786年に江戸城では10代将軍徳川家治が死去、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥される。松平定信が老中となり寛政の改革をはじめ、蝦夷地開発は中止となる。最上徳内(32歳)と青島は江戸へ帰還した。徳内(33歳)は1787年に再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法憧寺に住み込みで入門するが、正体が発覚して蝦夷地を追放される。徳内は野辺地で知り合った船頭の新七を頼り再び渡海を試みるが失敗、新七に招かれて野辺地に住み、天明八年(1788年)には酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となる。

寛政元年(1789年)、蝦夷地において、和人に虐待されていたアイヌが蜂起するクナシリ・メシナ事件が起こり、事態を知った徳内(35歳)は江戸の青島へ知らせる。真相調査のため派遣された青島は徳内を同行させ、徳内4度目の蝦夷地上陸となる。蝦夷地ではアイヌの騒動は収まっており、徳内らは宗谷など西蝦夷方面から東蝦夷方面を廻り調査した。江戸へ戻った青島は調査書を提出するが、幕府は青島らを蝦夷地における職務を離れた行動やアイヌとの交流を問題視し、青島は背任を疑われ、徳内とともに入牢する。青島は牢内で病死、徳内も病に冒されるが、師の本田利明らの運動で釈放され、寛政二年(1790年)徳内(36歳)は無罪となる。

同寛政二年(1790年)には普請役となり、幕府が松前藩に命じていたアイヌの待遇改善が行われているか実情を探るため、蝦夷地へ派遣される。5度目の蝦夷地上陸では、クナシリ、エトロフからウルップ北端まで行き、各地を調査した。交易状況を視察し、量秤の統一などを指示、アイヌに対して作物の栽培法などを指導し、厚岸に神明社を奉納して教化も試みる。また、ロシアが日本人漂流民を送還するために渡航するという噂を得る。

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近藤重蔵の総蝦夷地御要害之儀

文化四年(1807年)、ロシア船による樺太襲撃の報告についで択捉島襲撃の報告を受けた幕府は、6月6日、重蔵(36歳)に対して蝦夷地御用の出張を命じた。箱館から西蝦夷地の海岸を北上し宗谷(稚内市)まで行った重蔵は、樺太のアイヌを召集して事情を取調べ、帰途、天塩川と石狩川を巡歴して12月8日に帰府した。そして15日には11代将軍家斉の御目通りを得て特例の褒詞を賜り、ついで蝦夷地将来警衛のことについての御下問があった。

これに対して重蔵は、総蝦夷地の中央に要害を立て四方へ道路を開くこと、要害の場所としては石狩川筋カバト山または浜通りタカシマ・ヲタルナイの奥またはイシカリサツホロの西テンゴ山の辺りが適当と考えること、国土経営の基本は穀物の生産と道路の開設でこの二つは第一になすべき務めであることなどを述べ、さらに道路について、石狩川筋などの内陸に大道を開設し、89里ごと薪水の良い所に旅宿を設け、おいおい四方の海岸まで道路を開けば、3年を出ずして道路は四通八達する、などとする「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」を提出した。

翌文化五年(1808年)2月30日、重蔵は栄転して書物奉行となり、3月16日には先の西蝦夷地出張の褒美として金一枚を拝領した。書物奉行の役目は江戸城紅葉山文庫の管理であるが、重蔵は日夜文庫の図書を閲覧し、在職した11年の間に膨大な数の著書を残した。

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近藤重蔵と択捉島開拓

寛政十一年(1799年)の元旦をエトモで迎え、有珠へ移って逗留していた松前蝦夷地御用取扱近藤重蔵(28歳)のもとへ江戸からの帰府命令が届いた。直ちに有珠を出発した重蔵は、2月26日、江戸に到着した。すでに幕府は、東蝦夷地ウラカワ(浦河町荻伏)以東の7カ年間上知を決定し、異国境取締りの御用を目付羽太正養(はぶとまさやす)、大河内政寿ら5人に命じていた。そして3月10日、これに従う官吏として重蔵、最上徳内らを含む約70名が任命され、重蔵は普請役元締山田鯉兵衛とともに「択捉島掛り」を命じられた。(羽太正養『休明光記』)

つづく3月15日に勘定役に任命され栄進を大いに喜んだ重蔵は、在宅わずか23日にしてふたたび江戸を離れた。鯉兵衛とともに択捉島を目指す重蔵は、厚岸でたまたま寄港した高田屋嘉兵衛と出会い、ともに国後島の安渡移矢まで行った。しかし風雨と霧にはばまれて択捉島渡海の見通しが立たない重蔵は調査を高田屋嘉兵衛に托し、この年、重蔵は様似で、鯉兵衛は勇払で、それぞれ越冬した。

翌寛政十二年(1800年)三月、手船辰悦丸(1500石積)に乗った嘉兵衛は、図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して様似に入港した。重蔵は鯉兵衛とともにこれに乗って直ちに出帆し、国後島を経て択捉島の丹根萌に上陸した。

ここで重蔵は、高田屋嘉兵衛に命じて漁場17ヶ所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜郡など7郷と25村の名称を定めた。

択捉島開拓のことに一段落をつけた重蔵は、12月に江戸に帰ったが、翌享和元年(1801年)は2月から11月まで、つづく享和二年は4月から12月まで、それぞれ択捉島へ渡って異国境取締りの御用を勤めた。

享和三年正月二十五日、重蔵は小普請奉行配下の小普請方への転任を命ぜられたが、12月には「御目見(おめみえ)以上」の格式を与えられ、以後、将軍への御目通りが許されることとなった。

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近藤重蔵の略歴

近藤重蔵【明和八年(1771年)-文政十二年六月十六日(1829年7月16日)】は、江戸時代後期の幕臣、探検家。守重、号は正斎・昇天真人。御先手組与力近藤右膳守知の三男として生まれ、間宮林蔵、平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれた。

重蔵は江戸駒込に生れる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼少の時から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残している。

父の隠居後の寛政二年(1790年)に御先手組与力として出仕。火付盗賊改方として勤務。寛政六年(1794年)湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。寛政七年(1795年)長崎奉行手付出役、寛政九年(1797年)江戸に帰参し支払勘定方、関東郡代付出役と栄進した。

幕府に北方調査の意見書を提出して寛政十年(1798年)に松前蝦夷地御用取扱。四度蝦夷地へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献した。蝦夷地調査、開拓に従事し、淡路の商人高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させる。

享和三年(1803年)譴責により小普請方。文化四年(1807年)ロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入りした。その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索した。江戸に戻り、将軍徳川家斉に謁見を許される。その際札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた。

文化五年(1808年)に江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。しかし自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、文政二年(1819年)に大阪勤番弓矢奉行に左遷。文政四年(1821年)に小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居した。

文政九年(1826年)に長男の近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となり、連座して近江国大溝藩に預けられる。文政十二年(1829年)に没、享年五十九歳。 …合掌…

死後、万延元年(1860年)赦免。著作に『清俗紀文』、『安南紀略』、『外藩通書』など。

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間宮林藏逝く

天保十一(1840)年六月中旬、勘定吟味役川路聖謨の使いの者が来て、川路が江戸を離れることを知った。川路は、すぐれた業績が認められ、佐渡奉行に栄進したのである。川路は、七月十一日に江戸を立って佐渡へ向った。その年の十一月下旬には、津の藤堂藩の儒者である斉藤拙堂から初対面の挨拶をされた。林蔵は問われるままに斉藤とその知人を前に海防論を説いた。斎藤たちは、敬意にみちた眼で、林藏の話に耳をかたむけていた。

翌天保十二(1841)年四月、失脚していた矢部定謙が南町奉行に返り咲いた。老中水野忠邦のはからいによるもので、矢部の使いの者が林藏(62歳)にそれを伝えた。親しい矢部の復帰は、林藏にとって朗報であった。五月十五日、将軍家慶は、老中水野忠邦の意を入れ、老中を集めて幕政の大改革(天保改革)を告げ、役人の腐敗、無気力を誡め、奢侈を禁じた。その年の十月、林藏は、永蟄居の刑をうけて故郷の田原にあった渡辺崋山が自刃したことを耳にした。それにつづいて南町奉行矢部定謙が、目付鳥居耀蔵によって職を追われたことも知った。崋山が捕えられたのも、鳥居の告発によるもので、崋山、定謙と親交のある開明派の川路聖謨が、鳥居によって災いをこうむるおそれもあった。鳥居は、老中水野忠邦の推挙のもとに定謙に代って南町奉行に就任した。かれは、忠邦の天保改革を徹底した方法で実行に移した。

天保十三(1842)二月十七日、戸川播磨守安清が上司の勘定奉行に就任した。戸川は、林藏(63歳)の業績を高く評価していて、着任後すぐに見舞いの品物を届けさせた。七月二十四日、幕府は異国船に対しての扱いをあらためる薪水給与令を発した。文政八(1825)年以来、幕府は渡来した異国船を理由のいかんを問わず打ち払うべしと命じていたが、薪や水をあたえて穏便に退去をうながすことにあらためた。これについて南町奉行鳥居耀蔵は反対したが、伊豆代官江川英竜が強く支持し、老中水野忠邦は江川の主張を容れて発令したのである。林藏は、その改革を喜んでいた。清国はアヘン戦争でイギリスに侵略され、長崎のオランダ商館を通じて、イギリスの次の侵略国は日本だという情報がしきりだった。それに恐れをいだいた幕府は、異国に侵略の口実を与えぬため穏便な方法をとったのだ。その発令後、林藏に対して勘定奉行戸川播磨守を通じて老中水野忠邦から、林藏の所持する樺太から東韃靼におよぶ地域の自製の地図を写して差出すようにという命令があった。幕府は薪水給与令とともに、防備の強化を考え、殊に北辺の地勢を十分に熟知する必要を感じたのである。

天保十五(1844)二月二十四日、おりきの知らせで郷里から本家の当主浦七、狸淵村名主飯沼甚兵衛、生家をつぐ哲三郎が来て、おりきとともに林藏を見守った。林藏は、時折り眼をあけ、浦七たちが声をかけるとかすかに反応をみせたが、すぐに眼を閉じる。二十五日の朝から、林藏の意識は失われた。医者が呼ばれ、心音が極端に衰えていることがあきらかになった。翌日の夕刻、林藏の呼吸は間遠になった。医者の指示で、死水が唇に濡らされた。やがて呼吸は絶えた。医者は臨終を告げた。享年六十五歳であった。…合掌…

シーボルトの「ニッポン」には、日本から持出された林藏の「東韃地方紀行」なども収録され、林藏の名は、シーボルトによって世界的に知られるようになった。また各国語に翻訳されたゴローニンの「日本幽囚記」にも林藏についての記述があり、かれのことはヨーロッパ人の間にひろがった。シーボルトの命名になるMamiya-seto(間宮海峡)という名称が不動のものになったのは、1881年(明治十四年)に刊行されたフランスの地理学者エリゼ・ルクリュの「万国地誌」第六巻「アジア・ロシア」によるものであった。これによって、世界地図の地名に、日本人としてただ一人林藏の名が刻まれたのである。明治三十七年四月二十二日、東京地学協会の申請にもとづいて、林藏に正五位が贈られた。 [完]

『間宮 林藏』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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幕府非難…崋山、長英は投獄

天保八(1837)年二月、大坂で大塩平八郎の乱が起こり、人心は動揺した。間宮林蔵は、浅草俵(田原)町に住んでいたが、以前住んだことのある深川の冬木町に再び転居した。五十八歳になったかれにとって、老中大久保忠真の死は大きな痛手になった。一介の普請役にすぎぬ自分を、大久保はしばしば身近に招き、異国事情について熱心に耳を傾けてくれた。林藏が、一時、シーボルト事件の密告者として白眼視された時も、大久保は慰めの言葉をかけ、厚遇することを変えなかった。自分が今まで仕事をつづけてこられたのは、大久保がいたからだ、と思っていた。

伊能忠敬の親類筋の水守章作が、勘定奉行矢部駿河守に林藏が病臥していることをつたえたので、吟味役川路聖謨をはじめ奉行所の者たちが見舞いに来た。林蔵は、かれらの口から、その年の六月二十八日、アメリカ船モリソン号が浦賀に入港し、浦賀奉行が砲撃を命じて追い払ったことを耳にした。林藏は、その話に落着かなかったが、奉行所に行ける状態ではなく、終日、身を横たえていた。病臥しながら世情の動きを見つめていた。アメリカ船モリソン号の来航に衝撃をうけた筆頭老中水野忠邦は、江戸湾防備の強化を企て、革新的な開明派である川路聖謨、代官江川英竜らに意見を問うた。川路、江川らは、林藏のもとに使いの者を出し、それに対する意見を乞い、林藏は進歩的な開明思想をつたえた。江川英竜と対立する洋学嫌いの目付鳥居耀蔵の発言力が、急に増してきているようであった。

天保十(1839)年、林藏は還暦を迎えた。昔伊能家で顔見知りの女を、炊事、掃除、洗濯の身の回りの用で雇入れたが、押しかけ女房きどりのおりきの助けを借りて水戸斉昭公から贈られた薬を発疹のできた部分に塗りつけた。それは思いがけなく効果があって、発疹も目にみえて小さくなった。その上、発熱することも稀になり、頭と腰の痛みもうすらいだ。

その年の五月、林藏は、訪問者の口から一つの悲報を耳にした。川路聖謨を介して親交を結んでいた渡辺崋山が、北町奉行所に捕えられ投獄されたという。崋山は、西洋の新知識を交換する尚歯会の事実上の盟主として、町医師高野長英、蘭学者小関三英、勘定吟味役川路聖謨、代官江川英竜らとともに会合をもっていた。崋山は「慎機論」長英は「夢物語」を著わし、来航したアメリカ船モリソン号を幕府が砲撃で撃退したことを批判し、時勢のおくれた鎖国政策を頑なに守ることは、かえって外国の侵略を招く恐れがある、と警告した。この著書が、洋学嫌いの目付鳥居耀蔵を刺激し、鳥居は、老中水野忠邦に告発状を出し、崋山と長英を捕えたのである。逮捕を恐れた小関三英は、自殺した。林藏は、親しい川路聖謨と江川英竜も鳥居耀蔵に敵意をいだかれているので、川路たちの連坐を恐れていたが、幸い難はまぬがれたようであった。その年の暮れ、渡辺崋山に永蟄居、高野長英に永牢が申渡されたことを知った。

林藏は、若い頃、異国船を容赦なく打ち払うべきだと信じていたが、いつの間にか進歩的な開明思想をいだくようになり、さらに川路聖謨、江川英竜らと親しくなるにつれて、それはゆるぎない信念になっていた。日本近海で操業する欧米の捕鯨船との摩擦は、それらの異国に日本侵略の理由をあたえるきっかけになる、と憂慮していた。川路が、部下である林藏を先生と呼び、崋山も親しく近づいてきたのは、林藏の主張に敬意をいだいていたからであった。林藏は、崋山が永蟄居を命じられたことを悲しんだ。

『間宮 林藏』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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石見国浜田藩の密貿易…竹島事件

天保六(1835)年、間宮林蔵(56歳)は、浜田藩領で椰子の実を眼にしたことがきっかけで蒐集した情報を、一刻も早く大坂町奉行矢部駿河守定謙につたえたかった。浜田藩の米蔵は大坂にあり、町奉行の管轄下にある。薩摩の抜け荷となんらかの関係があるかも知れないが、かれには浜田藩内独自の行為に思えた。四国の隠密調査も終り、室戸ノ鼻をまわって甲ノ浦についた。甲ノ浦は阿波国に近く、参勤交代をはじめ大坂へ赴く重要な港であった。林蔵は、大坂へむかう船に乗った。

林蔵は、大坂町奉行矢部駿河守に浜田藩のことを報告して江戸へもどったのは、五月中旬であった。かれは老中大久保忠真の下屋敷におもむいた。林藏は、隠密の旅の報告をした。海防については、捕鯨船の立ちまわらぬ日本海沿岸には異国船騒ぎがないことをつたえた。かれが、浜田藩領内に抜け荷の気配があることを伝えると、老中大久保はすでに知っていた。林藏がその情報を教えた大坂町奉行矢部定謙は、ただちに急飛脚で老中大久保に報せ、許可を得て隠密多数を浜田藩領内に放ったという。

天保六年十一月二十八日、川路聖謨(としあきら)が、林藏の直接の上司にあたる勘定吟味役に就任した。川路は、徒士の子として江戸に生まれ、小普請組川路三左衛門の養子になった。その後、神社奉行吟味物調役に進み、但馬国出石藩仙石氏のお家騒動の取調べにあたり、その処置がきわめて当を得たものとして高く評価された。老中大久保忠真は、三十六歳の川路が非凡な人物であることを認め、大抜擢をして吟味役に昇進させたのである。

川路は、海防関係を担当し、それには林藏の力を借りなければならなかった。かれは、初めて会った林藏が容易ならざる人物であることを見抜いた。川路は、視野の広い男で、西洋事情に深い関心と知識をもつ多くのすぐれた人物と親しく交っていた。伊豆韮山の代官江川英竜(太郎左衛門)、水戸藩士藤田東湖、大坂町奉行矢部駿河守定謙、三河国田原藩の江戸詰年寄役(家老)末席で、西洋の知識を積極的に吸収していた渡辺崋山らであった。

川路は、蝦夷地についての知識と異国の情景に豊かな知識をもつ林藏を深く敬愛して「先生」と呼び、林藏も二十歳近く年下である川路の識見を評価し、たちまち親密な間柄になった。自然に、川路を介して江川英竜、渡辺崋山らとの間に交わりもでき、江川や渡辺は林藏の話に耳をかたむけ、海防その他について熱っぽく意見を交し合った。川路は、林藏の死後、日記に、「われに奇を好むの癖あり、奇人を好む也。林藏・渡辺崋山の類也」として、奇人ーーー非凡な人と高く評価し、林藏が先見の明があったことを讃え、「間宮林蔵がいひしことなど実に思いあたるなり。林藏の非凡なることは、予も夙(つと)に之を知りたり。」と、追憶している。

天保七(1836)年、林藏は五十七歳になった。髪は白く、額には皺がきざまれていた。その頃、大坂町奉行矢部駿河守定謙から浜田藩領の情報がつぎつぎに江戸へ送られてくるようになった。矢部が前年の五月に浜田藩領内に潜入させた隠密たちは、林藏が指摘してように驚くべき抜け荷をおこなっていることを探知した。矢部定謙は、捕り方役人を派し、浜田で廻船問屋を営む会津屋八右衛門と船乗りの十助、半右衛門、新兵衛、さらに浜田藩士大谷作兵衛、三沢五郎右衛門、村井荻右衛門の七名を捕え、大坂に押送した。また、大坂の商人淡路屋善兵衛も召捕った。かれらは、投獄され、町奉行所で矢部定謙のきびしい吟味をうけた。その結果、かれらの自供によって抜け荷の全容があきらかになった。

会津屋八右衛門は船を仕立てて竹島に渡り、大量の竹材と海産物を持ち帰った。さらに藩の勘定方橋本三兵衛と相談し、江戸、大坂で日本刀を買い集め、それを輸出品として朝鮮人、中国人とも貿易をはじめ、さらに台湾、安南、呂宋まで渡航し、珍奇な産物を運び入れた。これによって八右衛門は莫大な利益を得、藩にも多額な運上金が差出された。林藏が浜田藩領で眼にした椰子の実は、南洋方面に行った八右衛門の船が持ち帰ったもので、航海を終えてもどてきった船乗りたちの顔が黒かったのは、南の海を乗り回していたからであった。

その結果、十二月二十三日、会津屋八右衛門と勘定方橋本三兵衛は死罪を申渡されて鈴ヶ森で首をはねられ、二十一名の者たちがそれぞれ役儀取上押込、押込、永牢、追放などの刑に処せられた。また、松平康任は永蟄居を命じられ、奥州棚倉にお国替えになって家督を継いでいた松平下野守康爵も叱責をうけた。この事件を重大視した幕府は、全国諸藩に対し、「異国渡海之儀ハ重キ御制禁ニ候」として、再び竹島事件のような違法をおかさぬようにという触書を、高札所にかかげることを命じた。竹島事件は、林藏の探索によって発覚し、かれの隠密としての鋭い勘と業績が高く評価された。

しかし、林藏の表情は暗かった.長い間、眼をかけてくれていた筆頭老中の小田原藩主大久保忠真が、天保八年三月息をひきとった。林藏の悲嘆は、激しかった。かれは、水戸藩の藤田東湖に、「小田原侯(大久保忠真)、逝く。我輩また力を致すべきやうなし」と、告げた。

『間宮 林藏』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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海岸防備と各藩の政情

天保五(1834)年、間宮林蔵(五十五歳)は、老中大久保忠真から柑本兵五郎に従って蝦夷地巡見にむかうよう命じられた。大久保は、徳川斉昭から蝦夷地の警備を松前藩に任せておくのは心もとなく水戸藩に一任して欲しいという願書をうけたので、松前藩の警備状況の実態を把握する必要を感じ、巡見使の派遣を思い立ったのである。また大久保は、林蔵に、巡見を終えた後、奥州から山陰、さらに九州をへて四国の海岸線をひそかに探索するよう命じた。それは、海岸防備と各藩の政情その他をさぐる隠密の旅であった。

十月上旬、林蔵は柑本兵五郎に従い、役人姿で駕籠に乗って江戸を出立した。蝦夷地、伊豆七島につぐ柑本との旅であった。松前についた柑本は、その地にとどまって松前藩から警備状況を聴取した。林蔵は、弟子の同心今井八九郎と新谷文作を従えて実地調査をし、海岸線の測量もおこなった。林蔵の巡見は、普請役としての公然とした仕事で、かれの行先には先触れがされていて、丁重なもてなしを受けた。すでに雪が深かったが、今井も新谷も雪中の旅にはなれていて、案内のアイヌたちと林蔵に従って精力的に動いた。

天保六年、林蔵の巡見の仕事も終り、それを報告書にまとめて柑本兵五郎に提出した。林蔵の調査した松前藩の警備状況は心もとないもので、藩士たちの士気もきわめて低かった。柑本の顔には憂慮の色が濃かった。林蔵は、柑本に人払いを頼み、老中の密命をうけて日本沿岸を九州方面まで隠密の旅をすることを柑本に打明け、刀と衣服を江戸へ持ち帰って欲しいと依頼した。

老中大久保忠真からこの度の隠密の旅に課せられた使命に、薩摩藩がおこなっているらしい中国、朝鮮との抜け荷(密貿易)の実態を探ることもふくまれていた。すでに幕府は、多数の隠密を薩摩藩領内に潜入させていたが、林蔵も、海防調査とともにその探査をおこなうように命じられていた。抜け荷の噂のある薩摩藩領なら、椰子の実を眼にすればやはり噂は事実かと思うが、そのような噂もない浜田藩領内で眼にするのは不可解であった。もしかすると、薩摩の船が浜田藩の主要港である松原浦に入り、ひそかに抜け荷の品を売っているのかも知れなかった。もしも、そうだとすれば、薩摩藩の抜け荷の規模は想像以上に大きく、それを確かめることは大きな意味がある、と思った。林蔵は、浜田藩の城下町である浜田に入り、宿をとった。

入念な探査をつづけ、松原浦にほとんど例をみない大船が出入りしてしていることも耳にした。それは、廻船問屋会津屋八右衛門の持船であるという。遠洋航海は、普通の千石船では不可能だが、大船なら可能である。林蔵は、松原浦に足を向けた。話をきいた大船は碇泊していなかったが、西廻り航路の重要な寄港地らしい良港で、異国へむかう船の基地にふさわしい港のように感じられた。かれは、確実になにかある、とひそかに思った。

翌朝は寒気がきびしく、宿を出立すると浜田をはなれ、道を急いだ。萩を過ぎ、千崎に至って船に乗り、海を渡って豊前小倉についた。その地に一泊し、翌朝、木屋ノ瀬をへて飯塚で宿をとった。かれは足を早めて街道を進み、久留米をへて細川五十四万石の熊本に至った。それより海岸線づたいに八代、日奈久、佐敷をへて水股に入った。いよいよ薩摩藩領に入るが、その国境に野間関がある。藩の関所は、藩内の物資の流出をふせぐと同時に入国のする者を調べるが、薩摩藩は諸藩の中でも最も入国者に対する取調べがきびしかった。薩摩藩は幕府の隠密の入るのを極度に警戒しているが、五十六歳の林蔵が隠密であるとは思えず、旅の俳諧師として怪しむこともなかったのだろう。薩摩藩の抜け荷(密貿易)は、早くから噂にのぼっていた。

林蔵は、海岸線を歩き回り、風聞どおり抜け荷がおこなわれていることを察知した。薩摩藩が琉球国へ輸出するのを許されている品目は、反物、器物、国産の煙草、紙類などにかぎられているが、鮑、昆布、煎海鼠(いりこ)なども輸出している気配があった。それらの海産物は長崎での中国向けの重要な輸出品で、長崎の貿易活動に重大な打撃を与えていることが察しられた。林蔵がそれに気づいたのは、薩摩の船が北国方面にしきりに赴き、海産物を載せて帰ることを繰返していることを知ったからであった。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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林蔵、水戸藩主と接触

天保四(1833)年、林蔵(54歳)のもとに水戸藩から接触の手が伸びた。仲介したのは、水戸藩彰考館員の酒井市之丞(画家横山大観の祖父)であった。酒井は伊能忠敬の門人で、水戸藩領でさかんに測量をおこなって地図作成につとめ、林蔵とも面識があった。藩主徳川斉昭が林蔵に会って話を聞きたいと望んでいるということだった。徳川御三家の一つである水戸藩の藩主が、下級役人の自分に何を尋ねるのか、かれには察しがつかなかったが、酒井とともに小石川の藩邸に行った。かれが広い部屋で控えていると、徳川斉昭公が藩士とともに出てきて座った。その中には斉昭の信任厚い藤田東湖や彰考館館員友部好正もいた。東湖が、かれを呼び寄せた事情について説明した。

水戸藩では、異国船の出没を憂いて海防意識が強く、殊に蝦夷地に対しての関心が大きかった。文化四年にロシア艦来襲事件が起こった折には、秋葉友右衛門、奥谷新五郎を箱館に派遣して実情を調査させた。斉昭公は、蝦夷地について正確な知識を得たいと考え、それを与えてくれる人物を物色していた。前年の四月二十三日に水戸藩に招かれ英語の辞書の作成につとめていた蘭学者青地林宗が、林蔵を推薦した。林宗は、ゴローニンの「日本幽囚記」を「遭厄紀事」として翻訳した関係から、林蔵の蝦夷地についての見識を高く評価していたのである。

林蔵は、斉昭公に問われるままに、文化四年、エトロフ島でロシア艦の来襲をうけた折の体験を述べた。斉昭公は、ロシア側の武器、戦法などについて執拗に質問した。そのいずれもがロシア側の方が圧倒的にすぐれていた、と答えた。斉昭公の蝦夷地についての質問は、多方面にわたった。アイヌの生活、信仰、和人との関係、蝦夷地の気象状況、動植物、生産物、道路、航路、商業、農漁業、風俗などをたずね、それについて林蔵が答えると、克明に記録させた。

天保五(1834)年、間宮林蔵は五十五歳になった。シーボルト事件の密告者であるという噂は、月日の経過とともに消えるかと思ったが、逆に疑いのない事実として定着していた。洋学を学ぶ者たちの林蔵に対する憎悪と恐怖は激しく、林蔵の姿を見ると顔色を変え、あわただしく立ち去る。家の近所の者たちも、密告者であるとともに隠密であることを知り、おびえたような眼を向けてくる。林蔵は、そうした空気がわずらわしく、転居を繰返していた。

林蔵は、藤田東湖らの話を聞いているうちに、ようやく斉昭公の真意をつかむことができた。水戸藩では、蝦夷地を松前藩にまかせるべきではなく、その経営と警備を水戸藩がおこなうべきだという意見が強く、斉昭公もそれに賛成した。徳川御三家の尾張、紀伊の両家に比べると、水戸家の禄高は少なく財政が窮乏していたので、蝦夷地の開拓、経営によって経済的な打開を試みようと考えている。それを幕府に請願するためには、あらかじめ蝦夷地に対する正しい知識を持つ必要があり、蝦夷地の事情に通じている自分に教えを求めていることを知った。水戸の斉昭公は、林蔵を重宝がって定まった謝礼を与え、優遇した。

『間宮 林蔵』 吉村 昭著(講談社文庫)より抜粋

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